2夏の思い出を語ることは難しい。それはしばしば独りよがりに
夏の思い出を語ることは難しい。それはしばしば独りよがりに、事実とそうでないものとの境界線をぼかす。わたしだけの事実と、誰とでも共有しうる事実との距離を図らなければならない。
わたしがこの町にやってきたのは、六月の末だった。新幹線に乗って小郡駅から山陽本線に乗り換え、揺られること一時間ほどだろうか。無人駅まで伯母が車を運転してきてくれていた。針の先のような細く冷たい雨が降っていた。梅雨に濡れるのは哀しくない。
「疲れたでしょう。新幹線、大丈夫だった? サクちゃんおおきくなったわねえ」
伯母は優しい口調でそう云って、抱えてきたリュックサックを持ってくれた。
「あ、あと、母が、これ」
わたしは紙袋を差し出した。
「すぐき? 伯父ちゃんが大好きなんだわ。ありがとうね」
わたしは、サクミ。咲実は校舎の隙間から折り紙より小さな切れっ端の空しか見えない日々から脱出するのだ、サクラを残して。咲良はわたしの双子の妹だ。一緒にいく? と一応訊いたけれど、咲良は、別に、と冷めた口調で断った。別にわたしたち一心同体とかじゃないんだし。わたしは夏休みになったら行くよ。それまでは学校あるし。
出ていったのは咲実。
とどまったのは咲良。
夏の前のあの日々を想うと、わたしのそのぽっかり空いた時間が懐かしく、もう帰れないことに哀悼を覚える。何にもしない暮らし。一生のなかの小さな空白の期間。もう二度と訪れない。
朝、伯父と伯母、従兄たちと一緒に朝食を食べ、学校に送り出す。出勤する伯父を玄関まで見送る。黄色い靴べらを、はい、と云って渡してあげると伯父は目を細めて喜んだ──母は伯父と伯母に何と云って、わたしのことを頼んだのだろう──そして、からっぽの一日が始まる。
伯母が洗濯物を干す横で、庭の植物にホースで水を撒く。プランタに植えられたミントやプチトマトはよく育っていて、好きにとって食べて良いよ、と云われていた。たまに庭木を伐る手伝い。この家には鶴の形をした木があった。ほおずきもあった。乾いたがくをめくれば、なかの丸い実をさらけだす。
隣の家の白い犬に、ソーセージを遣りにゆく。
二階の飾り棚のなかの珍しい品々を出す。それは伯母の趣味だったのか、陶器やガラスのミニチュアの茶碗、手のひらに収まる程の封の開いていないポケットウイスキーのミニチュアボトル。小さな壜の韓国のお酒、中国のお酒、インスタント珈琲のミニチュア壜、ガラス壜に入った食べられる金箔の小壜。ひとつひとつ順番に取り出し、埃を拭い、眺めてから戻す。赤く彩色されたほっぺん──びいどろ、と云うのだろうか。伯母は、ほっぺんと呼んだ。たぶん、そういう音がするからだが、そんな薄いものに息を吹き込むことは出来なかった。だから自分で鳴らしたことは無い。
わたしは従兄弟の部屋には近付かず、もっぱら物置きや応接間などを渡り歩いた。
和室には仏壇がある。黒いしっとりした漆の奥に、ふしぎな闇をたたえている。ふわりと丸くごはんの盛られた白い陶器、同じ陶器のやさしい線の仏さま、おそろしくて直視出来なかった閻魔像。お位牌に並ぶ漢字のなかに童女の文字を見つけ、その奥には黒いふたつの瞳があるような気がしてびくりと離れる。
オクビョウモノ……オクビョウモノ……。
お位牌の裏で、誰かが嗤っている。
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