第10話 眼球

『ゼハー、ゼハー、ゼハー、ゼハー…』


 し、し、し、死ぬ。い、い、息が切れる。とにかく苦しい。

 田島二等隊尉の早足はとんでもなかった。俺の全力疾走と、ほぼほぼ変わらないのだ。運動オンチかつ運動不足の俺は、背後から秋元軍曹に『急げ! 急げ!』とあおられ続け、最後は地面に突っ伏してしまったのだ。


「秋元軍曹、コイツは絶望的にヤワだ。このままでは犬や猿よりも使い物にならん。今後は体力向上用の個別メニューを作成し、24時間、徹底的に締めあげろ!」

「了解しました。シゴキは私の得意分野です。お任せください!」


 うへええええ。なんだよその体育会系のやりとりは…。シゴキなんて冗談じゃない。俺は恐いのもツラいのも大嫌いなのだ。


「実習は中止だ! 教官は貴様か? この場にいる候補生を整列させろ!」


 田島二等隊尉はそう言い放つと、腰元から警棒のような代物を抜き放ち、手前の壁際に近づいていった。

 そこでは三人の候補生が腰を落として警棒を構え、何かを取り囲んでいた。


 って、あれがリアル禍憑きらしい。

 姿形はまんまダンゴムシだが、柴犬位の大きさがある。固そうな外殻の所々に穴が穿たれ、緑色の体液が滴っていたが、まだまだやる気十分らしく、固そうな頭部をあげて鋭い牙を見せ、候補生らを威嚇していた。


「悪いが、殺処分するぞ」


 割って入った田島二等隊尉が払うように警棒をふると、禍憑きが破裂した。一瞬で『ポン』と。

 おそらくは何かの技能を放ったのだ。


 候補生達が啞然とした姿でその背中を見つめていた。確か候補生のレベルは2前後、禍憑きのレベルは1だったはずだ。レベル30以上の田島二等隊尉にしてみれば、あの程度の禍憑きは、その辺の昆虫程度の雑魚でしかないのだろう。

 

 田島二等隊尉が教官らしき人物と何事かを話し合っていたが、俺はちっとも動けなかった。息が苦し過ぎるのだ。俺はゴーグルをはずし、ヘルメットのストラップをゆるめた。


「あれえ? やっぱ雑魚キャラじゃん? こんなところで、なに這いつくばっちゃってるのー?」


 面白がるような声に顔をあげてみると、あのクソビッチが俺の傍らに立っていた。ニヤけた表情に、無性にイラッとさせられてしまう。


「っていうかさぁ、そのみっともない姿、すっごく似合ってるじゃん!」


 なんでこの女は嫌みったらしく俺に絡んでくるのだ? 俺の存在が相当に気に入らない様子だった。

 クソビッチの後ろ側では、厳つい体型をした教官らしき人物の傍らに、橋本カオリと、外国人女子の二人が休めの姿勢で立っていた。


 カオリが氷のような冷たい視線を向けてきたが、すぐに真横を向いてしまった。

 確かに、こんな無様な俺の姿は、目を向ける価値もないってことだろう。悔しいような思いが沸きあがり、俺は胸の深いところにズキリとした痛みを覚えた。って、もう慣れっこになっているはずの痛みなのに、毎度毎度ツラ過ぎる。俺は仕方なくカオリから視線をそらした。


「候補生はコイツに構うな。向こうに並んでいろ」


 田島二等隊尉が苛ついた様子で俺とクソビッチの間に割って入ってきた。


「貴様は、いい加減、 立ち上がれ!!」


 俺は襟首をむんずと掴まれ、一気に持ちあげられてしまった。ものすごいパワーだった。膝がガクガクしたが、ここで再び座り込んでしまったら、例のシゴキが即刻始まってしまうかもしれない。俺は両足に力を込め、とにかくその場に踏ん張った。

 

「何を感じる? 小声で報告せよ」


 田島二等隊尉が俺の耳元で囁いた。

 俺は呼吸を整え、感覚をすませてみた。眉間の中央に向け、集中を高めてみる。


 …右上の空中。やや高いところで、何かが確かに細かく震えていた。


「えっと、何かが宙を引っ掻いているような感じです」

「どこだ?」

「あのあたりかと…」俺は見た目には何もない宙の一角を、目線を使って差し示した。


 田島二等隊尉が右手の人差し指を立て、眉間の中央にあてた。おそらく『索敵』の技能を発動するために集中を高めているのだ。


「…ごく微かだが、確かに私も感じる。ふうむ、貴様はこんな微細な揺らぎでさえも、あの距離から正確に感知できるのだな。索敵『9』の技量階位、私もうらやましく思うぞ」


 そう言うと、田島二等隊尉は秋元軍曹に向き直った。


「秋元軍曹、この空間に異変の兆しがある! 全エリアで実習を中止させろ! 候補生を地上に戻せ!」

「了解しました!」


 そう答えた秋元軍曹が、ヘッドセットのマイクに向かって実習中止を伝えようとした時だった。


 突然、とてつもない轟音が巻き起こった。

 くそっ、鼓膜がヤバすぎる! 俺は思わず耳を塞いだ。


『アアアアアアアアアアアアアアアア…』


 俺の口が勝手に悲鳴をあげていたが、それさえも遠くに聞こえる。

 俺は立っていられず、悲鳴をあげながら地面を転げ回った。


 まるで 巨大な金属を力任せにねじ切るかのような、不快で甲高い雑音まじりの音の塊が、鼓膜どころか、俺の脳みそを激しく振るわせ、押しつぶそうとしていた。


『も、もしかして、俺は音責めで死ぬ?』『って、俺は童貞だし、合コンとか出会い系とか、エッチな風俗とか、何一つ体験していない!』『それに、俺は、ずっと好きだった橋本カオリに、まだちゃんと謝っていないのだ!』『って、そうだ、カオリは何をしている? 無事なのか?』


