『夏空こわれる』

泉由良

0或る台所のことを、わたしはよく憶えている。

 

 或る台所のことを、わたしはよく憶えている。

 冷たい板張りの床は光っていて、その上を歩くものの影をうっすらと映した。冷蔵庫、テーブル、隅にある三脚椅子。緑色の電子レンジに、誰にも使われないフードプロセッサ。部屋の片側は作り付けの食器戸棚で、もう片側は透かし模様の入った曇りガラスの引き戸で隣の部屋と仕切られていた。朱色の旧いテレビ、床下収納のなかの大きな重い壜類。ガス火の炊飯器とポピィの絵の付いた保温ジャー。調理台の前に立って、流しのうえの蛍光灯の紐を引いてみる。紐の先に括りつけられた、薄汚れた赤いおはじきのわっか。

 台所のかすかな色彩はすべて無彩色の底で息をひそめ──野菜籠からこぼれてしまった夏野菜さえも──、蛍光灯の光も頼りない。調理台の上の磨りガラスの窓だけが、白い。わたしは自分の素足の足元に目を落とす。

 広い家で、庭には井戸があった。裏は林で、買い物をするのに店まで川沿いに十五分歩かねばならなかった。

 その家の停滞した空気を、わたしはときどきやんわりと苦しく思った。そうなると台所にいって時を過ごす。切り盛りをする賢い主婦も家政婦も失った、遺物としてのその場所で。

 

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