最終話
この制服に袖を通すのも最後かと思うと、愛おしい気持ちで堪らなくなった。襟を整えて全身を姿見に映して目に焼き付ける。
「3年間、ありがとう。」
中退しても良いと思った。親や学校なんてくそくらえと思っていた。だけど、今は感謝の気持ちで一杯だ。未熟だった自分を恥はしない。その代わり、未熟だったゆえの過ちはもう犯さない。
「百合ちゃん、写真を撮りましょう。」
卒業式には両親ともに参加してくれる予定で、朝ご飯を食べ終わった後にそんな声をかけられた。入学式の時はとても嫌だったけれど、今は笑顔で「うん。撮ろう。」と答えている自分が居る。
樹がカメラマンになって私たち三人の写真を、外で玄関をバックに撮ろうとしていると、隣の家のおばちゃんが「私が撮ってあげるから樹ちゃんも入りなさい」と言ってくれた。自分の卒業式に家族四人の写真を撮るのは、小学校以来のことだった。
「じゃあ、お母さんたちは後から行くからね。」
「うん。気を付けて来てね。」
私は両親よりも先に家を出た。保護者の出席時間は、私たちよりも1時間ばかし遅いのだ。終わった後にはみんなでご飯を食べてくるかもしれないからと伝えてある。JONに寄ってから学校に着くと案の定、クラスの参加できるメンバーで謝恩会らしきものをやろうということを大地が触れ回っていた。
「百合子は?参加するだろ?」
「ああ、うん。蓬も参加するなら。」
「分かった。」
大地は参加メンバーの名簿らしきものを片手に、私の名前を書いてくれた。大地の周りに人が集まるのは、こういうところだなと思う。自分の懐に入れた人のことは、何があってもずっと大事にする彼の姿勢は、私も見習うところだと感じる。
恩田に持ってきた花束と色紙を預けた。彼はいそいそと自分の机の下にそれらを隠した。
本鈴が鳴ると、西野っちが教室へと入ってきた。今日の西野っちはオールバックで胸章をつけている。ネクタイも白だから、いつもとは違った姿に、「ああ今日はやっぱり卒業式なんだな」と実感した。
胸章をつけて体育館に移動すると、吹奏楽部の演奏と拍手に包まれた。口端が緩みそうになるのを我慢して、花村さんの背中についていく。この体育館に入るのも、これが最後だ。
滞りなく式が終了すると、どこからともなく鼻をすする音が聞こえた。卒業式で泣いたことなんてなかったけれど、私も危なかった。私の両隣に座っている花村さんとゆりかは完全に泣いていたから、二人の背中をさすってあげた。泣けるほど思い出を持っている私たちは、幸せなんだと思う。
教室へと戻ると、すぐに最後のHRが始まった。西野っちが一人一人に卒業証書を渡して、一言をかけている。
「穂高。」
「はい。」
自分の名前が呼ばれて、教壇に立っている西野っちの元へ行くと、私の卒業証書を手渡された。
「もう今の穂高なら大丈夫だな。穂高なら人の痛みの分かるお医者さんに絶対になれると思う。高校生活は楽しかったか?」
「うん。楽しかったよ。」
「よかった。夢を叶えるのを楽しみにしてるからな。」
「うん。」
西野っちが差し出した手を握ると、がっちりと握手を交わした。西野っちの掌には固く豆になった部分があった。テニス部の顧問をしているから、それでできたものだと思う。手を離すと、踵を返して自分の席へと着いた。
「先生が卒業生を送り出すのは、君たちが初めての生徒です。こうしてみんなの顔を見ると、長いようで本当にあっという間の2年間だったなと感じます。だから、先生にとっても君たちと過ごす時間が、本当に楽しい時間だったんだなと思います。卒業というのは、スタートです。明日から君たちの未来が始まる。どうか、一瞬一瞬を大切に。何よりも自分を大切に。君たちなら自分の人生を切り開く力を持っていると先生は確信しています。だから君たちもどうか、自分の可能性を大いに確信して、次のステップへと羽ばたいてください。いつまでも、君たちの幸せを祈っています。」
