3咲良の瞳に映る世界と、わたしの世界とは随分ちがう。


 咲良の瞳に映る世界と、わたしの世界とは随分ちがう。伯母のそれとも随分ちがう。それは当たり前のことかも知れない。でもそれが当たり前なら、わたしはきっと、殆ど誰ともわかり合えない。

 わたしの耳の、あたまの、奥の方でずっと喋っている声をはっきり意識したとき、足は竦み、すべてのものは、絶えず手を触れていると思っていたものでさえ、等しい距離をもってわたしから離れていった。

 小学校で四十人の子どもが四角く机に向かい、ふざけたり、わらったり、叫んだり、先生に怒鳴られたり、もう本当に、そういうことに耐えきれなくなったのだ。街中で多重層の人々の思惑がびゅうびゅうと行きかよっているのを感じると、足が竦んだ。何度か失神して保健室に運ばれ、幾つかのカウンセラのところに連れていかれたあと、暫く静養が必要でしょう、という安直な結論が下された。伯母の家は自然の多いところにある。母は母の姉夫婦の家にわたしを送ることにしたらしい。

「お前はいったいいくつなんだ、何れほど現世を見たという、」

 気がつくと埃っぽい道の端で、また神隠しを予告したお婆さんと向かい合っていた。

「わたしの言葉が、思考を過剰に意識し過ぎた小娘の、幼稚でひとりよがりな思考の成れの果てだということはわかってる。わかってる、と主張しておくのは誹謗されないための防御だということも、わかってる」

 わたしは上目遣いに相手を睨み付けた。

「でも、考えることは止められない」

「そういう仕組みなんだよ、思考は『考えない』ことは出来ないからね」

 彼女の手が以前と同じようにわたしの髪に触れた。

「乾いた草原で日々生きるための闘いを続けるような生存を目的とした生き方を外れた人間は、刹那的な一瞬一瞬の快楽でばらばらな時間を懸命に留めておくことしか出来ないじゃないか。楽しいと思った時間は風のように頭上を飛行して、あとには何も残らない。それなら禁欲的に一生お祈りでもしてる方が、ましってものだと、わたしは思う」

「それはお前が五年先に考えることだよ。今は忘れてしまって言葉は生まれない」

 唇を咬んだ。酷く渇いていた。地面も空も白い。暑いという感覚はとうに通り過ぎている。

「五年先にわたし、まだ生きている? 十年先には?」

「さあ、な。すくなくとも、お前か、お前の妹か、どちらかは生き残っているだろう」

「……咲良?」

「お前は出家するか修道女にでもなるがいい」

 お婆さんは嘲笑うように云った。

「宗教が真理を探究しているわけではないぞ。より真実らしく思える、言葉の並びを模索しているだけだからな」

「真理はすべてにあって、何処にも無い。真理という名の単なる概念だから」

 ことば、ことば。そう思ったとき、うまくこの口で喋れなくなった。萎んでゆくヨーヨーのゴムボールのように、酸欠に縮んでゆく。

 お婆さんが云った。

「愚かものめ」

 オロカモノメ……──てん、てん、てん、てん、てん、てん、

    

 ツゥー──って、あたまのなかで一本の音。

 これは、そう、呼吸が止まって一直線に静止した心臓の鼓動の光にそっくりだ──。

    

 ──サクちゃん、サクちゃん、大丈夫?

 う、くるしい、と思った次に、伯母の左手がわたしの頬を優しく叩いているのがわかった。無意識の内にきつく閉じていた瞼をなんとかこじ開け、動かない腕を渾身の力を込めて持ち上げる。豆電球の橙色をした弱々しい筈の明かりが、酷く眩しかった。

「怖い夢を見たの?」

 伯母はそっと囁き、伯母の向こうでは伯父が眠っている背中が見えた。

 わたしは目を見開いて頷き、それから再び横になる。夢はもう思い出せない。伯母も横になり、けれども片手だけはまだ、わたしの布団の端に掛けている。

 わたしは目を閉じない。薄暗い天井は目にしみる。二階では従兄弟たちがぐっすり眠っているのだろう。

 デジタル時計の青白い光が、4:21の形だ。

 伯母は優しいひとだった。わたしが退屈しないように、いつも気遣ってくれていた。何か珍しい物をこしらえる時は──例えば黒大豆の酢漬け、プルーンの紅茶漬けなど、重くて大きなガラス瓶に漬ける物が彼女は上手だったし、ときに寒天や白玉、さつまいものきんとんなども作ってくれた──いつもわたしを呼び、わたしは食卓の椅子に乗って、伯母の無駄のない手さばきを眺めた。夏のひんやりとした台所。摺りガラスの窓の向こうの蝉の鳴き声。天井から下げられた銀色のモビルがゆっくりと回っている。

 気の毒な咲良、とぼんやりと思う。

 今日も湿っぽい教室の隅っこにいる咲良。柄のない赤い筆箱と透明な下敷きを机の上に並べて、キャラクタの付いていないノートをしみしみとに埋める。シャープペンシルは禁止。ぴんぴんに尖らした2Bの黒鉛筆。

「別にわたしたち、一心同体とかじゃないんだし」

 今、わたしには双子の妹なんてものは居ない。あなたが双子だったことなんてないのよ、と皆怪訝なかおをして云い聞かせる。絶対居たのに。わたしたちは双子なのに。あの頃わたしは母の郷里の伯母の家を静養のため訪れ、その間咲良は毎日私立の小学校に通い続けていたのだ。

 いつの間にかひとりになってしまったわたしたち。

 サクラちゃん、サクミちゃん、さよならね。

 いったいわたしは今、誰なんだろう。

 

 遠いあの夏のことをもう少し話そう。

 

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