第17話

 初めての感情を胸に抱きつつ、2学期が始まってすぐに言われた彼の台詞を思い出す。「本当に好きな人なら、年齢を気にするはずだ。」という彼の言葉は、今の私なら心の底から理解できる。


 あなたのことが好きだから、あなたの立場を気にしてしまう。告白してもフラれるからとかそういうことではなく、迷惑をかけてしまうということが分かっている。


 どうしてあの頃の私は、こんな簡単なことも気づけなかったのだろう。今なら好きな人にしか心も身体も許せないと言っていた蓬に同調できる。西野っち以外の人と付き合いたいと思えないし、男女の触れ合いをしたいと思えない。


 それが世の中の正解とまでは思わないけれど、今の自分は前の自分よりもちょっとだけ好きだ。


「進路調査票かあ~。」


 3学期になると、クラス替えを見据えた進路調査票の提出が促された。それを配られた日の放課後、私と蓬はコメダ珈琲へとだべりに来ていた。だから話題は自然と進路の話になった。


「百合子はもう進路、決めてるの?」


 ホットカフェオレを飲みながら、蓬は上目遣いで私に尋ねてきた。女の子同士でもこのあざとい仕草ができる蓬は本当に可愛い。というか、蓬の身長が低いから、自然と上目遣いができるんだよね。男子がイチコロになるのも頷ける。


「進路ね。決めてるよ。」

「早~!なりたい職業があるの?」

「まあ、そんなところ。」

「ちなみにそれって聞いてもいいやつ?」

「ああ。産婦人科医になりたいんだよね。」


 原先生と出会ってから、私は産婦人科医という職業に興味を持つようになっていた。そして、自分でも女性の身体について調べるようになっていた。そして、調べれば調べるほど、どれほど自分が危ない橋を渡っていたのかを思い知らされた。産婦人科に行くと言われて、中絶専門のクリニックに連れて行かれたときの感情は一生忘れることはできない。私みたいな思いをする子を、1人でも多くなくしていきたい。


「産婦人科医かあ。百合子、似合いそう。」

「そう?」

「うん。百合子って、人の話を聞くのが上手だから、お医者さんになるの合ってると思うよ。」

「そうだといいけどなあ。蓬は?なんとなくだけでも決めてるの?」

「……まだ全然。」

「でもまだ高1だしさ。得意なことからやっていけばいいんじゃないの。後は好きなこととかさ。」

「……本音を言えば、好きな人と同じクラスになれればなんでもいい……。」

「ははっ。」


 私は笑ったけれど、決して馬鹿にはしなかった。“好きな人と同じクラスになりたい”というのも、正当な理由だと思うからだ。やりたいことがあるのに好きな人を中心にしてしまうのは良くないと思うけれど、まだ決めかねているのであれば選択肢を増やすという意味で悪いことじゃないと思う。


「なるほど。蓬の好きな人は同級生なわけね。蓬がどのクラスを選んだかで好きな人のクラスも分かるわけね。」

「あっ!」


 “好きな人と同じクラスになりたい”ってなんて良い響きなんだろう。年上の方が車持ってるし、拍が付くと思ってきていたけれど、大人の恋は大人になってからすればいいと最近は感じる。


 頬を真っ赤に膨らませた蓬は、「……誰にも言わないでよ」と小さな声で言った。私が「言わないよ。」と口端をあげながら言うと、疑いの眼差しを向けながらも「ありがと。」と彼女は唇を尖らせた。


 家に帰ると、ちょうど夜ご飯の支度が終わったところらしく、お母さんから「ご飯だから手を洗っておいで。」と声をかけられた。私はそれに素直に従い、洗面所で手洗いを済ませて部屋で部屋着に着替えると、リビングへと向かった。


 お母さんと樹が配膳をしている途中だったから、私もそれを手伝った。お父さんはソファーに座って新聞を読みながら、お母さんからの「ご飯よ」という声かけを待っている。今日の献立は肉じゃがとほうれん草のおひたしと切り干し大根の煮物と味噌汁だ。


「今日は和食だね。」


 配膳が整って全員が食卓につくと、樹が喜んでそう言った。お子様のくせに、樹は和食とか渋いものが好きなのだ。談笑をしながら食事を始めたタイミングで、私は進路調査票の話を切り出すことにした。


