9 瞼の裏の、青い空。 電灯を消してから何分が経っただろう。

 

 瞼の裏の、青い空。

 電灯を消してから何分が経っただろう。金縛りになる瞬間というのははっきりしていなくて、それは生の時間の非連続性を認識させる。気が付いたら、動けない。胸が苦しい。

 まるで釘付けされたかのように、躰は動かない。硬く硬くこわばっているこの躰は、きっとわたしのものではないのだろう。耳元とあたまのなかで響き渡る、じりじりという不快な金属音。

 誰かが入ってきたような気配がする。わたしの夏布団のふちに、手を掛けて、何事か喋っている。喋り声が、大きくなったり小さくなったり、我慢出来ないくらい遅くなったりする。

 たぶん、そこには誰もいない。脳の見せる幻覚だ。

 金縛りは心霊現象などでは決してなくて、ただ脳の何処かの接続の問題だろう。

 躰が浮遊しているような錯覚。どさり、と蒲団に落ちたとき、躰は生き物であることを思い出したのだろうか。自由になった。

 わたしは息を吐き、目を閉じる。眠れずに、しばらくして開けた。

 秒針の音が煩い。枕元の時計を見ると、蛍光塗料を塗られた針が五時前を表示している。横になってから一時間弱だった。外はもう明るい。

 軽く目を閉じて、咲実を思い浮かべる。もうすぐ帰ってくる咲実。彼女が帰ってきたからといって何かをすることはない。ただわたしの部屋のなかで怠惰に過ごすだけだ。まるで子どもの頃の、夏休みの半ばみたいに。延々と続く、ほんの僅かな黄金の日々。あまり外に出ないから、白いままの咲実の手足。肩の出た夏服の薄い生地。長い髪を背中に押しやる咲実の仕草。

 姉はわたしより美人だ。わたしたちは一卵性双生児で同じ顔をしているのだが、わたしは彼女の精度の低い複製のようなもので、わたしにはない繊細なニュアンスを、彼女は持っていた。彼女の容貌が、オリジナルなのだと思う。

 結局眠れないままに、その日は始まった。珈琲を飲み、麦茶を何杯か飲み、昼食に野菜と豆腐素麺を食べた。

 夕方になって外に出た。

 街なかの夏の夕方は夕方という言葉にそぐわない。日は高いし人々も奇妙なテンションとものがなしさで活気を留めている。なんとなくついていけない感じがして、ATMとコンヴィニエンス・ストアを回ると心底疲れた。眠りというよりも昏睡のイメージが、至福の国みたいな感じで何度も脳裏に閃いては消えた。




「せんせい寝不足でしょ」

 セナちゃんは何でもない風に云った。

「隈、出来るよね」

 見直せばセナちゃんの涙袋のあたりもうっすら青みがかっており、しかし高校生の頃なんて夜更かしは当たり前だったかも知れないと思う。

「せんせいコンシーラで隠すと良いよ、クマ」

 わたしは指の腹で瞼を押さえた。熱くて痛い。それから指を離してわらってみせた。

「別に良いの」

「クマちゃん、クマちゃん、ひどいよお、ガルルル」

「いや、わたしは別に構わないから」

 数拍置いて、セナちゃんが云った。

「心配してるひとだって、いるんだよ」

 わたしは黙って、黙った代わりに手元にあった英作文にチェックを入れ始めて、部分積分の問題集のコピーを取り出した。

「せきぶーんかあー。うーん」

 セナちゃんは顰めっ面をして呻いてみせ、それから云った。

「せんせい、進路のこと、あとで聴いてください」

 畏っているので、わたしも畏ったかおを作って、

「はい」

 と応じた。

 

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