凶兆にして吉兆

吟野慶隆

凶兆にして吉兆

 おれは富士山にいた。剣ヶ峰を目指して、登っているところだ。

 周囲は、とても険しい岩場だった。ただでさえ、地面が、きつく傾斜しているというのに、そのうえ、そこらじゅうに、角張った石だの岩だのが、ごろごろと転がっているのだ。こけないよう、体を鉛直に保つ必要があった。石を踏んづけないよう、足を差し出す位置に注意する必要があった。右に左に、岩を迂回する必要があった。

 ひどく、しんどかったが、それでも、歩き続けた。剣ヶ峰では、恋人が待っているのだ。彼女は、金髪碧眼の美少女で、身長は低く胸は大きく、おれのことを一途に好いていた。

 しかし、登っている途中で、アクシデントが発生した。相変わらず、きつく傾いている岩場を進んでいる時に、足を挫いて、こけてしまったのだ。どうすることもできず、おれは斜面を転げ落ちていった。

 しばらくして、地面が、比較的、水平となり、おれの体は止まった。仰向けになったまま、頭を動かして、首より下に視線を遣った。

 左手が、百八十度、捻じれていた。右脚が、膝あたりで折れていた。

 おれは、無事だった右手と左足を使って、立ち上がった。再び、剣ヶ峰を目指して、登りだそうとした。

 そこで、遠くのほうから、何かが飛んでくるのを見つけた。それは、ハゲタカだった。

 ハゲタカは、あっという間に、こちらに迫ってきた。そして、嘴を突き出すと、おれの右耳を摘まんで、引きちぎり、食べた。

 おれは、両手を、ぶんぶん、と振り回して、ハゲタカを追い払おうとした。しかし、できなかった。そいつは、おれの左目を啄み、左腿を啄み、右手親指を啄んだ。

 しばらくして、満腹にでもなったのか、ハゲタカは、勝手に去っていった。おれは、もはや、自力で動くこともできず、近くにあった、手頃な大きさの岩に腰かけていた。どことなく、空腹感を覚えていた。

 その後、俯いたところで、足下に、茄子が落ちていることに気づいた。おれは、渡りに船とばかりに、それを拾い上げると、口に放り込んだ。そして、咀嚼もそこそこに、ごくり、と飲み込んだ。

 それが、よくなかった。中途半端にしか噛み砕かれていない茄子は、喉の途中で止まると、それっきり、動かなくなった。気道が塞がれ、呼吸ができなくなった。

 おれは、慌てて、茄子を取り出そうとして、口に手を突っ込んだ。しかし、どうにも届かなかった。

 次に、おれは、喉に渾身の力を込めて、茄子を胃まで送り込んでしまおうとした。しかし、ぴくりとも動かせなかった。

 ついに、上半身を立たせてもいられなくなった。おれは、腰かけている岩の前方に滑り落ちると、仰向けに寝転がった。がりがりがり、と両手で喉を掻き毟った。爪が、肌に食い込み、ぬるり、とした血の触感を味わった。


 そこで、目が覚めた。

 うっすらと開きかけていた瞼を、ばちっ、と必要以上に開けた。はあーっ、はあーっ、と、荒くなっている呼吸を整える。全身に、汗を、びっしょり、と掻いていた。パジャマだけでなく、毛布やシーツ、枕カバーまでもが、ぐっしょり、と湿っていた。

 おれは、上半身を起こした。きょろきょろ、と辺りを見回す。

 そこで、自分の馬鹿さ加減に呆れ返ってしまい、思わず、はは、と乾いた笑い声を上げた。あんなこと、確認するまでもなく、夢だったに決まっているじゃないか。

 部屋は、薄暗かった。外は真っ暗、というわけではなく、カーテンの隙間から、わずかに光が差し込んできている。

 今は、何時だろう。そう思って、枕元に置いてある、カレンダー機能付きのデジタル時計に視線を遣った。

 それは、一月二日の午前六時六分を表示していた。

「じゃあ、さっき見たのが、初夢か。まさか、あんな悪夢に魘される羽目になるとはなあ……」おれは、上半身を傾けると、ぼすっ、とベッドに倒した。「悪夢でさえなけりゃあ、よかったのにな。あれほど、初夢に相応しい夢はない。なにせ、一富士二鷹三茄子だったものな……」


   〈了〉

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