西野っちは泣いていた。そして、机に置いていた私の手の甲にも、温かい粒が落ちた。担任になる前から私と向き合ってくれた西野っち。今、ここであなたの言葉をこうして聞けているのも、あなたのおかげだと思える。目を閉じると、最低だった自分と楽しかった思い出のどちらも同時に瞼に映る。
「も~!西野っち泣くなよー!」
自分も泣いているくせに、大地が鼻声でそう言うから、みんなも鼻声混じりの声で笑った。私もハンカチで目元を拭い、すすりながら笑う。蓬の方を見ると、彼女も私に視線を送ってきており、二人で笑い合った。
それから大地が恩田にアイコンタクトを送り、恩田が席を立って花束と色紙を抱えて西野っちの正面に立った。
「西野先生。2年間、僕たちの担任をしてくださってありがとうございました。僕たち全員からの感謝の気持ちです。」
「お前ら……。」
西野っちはハンカチで涙と鼻水を拭うと、それらを受け取った。
「俺の方がありがとうだよ、本当に。君たちの担任をやらせてもらえて、本当によかった。ありがとう。」
西野っちの言葉に、私はさらに涙が出た。この人の生徒になってよかったと思ったし、この人を好きになってよかった。
HRが終わった後は、みんなと写真を撮りまくった。廊下には後輩たちが私と写真を撮るために並んでくれていたから、一人ずつと写真を撮った。それからクラスであまり話したことがない人とも撮ったし、一臣とか心とか透とか他のクラスで仲良しの人とも撮った。
一通り写真を撮り終わった後は、大地が「そろそろ飯行くか。」と声をかけたから、行ける人は大地たちに連なって移動することになった。私は大地にそっと近づき、少しだけ遅れることを伝えた。
「分かった。なんか西野っちも遅れてくるらしいから、気にすんな。」
快く了承してくれた大地の言葉に、西野っちも謝恩会に出席するんだと知った。西野っちと話をしてから謝恩会で顔を合わせるのはなんだか気まずいかなあと一瞬思ったけれど、これも今日しかできないことだと思い直した。
「穂高。話ってどうした?」
私は西野っちと待ち合わせの生徒指導室へと向かった。まだ校舎内にはたくさんと生徒が残っており、廊下からは「先輩写真撮ってください!」というような声も聞こえる。
「ありがとう、話す時間をとってくれて。」
「いや。どうせこの後は謝恩会しかないからな。」
私が生徒指導室のパイプ椅子に腰をかけると、机を挟んで対面となるパイプ椅子に西野っちは座った。彼と対峙するとさすがに緊張するかと思ったけれど、不思議とそんな気持ちにはならなかった。
「西野っちに御礼を言いたくて。」
「御礼?」
「うん。1年の時、私のことを救ってくれたでしょ。ずっと感謝してきたのよ。今日でもう卒業だから、ちゃんと伝えておきたくて。」
西野っちは「なんだ、そんなことか。」と破顔した。
「生徒が困っていたら助けるのは当たり前だろ。その後も心配はしたけど、その後立ち直ったのは、穂高自身の努力だよ。」
「西野っちが助けてくれなかったら、私は自分が変わろうとも思わなかったと思う。だからありがとう。」
座ったままだったけれど、私は深々と頭を下げた。そして顔をあげると、そこには照れくさそうに鼻の頭をかく西野っちの顔があった。ああ、なんて愛おしいのだろう。
「そういう風に言ってもらえると、教師冥利につきるな。こちらこそ、ありがとな。」
「西野っちはこれからもずっと、色々な生徒に出会っていくんだもんね。」
「そうだな。でも、お前たちのことはきっとずっと忘れないと思うよ。俺の卒業生第1号たちだからな。」
西野っちの瞳は輝いていた。私たちにとって西野っちは西野っちだけど、西野っちにとって私は数ある生徒の一人でしかないだろう。それは分かっているけれど、どうしても私にとっては西野っちが特別なのだ。
「あとね。やっと卒業を迎えたから言うけどね。」
「なんだ?」
「私、西野っちのことがずっと好きだったよ。」