「クラス替えのための進路調査票を今日もらったんだけど。」

「そっか。百合ちゃんはもうそんな時期か。もう決めてるの?」

「うん。産婦人科医になりたいって思ってる。」


 私がそう言うと、一瞬だけ空気が止まった。だけどすぐに、花が咲いたような柔らかい空気になった。


「姉ちゃん、お医者さんになりたいんだ。」

「うん。そう。似合うでしょ?」

「百合ちゃんならきっと、患者さんの話をよく聞けるお医者さんになれるわよ。ね?お父さん。」

「ん?ああ……。それならちゃんと学生の本文として勉強しないとな。バイトはどうするんだ?」


 あれからも、私は回転寿司屋でのバイトを続けていた。店長が変わってから、店の雰囲気も一変した。以前はもっと緩い感じだったけれど、今は厳しい中にもやりがいのある環境だ。


「……バイトは続けさせてほしい。」


 私がそう言うと、お父さんの顔が厳しい顔つきになった。お父さんが言いたいことは分かる。ちょっと勉強したくらいで医学部への進学ができるわけじゃないことくらい、私が一番よく分かっている。


「もちろん、さすがにずっとってわけじゃない。3年にあがるタイミングで辞めようと思う。だけど今は続けさせてほしい。……色々な考えがあるし、バイトをしながらの勉強で医学部に受かるのかって言われたら、本当にその通りなんだけど。でも、人の気持ちに寄り添うお医者さんになりたいからこそ、勉強しかしなかった人にはなりたくないの。」


 自分のやりたいことを叶えるために勉強は大事。だけどそれと同じくらい大切なことが、学校以外のコミュニティーにもあると最近感じている。店長が変わってビシビシとしごかれるようになってから、他のバイトの人たちとのコミュニケーションの取り方が変わった。


 以前まではみんな、私のことを「店長の女」としてしか見てくれていなかったけれど、今は「一緒に働く仲間」と思ってくれている。そういう環境を経験していることが、将来の私の強みになればいいなと思うのだ。


「小遣いを稼ぐ以外の価値を見いだしているということか?」

「うん。」

「それなら、百合子のやりたいようにやりなさい。だけど、後悔だけはするんじゃないぞ。自分で決めたことなんだからな。」

「うん。もちろん。」


 思ったよりも、お父さんはあっさりと認めてくれた。お母さんに視線を配ると、ウインクしてまるで「よかったね」と言ってくれているようだった。


 家族での夜ご飯を終えて、キッチンでお母さんと二人で後片付けをする。お父さんはお風呂に入っており、樹はリビングでバラエティー番組を見ながらゲラゲラと笑っている。


「さっきのお父さん、あまりにもあっさりとバイトのことを許してくれたけど、なんでだったんだろう?」


 どうしても気になって、お母さんに聞いてみた。お母さんはお皿を洗いながら、口端を緩ませる。


「百合ちゃんがちゃんと考えて出した答えだからよ。お父さんはずっと、百合ちゃんが何を考えているのかを聞きたかったの。子供がそこに価値を見いだしているのならば、親としてはそれを応援するだけだからね。」

「それだけでいいの?」

「そうよ。もちろん、付け焼刃の答えじゃ駄目だっただろうけれど、アルバイトをして何か感じていることがあったんでしょ?」

「……うん。」

「でも、絶対に勉強を疎かにしないことよ。」

「分かってる。」


 親の心子知らずとはよく言うけれど、私もそうなんだろうなと思う。お母さんに聞いた答えも、いまいちピンとはこない。でもきっと、いつか分かる日がくるのかもしれないとも思う。


「医学部進学って浪人が当たり前だそうだからね。現役で受かるように百合ちゃん、頑張ってね。」

「も~。怖いこと言わないでよ~。」


 意地悪に笑うお母さんに文句を言いながら、私は乾拭きしたお皿を食器棚へと片付ける。文句を言いつつも、私はお母さんの言葉を胸に留めた。自分から全部やると決めたのだから、全部勝ってみせると腹を決めるために。

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