2015.07
5もうすぐ八月がやってくる。 夏の物語がわたしの掌にのっている。
もうすぐ八月がやってくる。
夏の物語がわたしの掌にのっている。秋風の涼やかさを前髪とひたいに感じながら、日射しの日々を懐かしく思い出す予感と一緒に。
わたしが死ぬまであと何回、夏が訪れる。
また、台所の夢をみた。
或る台所のことを、わたしはよく憶えている。
夢でみる台所は、咲実が昔住んでいた家のもので、季節はいつも真夏だった。真夏なのだが蝉の啼き声も聞こえず、そこには無声映画のような音を抜き取られてしまった空気が停滞している。わたしの夢は大抵総天然色なのだが、この夢だけはモノクロームに近い。夢だからではなく、場所の性質上の理由からだと思う。この台所は、仮令現実に立ったとしても、無彩色としてわたしの眼に映るだろうから。ところどころ、トマトの赤とかきゅうりの緑なんかが薄く顕在するほかには、色の無い世界。
わたしはその台所にひとり、椅子に掛けて食卓に頬杖をついていたり、床に座っていたりしている。ちょうどあの頃、ときが過ぎるのを待ちながら、じっとそうしていたように。
その台所は──ここが夢らしく特殊なところで──床に血痕が付いている。よく磨かれた板の間なのだが、冷蔵庫の近くに汚れた血溜まりがあるのだ。わたしは何も喋らないし、この世界にはわたし以外に誰もいない。
誰もいない?
では、この血は誰が流したのだろう。
誰かが去った、寒さと、静けさ。
咲実は何処へ?
咲実はわたしより綺麗な顔立ちをしている。咲実というのはわたしの双子の姉なのだが、彼女にある造作に特徴的な繊細なニュアンスが、わたしには無い。ふたりを並べればよく判るだろう。咲実の方が細くて堅い芯の鉛筆でデッサンされたということが。
朝起きてみるとキッチンのテーブルの上に、愛しい形状の青い壜があった。シュロスカペレ。飲み終えてしまった、とわたしはぼんやり思う。ちょっと高かったのに飲んでしまったな。あたまの冴えないままに習慣的動作で、壜を水洗いし、和室のすみに置く。
和室には壜が沢山ある。うす翠から濃紺から、翡翠、瓶覗、淡緑、碧、蒼、曇ったもの、透明なもの。ブランデーは琥珀色。ラムは、マイヤーズラムのカラメル色と、バカルディのミントグリーン。そして透明なウオッカの壜。ラベルが貼られたり、綺麗に剥がしたあとだったりする壜たちが和室にはごろごろしていて、綺麗だと思う。わたしはガラスが好きだ。
七月も半ばになって、随分と暑い。盆地の夏は酷く蒸す。
わたしはキッチンに立って目を細め、ガラス壜の群れを眺める。北西向きの窓からの光に透けるガラス壜たちは涼しげで、部屋の温度を吸い取ってくれるような気がする。
冷たい硬い、部屋に生えた石英性植物群。そう考えると、彼らに水をやりたくなった。
珈琲を淹れて飲むと、少しずつ脳に血が通う感じがして、自分が使いものになってゆく。時計は十時を示している。珈琲は、躰に悪そうなところが好きだと思う。そうやって、嗜好を理由に非合理さをクリアする。
もうすぐ八月だ。
ほつれた髪をひっぱりながら、少しだけ感慨を持つ。元旦なんかよりも八月の方がずっと感慨深くなるのだ。八月になると、咲実が帰ってくる。双子の姉の咲実は、毎年八月になると、わたしの部屋にやってくる。
今朝は台所の夢を見た。たまにみる夢だ。いや、咲実を思い出し始めたのか、ここのところよくこの夢をみる。
夢のなかに出てくる台所は、咲実が昔住んでいた家のもので、季節はいつも真夏だった。その台所は──ここが夢らしく特殊なところで──床に血痕が付いている。よく磨かれた板の間なのだが、冷蔵庫の近くに小さく付着しているのだ。わたしは何も喋らないし、この世界にはわたし以外に誰もいない。
夢をよく憶えているのは眠りが浅いからかも知れない。
むかしから、安眠出来ないたちだった。寝付きが悪く、恐ろしい夢やリアル過ぎる夢をみて苦しく過ごす。それから、金縛り。中学生の頃は毎晩のように遭っていた金縛りは、高校を卒業する頃には回数が減ったのだったが、最近急に増えた。
就寝時刻は遅い方だが、和室の蒲団のなかで、必ず躰の自由が利かなくなる。耳元でじりじりと非常ベルのような音が鳴り、気づいたときにはもう遅い。こわばった自分の腕には、まるで死んだあとに無理矢理屍体となった我が身を動かそうとしているかのような、違和感だけが乗り移っている。
眠る前に飲酒しなければ良いのだろう。なんならカフェインも断たなければならないのかも知れない。しかし、どちらも失った生活を想像しえないので、困る。想像出来るから構築するわけでもなく、止めるものは止めろ、ということなのだろう。でも今は昼間眠くなってしまうから、珈琲メーカに手が伸びる。
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