自分でも滑らかに出た言葉に驚きそうになった。そして、言葉にしたことで「ああ、やっぱり私は、西野っちのことが好きだったんだな」と胸の奥に落ちた。
西野っちは目を丸くさせて、なんと言っていいか分からないという顔をしている。その顔を見て、私は笑いそうになったけれど堪えた。
「西野っちが私を助けてくれたあの日から、私はずっとあなたに恋してました。西野っちが前に言ってくれたでしょ?本当に好きだったら年齢とか気にするって。あれって、本当だなって身をもって理解したよ。西野っちを好きになったときから、もし伝えるなら卒業してからじゃないとダメだなってずっと思ってきたもん。」
「……。」
「今日、卒業式だったから伝えたいなって思って。」
私が顔を綻ばせて言うと、西野っちは後頭部をがしがしと掻いた。そして、咳払いをして言った。
「ありがとう。穂高の気持ちは嬉しいよ。でも、俺には別に好きな人が居るからごめんな。」
敢えてだと思う。西野っちは“好きな人”と表現した。奥さんが居るとか立場とかそんなんじゃなくて、一人の男として私の気持ちに応えてくれた。
「うん。素敵な人だもんね。」
「……なんか、それなら余計に悪かったな。文化祭で慶子のことをお願いして。」
「そんなことない。初めはどうしようかと思ったけど、片桐さん……今はもう西野さんか。慶子さん、すごく私たちによくしてくれたし。今日渡した花束も、JONで買ったのよ。昨日、どんな花束にするか打ち合わせをしたとき、すごく親身になってくれたんだから。この人が西野っちの選んだ人でよかったなって思ったよ。」
「JONで用意してくれたのか。ありがとな。」
「あのお花のチョイスね、“感謝”っていう花言葉が込められてるの。私たちからの感謝の気持ち。」
「そうか……。」
西野っちは顔を綻ばせた。西野っちは笑ってる顔が一番いい。
「ありがとう、私の話を聞いてくれて。これですっきり卒業できたわ。」
私は背伸びした。ぐんっと両腕をあげると、背筋が伸びて気持ちいい。そして、ゆっくりと腕をおろすと、胸のあたりがすっとした。
「俺もずっと穂高に感謝してるよ。俺を教師にしてくれたのは穂高と言っても過言じゃないからな。」
「えー。それならずっと感謝しててー。」
「お前、調子に乗るな。」
チョップで軽く頭を小突かれる。
「じゃあ、謝恩会に行くかあ。」
「そうだね。」
「ちょっと職員室寄って荷物とってくるわ。俺の車のところで待ってて。」
「乗せてくれんの?」
「どうせ同じ店行くだろ。」
「ラッキー。」
生徒指導室の前で西野っちと一旦別れて、私は昇降口へと向かう。そして、上履きをいつものように自分の下駄箱に入れようとしたところで、「あ。今日は違うんだった。」と思い出す。昇降口の土間には、上履きがたくさん入った段ボールがいくつも用意されていた。
上履きを持って帰っても良いけれど、不要な人は学校で処分するからと準備してもらった段ボールだ。私もみんなに倣って、その中に上履きを入れる。靴を履いて外へと出ると、校舎を振り返った。
3年間通って、もう二度とここに生徒として来なくなる日が来るなんて、想像もしていなかった。入学したときは、3年間なんて長いと思っていた。いつになったら早く家を出られるのだろうと思っていたし、中退したっていいと思っていた。でも、色々な人に支えられて、私は今日という日を迎えることができた。
初恋は実らないなんていう。今日のところは、すぐには気持ちの切り替えなんてできないけれど、フラれてよかったととりあえずは思っている。また何年か経ったときに、「初恋は実らなくてよかったな」と綺麗な思い出になれば良いと思う。
「穂高行くぞー!」
「はーい!」
春の始まりを告げる温かい今日、私は未来への一歩を駆けだした。
初恋 茂由 茂子 @1222shigeko
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