蜻蛉

ヤクモ

蜻蛉

『小さい頃さ、トンボ捕まえて遊んでたの覚えてる?』

 吹き出しに刻んだ言葉。

 兄にLINEを送るなんて久しぶりだ。四つ年の離れた兄は、現在都心で一人暮らしをしている。ここ二、三年は顔も見ていない。突然送ったメッセージを、兄はどう解釈するだろう。

 一時間ほどして、ピコンッと着信音が鳴った。兄からだ。

『家から離れた大きい公園で捕まえてたな』

『急にどうした(笑)』

「別に」

 声に出した返答を打つ。すぐに既読が付き、不細工な犬が「元気出せ」と言っているイラストのスタンプが現れた。既読が付いただろうが、それ以上コメントはせずにスマホをスリープさせる。


 二人とも小学生だったころは、公園で遊んでいた。俺も兄も、家でゲームをするよりも体を動かす方が好きだった。その公園は家からは遠いものの、お気に入りの場所だった。

 住宅と同じくらいの背丈の樹がたくさん並んだその公園には、トンボやバッタがたくさんいた。キャッチボールをするのにも飽きた頃、俺たちは公園内の虫をターゲットにして、狩りをした。兄はセミやトンボを楽々と捕らえたが、俺はバッタやコオロギばかりを捕まえていた。

 飛ぶ虫が嫌いなわけではなかった。ただ、素手で捕まえられないのだ。空を飛ぶための羽が光を透すのを見ると、触れただけで壊してしまいそうで、怖かった。兄が喜々としてトンボの羽を掴んでいるのを、しゃがんだ俺はバッタを手で包みながら見上げていた。



「彰浩くん、一緒に帰ろ?」

 自分が在籍しているクラスでは無いにも関わらず、茉莉は堂々と教室の一番後ろの窓際にある俺の席まで足を踏み入れた。

「あぁ」

 乱暴に机の中身を鞄に詰めて立ち上がると、さっきまですぐそばに合った茉莉の顔が遠くなる。

 右側を夕日で照らしながら、二人で並んで廊下を歩く。放課後の校内は昼間の喧騒が嘘のようだ。

「久しぶりに、一緒に帰れるね」

 俺の一歩に対して二歩歩く茉莉は、俺を見上げながら目を細める。

「彰浩くんは、どこか寄りたいところある?」

 生徒玄関でそれぞれ靴を替え、改めて並んで歩き出すと、茉莉は小首をかしげた。

「特には。茉莉は?」

「んふふふ。実はあるんだなぁ」

 黙っているとクラスメイトよりも大人びた茉莉だが、笑うと途端に年相応に見える。もっとも彼女がこんな含み笑いをするのは俺の前くらいだと思うから、年相応な茉莉を知っているのは俺だけだ。なんて、少し自惚れてみるが、茉莉は俺の心中なんて露知らず、鞄を漁ると一枚のチラシを取り出した。

「これっ、知ってる?」

 カラフルなチラシの大部分を占めているのは、クレープの写真だった。

「いや、知らないな」

「今東京の方で流行ってるんだよ。もっちりした生地で、トッピングは自分で選べるの。今は期間限定でアイスもトッピングできるんだぁ」

 最初は俺に見えるようにしていたチラシを食い入るように見る姿に、笑みが零れる。

「何で笑ったのっ」

「可愛いなぁと」

「…………彰浩くんのおごりね」

「はっ?いやいやいや」

「………行きたいなぁ」

 上目づかいにそう言われると、頷かざるを得ない。

「いいよ」

「やったぁっ」

 先導する茉莉の一歩後を歩く。こんな可愛い恋人ができるとは。三か月前の、彼女が欲しいとぼやいていた俺に教えてやりたい。はじめての彼女は、賢いだけじゃなく、とてつもなく可愛いぞ。

「先週新しくできたばかりだから、混んでるかもなぁ」

「どこにあるの?」

「えっとね、公園が近くにあるよ」


「クーレーェプゥ―、クレーェプー」

「……何それ」

 裏道にある店だからか、思ったよりは混んでいなかったが、それでも十五分程待った。茉莉は生地をココアにし、チョコアイスとホイップクリームとチョコソースをトッピング、俺は「定番」と記載されていた、バナナの上にホイップクリームとチョコソースがかけられたクレープにした。

