1995

1「蝶はムネを潰す!」 少年は確かにそう云った。

 

  1995

 

 

「蝶はムネを潰す!」

 少年は確かにそう云った。それから親指と人差し指とで慎重に、蝶をつまんでみせたのだった。わたしは固唾をのんでそれを眺めていた。勿論ありがちな怯え方なんかするつもりはなかったし、可哀想とかそういうことも云い出さなかったのだけれど、少年のことをほんの少し恐れた。

 蝶はすぐに脚や翅を動かさなくなり、丁寧に三角紙に仕舞われた。

 暑い日だった。ふたりとも麦わら帽子を被っていた。

「標本箱が出来たら、サクにやるよ」

 と、少年は云った。

「小さい箱にして」

わたしは答えた、

「大きいと邪魔になるから」

 わたしたち姉妹は、少年の名前を知っていた筈なのだが、ふたりで彼のことを「まるで少年みたい」とこそこそとわらって以来、彼は〝少年〟になってしまった。彼はわたしをサクと呼んでいたが、わたしは彼を名前で呼んだことは無い。どうしても用があるときは、ねえ、と云えば済む。一つ年上で、近所の子どもたちをみんな子分たちのようにひと纏めにしていた。

 彼はわたしたちの従兄なのだ。

  

  

「このこはかみかくしにあいやすいこだね」

 山へゆく道を少年と歩いているとき、すれ違いざまに知らないお婆さんがわたしの肩を触り、彼女の方に向き直るように引っ張ってそう云った。それは烙印のようだったけれど、本当は割れ物の箱にワレモノと印を付けるくらい単純なことでもあった。お婆さんの背後には鬱蒼とした暗い竹薮と闇があった。季節は夏だというのに、そこだけは少し湿った空気をしていた。たぶんにおいも違った。異界に繋がっている、と思った。

「へっ……」

 戸惑った少年が一拍遅れて声を抗議の声を上げた。

「変なこと云うなや」

 わたしは上目遣いでお婆さんの眼を見つめた。お婆さんもわたしのかおを確認するように眺め回して、わたしは気づいて触られていた肩を引いた。お婆さんはちいさく嘆息してかぶりを振りながら去っていった。

「変なこと云ってくんなぁね、婆あ」

 少年は怯んだように小声で云った。

「サク、気にすんなよ。あねえな婆あなんて気にせんでええで」

 少年が弁解をするように何度も云った。彼のせいではないのに、と、ちょっと可笑しかった。

 蝉は狂ったように鳴いていた。山への道はなんの脈略もなく小さな赤い鳥居が薄汚れた紐で木にくくり付けられていたり、やたらに沢山お地蔵様と祠があったりするのだ。褪せているのに鮮やかな模様の古布の前掛け。いつからあるのか知れない少し欠けたお湯呑み。

「気を付けなさい。この子は神隠しに遭いやすい子だよ」

  

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