16 ただいまサクちゃん。咲実の声は細くて、
ただいまサクちゃん。
咲実の声は細くて、ときどき少しだけ掠れる感じが印象に残る。夕暮れのあとのうす青に染まった空気のように、どうしよう、と思わせる。どうしよう。すぐに失われてしまう。どうしよう、どうすれば留められるだろう、と。
咲実がお風呂に入っているあいだ、ぼんやりと廊下に座って考えていた。お風呂場から咲実のはなうたが聞こえてきて、思わず微笑む。あの声が、歌う時だけは意外にひくいのだ。行き当たりばったりな選曲。彼女の声に合わせて小声で歌ってみた。融けて消えるSNOW DOLL 石になれない儚い命──……。
二十分程して咲実が上がったので、わたしが次に入ることにした。もうすっかり真夜中だ。何処かで犬が吠えている。
湯舟では、ぼんやりし過ぎる傾向にある。とりとめなく考え過ぎる。
わたしたちは揃って反抗的な娘たちだったけれど、反抗するときはいつでもかなしい気分だった。歯痒くて切なくて、かなしかった。誰かを傷めようとする言葉を吐くとき、誰がいちばん傷付き抉られるのかを、わたしたちはよく知っていた。自分自身だ。
「サクちゃあん?」
間が抜けて明るい呼び声に我に返ると、お風呂場の曇ったすりガラスの向こうに、咲実の影が映っていた。
「開けるよ、」
云うと同時にドアが細く開いて、Tシャツにショートパンツ姿の咲実が、すっとそのあいだから躰をすべり込ませてきた。
「服が濡れるよ」
わたしは云った。湯気がしゅんしゅんと衣服を湿らせてゆく。
「だって濡れたら乾くわ」
云いながら咲実は、お風呂のふちに腰掛ける。湯気の向こうの姉を見上げた。
「なんか食べた? お腹空いてるって云ってたけど」
「ああ、サクちゃんちの冷蔵庫、ろくなもんないんだもん。お酒ばっかり。信じられない」
冷蔵庫のなかには何があっただろうか。麦茶と、マーガリンと卵と酢と、カレー粉と、ワインとウィスキー。下の段には、トマトがあったような気がする。マーガリンでトマトを炒めて、茹で卵と共にカレー粉で味を付ける、というのは変だろうか、と考える。変か。
「そうだサクちゃん。トマト、熟れすぎちゃうよ?」
咲実が付け加えた。
わたしは返事をしないまま、ずずずと熱い湯のなかに沈んだ。
「何してんの、」
不思議そうな声と咲実の手が水面をひっかき回す音がお湯を通して聞こえ、我慢している内に苦しくなったのであたまから出た。われながら奇怪な行動で何かを誤魔化している。
「サクちゃんどうしたの? 大丈夫、のぼせてない? 赤くなってるよ」
咲実がわらいながら、シャワーで水を掛けてきた。湯に浸かったまま、あたまから冷たい水を浴びる。気持ちいい。子どもっぽいな、と思った。
ずっと昔にも同じようなことがあった。咲実が同じようにホースの水をきらきらと撒き散らしていた。ホースの先で円を描いていた細い腕を、不思議なスローモーションで思い出す。咲実は踊るように腕を伸ばし、スカートが広がって揺れた。あれは暑い夏の日で、溶けるようなアスファルトに落ちたしぶきはあっという間に乾いた。わたしと咲実と少年。三人の濡れた服も、あっという間に乾いた。記憶が滲む。うすい虹色の光。
咲実が水を止めると、シャワーの音やわらい声は窓から外の暗がりに溶けて、しんとした。犬の声も何も聞こえない。
「しずかだね」
咲実が云った。
「真夜中だから」
「この世にふたりっきりって感じがしない?」
「やだな、咲実とふたりっきりとか」
「わたしもー、やだ」
咲実は嬉しそうにわらった。
「……でも、咲実が帰ってなかったら、この世にひとりきりだった」
わたしはそう呟き、もうあがる、と付け加える。
「あがって冷たいもの飲もうよ!」
咲実が云って先に出た。
また長く浸かり過ぎた。
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