第36話 天使

「ねぇ、ゆき。急だけど明日空いてる?」

「うん、特に予定ないけど」

「じゃ、ちょっと付き合って」

「はーい」

 珍しく、しょうちゃんからのお誘いだ。どこに行くんだろう。

 一緒に過ごせるなら、どこでもいいんだけど。

「ごめん、詳細は後で。先行くね!」

 バタバタと玄関の方へ向かって行った。

 と思ったら「忘れた」と言って、戻って来て『チュッ』とキスをして、また駆けて行った。

 忙しないけど、律儀だ。

 私は、残りのコーヒーを飲み干して、出勤の準備をした。


 お昼休みにスマホを確認したら、明日の詳細が届いていた。

 育休中の薫センセイのお宅へ訪問するらしい。

 3ヵ月前に女の子を出産したという報告と写真は見せてもらったけど、実際に会うのは初めてだ。楽しみだなぁ。

 何か持って行くのかな?出産祝いはもう送っているみたいだから、ケーキとかかな。玲香さんのお店に寄って行けばいいかな。帰ったら聞いてみよう。


 結局しょうちゃんは夜中に帰ってきたみたいだ。寝不足なしょうちゃんに変わって私が運転し--途中で久しぶりに玲香さんのところに寄って--薫センセイの家へ向かった。




「うわっ、高いねぇ」

「ほんとだ、タワマンってやつ?」


 目的地に到着して、二人で見上げた。

 薫センセイの住むマンションは、ご主人の仕事柄か都心に近く、必然的に高い建物が多い。



「ゆきちゃん、久しぶり! ごめんね、急に」

「ご無沙汰してます。お招きいただきありがとうございます」

 久しぶりに会った薫センセイは、産後とは思えないスッキリした体型を維持していて、相変わらず綺麗だ。


「あれ、祥子!ちゃんと伝えてないの?」

「ん?あぁ、忘れてた」

「もう〜相変わらずだなぁ」


 どうやら、ただ招かれただけではないようだ。


「午後から、自治会の会合に出席しなきゃいけないんだけど、うちの人が急な出張でね。少しの間、子供を見てて欲しいの。いいかしら?」

「もちろん、大丈夫ですよ」

「良かった! 祥子だけじゃ不安だったから、ゆきちゃんが来てくれて心強いわ」

 不安ってなに?という、しょうちゃんの呟きはスルーされ

「おむつセットはここで、ミルクはコレね、」などなど説明を受けた。

 産科の実習で3週間、新生児を看ていたけれど、大丈夫かな?

 急にドキドキしてきちゃった。

 薫センセイを見上げたら

「何か困ったら電話して!マンション内にはいるから」と、笑顔で応えてくれた。

 隣の和室を覗くと、お布団でスヤスヤ眠る赤ちゃんがいた。


「うわぁ、可愛い。天使みたい」

 起こすといけないので小声で囁く。

「寝てる時はねぇ...」

 と、薫センセイも小声で。

「名前は何て言うんですか?」

「栞だよ」

「しおりちゃん、いいですね!」


 名残惜しいけれど、そっと襖を閉じて。

「さ、今のうちにお昼ご飯にしよっ」

 薫センセイは準備を始めていて

「え、薫の手料理?初めてじゃない?」

 しょうちゃんは驚きながら手伝っている。

「そんなに驚かなくても...一応主婦なんだから、食べられるよ。ゆきちゃんのご飯には負けるかもだけどね」




 薫センセイが出掛けて行っても、栞ちゃんはまだ寝ていた。センセイ曰く

「お昼は良く寝るんだよね、夜もこれくらい寝てくれたら楽なのに」と。

 子育てあるあるらしい。

 人一人を育てるのは大変なことなのだ。

 そっか、それでベビーベッドじゃなくて、お布団なのかな。一緒にお昼寝出来るように。睡眠時間の確保が最も重要なタスクなのだろう。


「いやぁ、でも本当に可愛いな」

「目元は薫に似てるかなぁ」

 しょうちゃんと並んで眺めていると、足がピクピクと動き出した。

「ふぇ…」と小さく声を出し、目を開けた。まだ寝返りは出来ないので、首だけを動かして何か--きっとママ--を探してる?

 ふいに目が合って3秒程の沈黙の後。

「ふええええん」

 泣き出した。



「わっ、泣いたよ」

「うん、起きたね、お腹空いたかな」

 枕元に、育児ノートがあった。それによると前回の授乳は3時間前だ。

「じゃ、しょうちゃん、ミルクあげよう。まずオムツ替えて!替えれる?」

「え?」

 不安そうに私の顔を見る。

「いいよ、私が替えるよ」


「栞ちゃん、ちょっと見せてね」

 ベビー服の足のボタンを外し、オムツをずらして見る。

「うん、出てるね。綺麗にしようね!しょうちゃん、そこのおしり拭き取って!」

「はい」

 私がオムツを替えている間、隣でじっと見ていたしょうちゃんは、不思議そうに

「慣れてるねぇ」と言った。

「病棟ではオムツ交換は、しょっちゅうだよ。大人だけどね」

「あ、そっか」

 栞ちゃんは、体に触れていると時々泣き止むけれど、基本的には泣き続けてる。やっぱりママを呼んでるみたいだ。


「よし、じゃミルク作ってくるから、しょうちゃん抱いてあげて」

「え」

「首は座ってると思うけど、一応支えて......はい!」

 抱き上げて、しょうちゃんに渡す。

「わっ」

「ほら、泣き止んだ。可愛いでしょ?」

「うん、いい匂い」

 不安げな顔が薄らいだので、ミルクを作りに行く。


「ねぇ、ゆき!また泣き出したよ~」

 ミルクを冷ましていると、しょうちゃんの声が聞こえてきた。

「そのまま立って、歩いてみて~」

 あ、静かになった。


 和室を覗いたら、しょうちゃんが栞ちゃんを抱っこしながら、何か話しかけてるようだ。しょうちゃんも、あんな顔するんだ。しばらく見惚れてた。



「写真、撮っていい?」カシャ!

