6「せんせい下駄なんて履いてるの」

  

「せんせい下駄なんて履いてるの」

 今日、セナちゃんは可笑しそうに云った。

「そりゃ、履いていますよ。夏だし」

 わたしは答えた。セナちゃんは同じマンションの七階の家の高校生で、わたしは彼女の家庭教師をしている。

「せんせい、これ、鼻緒が赤いね。にんじんさんに連れられていっちゃうやんね」

「連れられていっちゃう子は下駄じゃなくて赤い靴だし、だいたい人参さんじゃなくて、異人さん」

「わざと云ったの、きりんさんのこと」

「異人さん」

 それからセナちゃんはわたしが玄関で揃えた下駄をもう一度見て、

「下駄、かわい、」

 と云い、わたしは、春になったらみよちゃんが赤い鼻緒のじょじょ履いておんもに出たいのだと教えようか教えまいか迷っているうちに、セナちゃんはまた足元を見て、

「せんせい、ペディキュア、みどり色」

 と云う。

「ミュールじゃないん。下駄なんやね」

 スリッパを出して来ない家庭が、好きだと思う。

 セナちゃんの英作文と古典の助動詞の暗記の勉強を九十分監督した。セナちゃんは成績が良いし、理解が早い。まったく、楽なアルバイトだ。

 セナちゃんの部屋に何かいつもと違う匂いがするな、と思ったら、壁に浴衣が掛かっているのに気づいた。和服の匂いだ。

「祇園祭?」

「うん」

「台風大丈夫だったの?」

「宵山は平気、暑かった! いつもみたいに夕立きたけど、そんときはモスに居たし」

「デイト? 友だち?」

「どうでしょう~」

 セナちゃんははぐらかしたあと、ノートをちらりと見て、

「べしまじらむらしめりなり」

 と助動詞を唱えた。

「そう云えば、独り焼肉ってあるんせんせい知ってる? 独りカラオケとか独りディズニーとか」

「独りディズニー?」

「独りギョン祭り、なんちゃて」

 取り敢えず誰と行ったか話したいわけではないのだな、と思い、わたしは、続けて、

「独り宇宙旅行」

「スプートニクやん」

 セナちゃんはあかるくわらった。

 勉強時間が終わり、

「じゃあね、夕ごはん食べて戸締まりしてね。買い物に行くなら気をつけて」

「今日はソイジョイ買ってあるの」

 セナちゃんは単純に云う。セナちゃんの父親は、セナちゃんの夕食の為に、毎日五百円渡しているらしい。ソイジョイ一本では五百円にお釣りがくるだろうが、それはわたしもいつものように追及せず、セナちゃんは突然、

「あ、せんせ、待って」

 本棚のあたりから何か取ったセナちゃんから渡されたものはマニキュアの小壜だった。

「あのね、赤い鼻緒に、コーラルのペディキュアもいいと思う。貸してあげる」

 わたしはわらって、ありがとうと云った。

「次回返すね」

 セナちゃんは性格の良い──厭味ではなく──高校生だと思う。


 マンションの七階から四階へと、たん・たんと階段を降りて自分の部屋に帰る。コンクリートの階段。エレヴェータには乗らずに、階段で部屋まで戻ろうと、下駄を鳴らして歩いていった。非常階段は、独りだな。色んなことを、思い出す。思い出せないことも、落としながら、記憶。記憶と、孤独、という単語が鎌首を擡げた。似ているね、記憶と孤独。

 部屋のドアに鍵を差し込んで、自分の挙動がひとつのリズムに躍っているのを自覚する。きおく・こどく・きおく・こどく・きおく・きおく・こどく・こどく。部屋に入ってからもその響きはくるくると廻り続けて、あたまの随を蝕んだ。蠱毒、遠く、規則、危篤。

 記憶と、孤独。

 明かりを点ける前に冷蔵庫へゆき、のみものを捜す。きおく・こどく・きおく・こどく。流石に今のわたしの現状でもらっぱ飲みはすることがなく、しかし情けないことに、冷凍庫にはグラスに入った昨夜の続きのウオッカが鎮座してわたしを待っていた。

 手も洗わずにグラスを取る。三口、四口のんで息を吐き、やっと冷房をいれて流しのうえのライトを点けた。

 ため息。

 和室に並んでいる、ガラスの植物群のような空き壜はやたらに多い。あんなにものんだだろうか。

 自分がキッチンドランカという種族で、むしろホリックになりつつあるのは分かっている。でもその感覚は、氷の溶けたあとのカルピスのように希釈されていて、わたしはそれよりも目の前の恐怖から解放されたいのだ。記憶と孤独と台所の夢と咲実と、なんたらかんたら。

 上着を脱いで、ローテーブルにウオッカのグラスを置き、息を整える。化粧を落とさなくては、と併行して考えるが、次はあのブランデーを空けて、その次は置いてあるワイン。それからあの綺麗な白い曇りガラスの壜に入った清酒。そうしたら家にあるものは大分減るので、ころんとした愛らしいかたちの壜のサングリアを、リカーマウンテンに買いに行こう。あったらポケットウィスキィも。ポケット壜はどれもかわいらしい。製菓用のラムも。まるでおもちゃを並べるかのような気持ち。

 わたしはガラス壜が好きなだけなのだ。そして、あまり酔わないたちだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る