 立ち食いという選択肢の無い行儀のよい茉莉の「公園のベンチに座ろう」という提案で園内のベンチに座ったのだが、クレープを手にしてから茉莉の様子がおかしい。足がぱたぱたと動き、その様子は五歳児かと思うほどだ。

「夢にまで見たクレープが、今、私の手にあることが嬉しすぎるの」

「夢に見たの?」

「見た」

 真顔で頷く。そうか、夢に見たのか。

 茉莉は、「いただきます」と呟きクレープに噛みついた。目を閉じ空を仰いだかと思うと、言葉にならない吐息を吐いた。

「生きててよかった」

「そんなに美味しいのか」

「食べる?」

 てっぺんのど真ん中が欠けたクレープを差し出される。

「いいのか?」

「今食べないと、後悔するぞぉ」

 にやりと笑う茉莉を食べたいなんてもちろん言えるわけは無く。

「じゃあ、いただきます」

「どうぞ」

 話に聞いた通り、ココアの生地はクレープの割には厚みがあり、ホイップとチョコソースのべったりとした甘味が口内に広がる。アイスはクレープの中央付近にあるようで、俺の一口ではアイスまでは到達しなかった。

「美味しいでしょ?」

「あぁ」

 黙々と食べる姿を、クレープを包んでいた紙を手にしたまま眺める。

「夢でさ、彰浩くんも一緒にいたんだ」

 一瞬何の話か分からなかったが、さっき言っていた、「夢にまで見たクレープ」のことだと気づく。

「正夢になったね」

 ニコーッと笑う顔は、夕日に照らされて輝いていた。


「見て、影すごい伸びてる」

 背後で沈んでいく太陽に照らされて、二つの影が前方の道を覆っている。

「伸びてるな」

 空返事をしながら、頭の中ではどうやって手を繋ぐか考えていた。

 疚しい考えもあるが、単純に手を繋ぎたかった。離れないように握りたい。

 ちらりと隣を見る。俺の肩にも届かない小柄な茉莉は、きっと俺の胸にすっぽりと収まるだろう。さっきまでクレープを持っていた手も、包み込んでしまえる。

 脆いと、思った。

 告白された時、少し俯いて震える声で「好き」と言う彼女を見て、はじめて「女の子」がこんなにも弱々しいのだと思った。

 守りたいという思いが、「好き」に変わった。何から守るのか、俺自身よくわからないが、せめてこの子の風よけくらいにはなりたい。

 そんなことを考えていると、手を繋ぐことすらできなくなった。手を握ったら崩れてしまうんじゃないか。そもそもどのくらいの力で握ればいいんだ。

 少し手を動かせば触れる距離にいるのに、未だに触れずにいる。

「ぅおっ」

 突然、右手に柔らかい感触が伝わった。視線を下ろすと、茉莉が耳を真っ赤にしていた。

「手、繋いでもいい?」

 俺の指を握る力は弱々しい。

「………あぁ」

 ゆっくりと、指を茉莉の手の平に這わせた。確かめるように手の平を合わせる。

「やっと繋げた」

 頬を赤く染めた茉莉は笑った。



『元気?』

 「元気出せよ」のスタンプで終わっていた会話に、一週間ぶりにメッセージを送る。十分と経たずに電話がかかってきた。

「彰浩、元気にしてたか?」

「俺が兄さんに聞いたんだけど」

 ハハハっ。

 電話越しに聞こえる兄の笑い方は、相変わらず豪快だ。

「なんで電話してきたの?」

「この前のトンボも驚いたけど、急に元気なんて聞かれると、話でもあるのかと思ってな」

「あー。解決したよ」

「何だ。つまらないな」

 本当に残念そうだ。

「相談してくれてもよかったのに」

「………兄さん、今恋人いる?」

「お前言い方古風だよなぁ」

 苦笑いをしている顔を想像しながら、返事を待つ。

「いるよ。今度そっち帰る時連れていくよ」

 そう言う兄の声は、今まで聞いたことのない、柔らかな音をしている。

「俺も、いるんだ」

 トンボの翅のように脆そうな小さな手。俺に触れたあの温もりを思い出す。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蜻蛉 ヤクモ @yakumo0512

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