 俺は苦痛を懸命にこらえ、目を開けてみた。

 って、何も見えない! 俺の視界のど真ん中で、赤い文字列が瞬いていたからだ。


『警告:聴覚に異常な負荷がかかっています。自動制御しますか?』


 って、それが出来るなら最初から勝手にそうしてくれって! そう思うと、文字列がかき消え、同時に轟音が遠のいていった。きっとこれはUBDユニットの生命維持機能が働いたのだ。


 カオリは耳を塞いでうずくまっていた。隣の外国人女子も同じ姿勢で固まっていた。このままでは、本当に頭がおかしくなってしまうかもしれない。


 ヤワな俺には何もできないけれど、田島二等隊尉や秋元軍曹なら助けられるはずだ。そう思って彼らの姿を探してみると、二人は警棒のようなものを腰に構えた姿勢で固まり、斜め上の宙を見つめていた。


 二人の視線をたどってみると、そこには奇妙過ぎる代物が浮かんでいた。


 うへえええ、気持ち悪りぃ。あれは間違いなく『目玉』だ。

 しかも大きさはバレーボール。そんな特大サイズの眼球だけが、ぷかりと不自然に空中に浮かんでいるのだ。まるで解剖で取り出したばかりの目玉を、宙にピン留めしたかのように。こんな不気味な代物が急に現れるなんて、ファンタジーではなくホラーの領域だろ。


 金色に染まった外膜に、縦に割れた瞳孔。爬虫類のものだろうか? 眼球の後ろには神経繊維のような赤い束がくっつき、そのままだらりとぶら下がっていた。


 いきなり目玉が痙攣するような動きを見せた。と思った次の瞬間、ぴたりと轟音が止んだ。

 今度は物音がまったく聞こえない。キーンという金属的な残響が耳の奥で鳴り響いていた。


 眼球の瞳孔が脈打つように収縮を繰り返し、やがて正面に立っていた田島二等隊尉をぴたりと見据えた。まるで照準を定めるように。


 目玉がゆっくりと動きだし、田島二等隊尉に近づいていく。

 秋元軍曹が前に出ようと身体を動かした際、田島二等隊尉がその動きを止めた。そして口調はおだやかだが、有無を言わせない言葉を放った。


「この場にいる全員に命じる。この物体を無視しろ。悪意や敵意は感じられない。私が解除と言うまで、何があっても動くな。指先一つ動かしてはならない。全員その場に凍りついていろ」


 そのまま目玉は、田島二等隊尉の素顔からわずか10cm程の至近距離にまで近づいた。そして小刻みに瞳孔を動かし、美形すぎる素顔を見つめ続けていた。まるで何かを調べているかのように。


 不思議なことに、確かにあの目玉からは嫌な予感めいたものがまったく感じられなかった。

 おそらく索敵の技能を有する田島二等隊尉も、悪意や脅威がないと判断し、あれが一体何なのか、冷静に見極めようとしているのだ。


 目玉は田島二等隊尉を通り過ぎ、今度は秋元軍曹の厳つい素顔を舐めるようにして見つめていた。


 しかしそれでも、チリチリとした嫌な予感は消えなかった。というよりも、どんどん強まっている気がする。ってことは、あの目玉が原因ではない? だとしたら、何なのだ?

 

 目玉は秋元軍曹を離れ、今度は壁際に固まっているカオリ達の方向へ宙を進み始めた。

 ふいに、その傍らで表情を強ばらせたクソビッチの姿が目に入った。

 『って、こいつじゃねえか!』

 チリチリとした嫌な予感が、クソビッチの姿と重なり合った。


 目玉がクソビッチの素顔に近づいていく。

『ヤバい!』俺は飛び出した。カオリが危ない!

 

 突如、視界がスローモーションに切り替わる。


 近づいてきた目玉に怯え、『キ、キモッ!』と甲高い声をあげるクソビッチ。

 後ろに逃げようとした際、隣に立っていたカオリの身体を、身代わりになれとでもいうように乱暴に突き飛ばす。


 不意を突かれ、ふらついたカオリが隣の外国人女子にぶつかり、そのまま二人が同時に倒れ込むようにして、目玉にぶつかっていく。


 その瞬間、再び轟音が巻き起こった。

 目玉と、もつれ合うカオリと外国人女子の身体が、透き通るように透明化していく。


「カオリ!」


 俺は轟音に逆らい、カオリの名を叫んだ。

 カオリが振り返り、俺の目を見た。怯えきった表情に、俺は手を伸ばした。

 カオリが必死に半透明になった手を伸ばしてくる。俺はその手をしっかりと掴んだ。


 次の瞬間、俺は真下へ落ちていた。






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