 許可もらう前に撮っちゃったけど。

「わっ、油断してた」

「しょうちゃん、ニヤケすぎ〜」

 もう、優しい顔するんだから。

 こんな顔見せられたら、また惚れなおしちゃうよ。

「だって、可愛いもん。あ、でも座ろうとすると泣くんだよ」

「楽しようとしちゃダメってことじゃない?」

「おぉ、3ヶ月の子に人生の教訓を教わるとは」

 クスクス笑って目を細めてる。

「ミルク、あげてみる?」

「うん、やってみる。教えて!」


「おぉ~飲んでる飲んでる」

「ゲップ出た~」

 一挙手一投足に感動している様子だ。

 栞ちゃんもお腹が満たされたら泣かなくなって、お布団に寝かせても機嫌が良い。

 近くに置いてあったオモチャでガラガラと音を鳴らすと、そちらを向いて笑う。何度繰り返してもケラケラ笑う。

「すっかり仲良くなったね」

「この笑顔は一発で堕ちる」


 しょうちゃんをこんなに簡単に落とせるなんてね。

 遊び疲れて今はスヤスヤ眠っている栞ちゃんの頬をつついてみる。ぷにぷにだ。

「天使か」



「ただいま〜」

「おかえりなさい」

「なんだ、もう帰ってきたの?」

「なんだとはなんだ」


 薫センセイが帰ってきた。

 ママを待ってた栞ちゃんは夢の中だ。



「いい子にしてた?」

「とっても。ミルク飲ませたのは私だよ」

 薫センセイの問いに得意げに答えるしょうちゃん。

「そうなの、どうだった?」

 どうだったは、私に向けての発言だ。

「あ、えっと。デレデレでした」


 ニヤリ。

 薫センセイは、私の答えに満足したようで

「そうだ、いただいたケーキ食べよう」

 鼻歌まじりで、お茶の準備を始めた。


「美味しいケーキだね、久しぶりだわケーキなんて」

 薫センセイが感激の声をあげる。

「食べるもの、気をつけてるの?」

「一応ね」

「ケーキじゃない方が良かったかな」

「いやいや、たまにはご褒美も必要だよ」

 毎日大変なのよ、誰も褒めてくれないし。と少しの愚痴も添えて。


 ケーキも食べ終えた頃、隣の部屋から泣き声が聞こえてきた。

「私が行ってくる」

 しょうちゃんが手を挙げて、あやしに行った。

「ありがと、助かる〜」



「ほんと、毎日だと大変ですよね。私で良かったら、いつでもお手伝いに来ますよ。しょうちゃんは忙しいけど、私は休みの日は暇ですから」

「ほんとに?いいの?ありがと。そうだ、連絡先教えてもらってもいい?」

「はい」

 連絡先を交換しながら

「そういえば、認定看護師目指すんだって?」と、さりげなく聞かれる。

「あ、はい」

「研修は、一年?」

「そうです。受かれば、ですけど」

 そろそろ願書を出さないといけないなぁと考えていたところだ。

「そっか」と言って

 泣き声が聞こえなくなったので、そっと隣の部屋を覗いていた薫センセイが、手招きをした。

 行ってみると、しょうちゃんが栞ちゃんの隣で添い寝をしてた。

 昨日は寝不足だったからね。

 それにしても、二人の寝顔は可愛い過ぎる。


「一年間は、休職する形?」

 寝ている二人は置いておいて。

 コーヒーのお代わりをいただいた。

「はい。でも、復職を条件に基本給は出してもらえる事になって」

「やっぱりそうなったか、さすが祥子だ」

「え?」

「あれ、聞いてない?祥子が院長を脅したって」

 噂だけどね。と言われても

「えぇぇ」

「噂では、交渉に応じなかったら辞めるって息巻いたらしいよ」

「嘘でしょ」

「だから、噂ね。交渉はしてたみたいだけどね。そっか、内緒で動いてたか。祥子らしい」


「なんでだろ」

「え?」

「私には勿体ないです」

「そんなことないよ、ゆきちゃんのためだけじゃないと思うし」

「そうですか?」

「うん、これからも向上心のある看護師さん達が出てくると思うし、その人達のためでもあるでしょ?」

「そっか、そうですね」

「まぁ、愛されてることには間違いないけどね」

 さらりとそんなことを言われ、顔が熱くなった。


 しょうちゃんが起きてきたので、そろそろ帰ることになった。

「なんだかお昼寝しに来たみたいだな」と恐縮してたけど

「ありがとう!是非、また来てね!」と

 実家から送られてきたという野菜をたくさんお土産に貰った。



「ねぇ、しょうちゃん。病院辞めないよね?」

 帰りの車の中で聞いてみた。

「え?何の話?辞めるつもりはないけど」

「なんでもない。ご飯何にしよう?野菜いっぱい貰ったから煮物かなぁ」

「やった!」と言ったしょうちゃんは、まだ眠そうだった。


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