19「今日はね、ジグソーパズルをしたの」
「今日はね、ジグソーパズルをしたの」
と、帰宅すると咲実は云った。帰省中のベッドとして使っている、リヴィングのソファであくびをしている。
「そんなのうちにあった? 何ピースの?」
「千ピースよ。スヌーピーが緑色のキッチンでクッキーを焼いてるやつ」
ふうん、とわたしは髪を梳きながら、疑わしさを込めて云う。冷房が吐き出している冷たい空気の匂い。
昔からわたしたちはふたりともジグソーパズルが好きだった。殆どはキャラクタの柄で-──スヌーピーの柄のものも実際持っていた──、難易度は低く、三百か五百ピース、たまに千ピースのものがあった。パズルは広げると、邪魔になる、と云って母が怒るので、大抵は玄関に通じる廊下でした。床に座り込んで、スカートが捲れあがるのも気にせず熱中した。けれどもそのうちのひとつも、ここには持ってきていない。
咲実の帰省中はこういうことはたまにあって、今日キャベツ人形の服が随分汚れていたからね、などと咲実は云い出したりする。水洗いしたの、ピンク色が褪せそうだから、日陰に干したわ。部屋のなかには勿論、幼い頃持っていたキャベツ人形などいなくて──おそらく実家の応接間にあるはずだ、まだ捨てられていなければ──、ただわたしはかつてこの手で抱いていたその人形に思いを馳せる。家具屋で売っていたキャベツ人形。オレンジ色の花の絵のついた洒落た湯飲みと急須のセットとか、ELLEのチェックのハンカチのこととか。
しばらくして咲実はソファの上で眠ってしまった。
咲実の仕上げたジグソーパズルはいったい何処にあるんだろう。とわたしは髪を梳かしながら考えていた。今日作ったのだろうか。彼女の髪──ぱっつりと切り揃えた前髪と、長い後ろ髪──は、何かに似ている。
わたしたちの記憶。わたしたちの嘘。
記憶のコラージュ。
わたしは夏掛けの下で。眼を開けている。
バイクの集団の高い恐ろしい轟音が表通りを通り抜けてゆく音がして、そのときだけ身を固くする。息を詰めて耐えていると、それを過ぎたあとはまた明かりを消した部屋の、薄墨のような闇。
考えないでいよう、と思いながらもわたしは考え始めてしまう。考えれば最後、沼に足をとられるように無気味な鈍さで心が沈んでゆくことは分かりきっているのに。
両親のことを考えていた。家を出たのは大学に入った時だ。大学は他府県ではなかったし、家を出る必要などなかったのだが、ほかのひとの機嫌に左右される場所にそれ以上住みたくないと思ったのだ。と同時に、わたしは両親を拒否したのだと思ってその罪悪感にうちのめされた。
自分がもう今まで住んでいた家には、もう永久に戻れない。訪れることはできても、例え再び住むことはできても、それまで居た過去に帰ることなどできない。
以前なら、幼いわたしは帰ってゆけると信じていた。何処へいっても。帰ってゆく場所がある。今は違う。生まれ育った家庭から、わたしは逃げてしまった。だからもう、わたしには帰り場所が無い。ただ思い浮かべるのは、咲実が最期に住んでいた家や、幼い頃夏を過ごした祖父母の家だ。もう存在さえないのに、どうしてそんなふうに思えるのだろう。
過ぎ去ったことだけが永久に所有できる。そして永久に戻れない。
生きている時間さえをも非日常だとおもう。だって生きていないあいだの方が、あっとうてきに長いのだから。この世を去るときだけが、帰ってゆく時だ。この世に帰る場所なんてない。
咲実が死ぬ何年も前に、わたしたちはふたりとも家を出て、そして殆どとそこを訪れなかった。両親のことを思うと苦い気持ちになる。彼らは咲実を失い、わたしもそれ以来実家に足を向けていない。離縁をはっきりと叩き付けたわけでなく、わたしたちはただ、巧妙に、正当に、逃亡したのだ。でも今でも、縁を切る、という言葉を聞くと、心がぎゅっと痛む。
戻れはしない。その場所をわたしは捨てたのだ。自由が欲しかったのだ。なのに、こんなに心細く、後ろめたく、かなしくなるのは何故だろう。
人生は、孤独と絶望の、死に至る病。目を閉じて膝を抱えても、考えないようにするのはむずかしい。この世界のこの場所に座っている、この違和感は何処からきたものだろう。わたしは震える。呟き続ける。わたしは心のなかで両親に、赦免を求め続ける。
──ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。
耳元では何かの警告音が鳴り響いている。
非常ベルのような耳障りなざらざらした金属音は、やがて警鐘に変化した。
踏み切りの赤いランプ、赤い。規則正しいけれど微かに伸びる警告音、かんかんかん。かんかんかんかん……。
眼を閉じるのはときに同時に、あたまのなかに向けて眼を開く行為だと思う。世界は見えなくなり、裏側にあるもうひとつの世界。限りなく広がるイメージ。脳のなかは青かった。鏡のようになめらかな、青い空を見た。
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