第14話
原先生の診察を終えてから、病室には母親と2人きりになった。もうこの人の顔も見たくないとあの時はあんなに思ったのに、今日は穏やかな心でいられる。そこに、人間の心はどれほど移ろいやすいものであるのかを思い知る。
「百合ちゃん。」
いつもの優しい母親の声に、私は「なあに。」と自分でも思ってもみなかったほど優しい声が出た。窓から見える空にはいわし雲が浮かんでいる。まだ夏の日差しと言ってもいいくらい残暑厳しい季節なのに、空はもう秋の様相を呈している。
「百合ちゃんが言っていた私とお父さんの不倫の話なんだけどね。」
私は窓の外から視線を外さなかったけれど、ピクリと身体を動かしてしまった。つい、反応してしまったのだ。
「百合ちゃんが誰から聞いたのか分からないけれど……。私とお父さん、不倫なんてしていないのよ。」
え?
「樹も、お父さんの子じゃなくて、私が前に結婚していた人の子よ。」
え?
「誰から聞いたのか本当に分からないけれど、私とお父さんが不倫していたっていうのは、根も葉もないデマよ。」
私は窓から視線を外し、ゆっくりと母親の方へと顔を向けた。私の視界には、椅子に座って私を見つめている母親が入ってくる。
「それ、本当?」
「本当よ。」
「え?でも、おばさん達が炊事場で話してて……。」
「それって私とお父さんが結婚してまだすぐの頃かしら?多分、再婚が気に食わなかった人が居たんだと思うわ。結婚して3年くらいは、よく、お義母さんが親戚の方たちを怒鳴りつけてらしたもの。和久の選んだ人が気に食わないなら出て行けって。」
「そんなことがあったの?」
「そうよ。だから私は、お姑さんに頭があがらないの。」
両肩を軽くあげて冗談めかして言う母親に、私はクスッと笑いが漏れた。母親とこうやって笑い合うのはいつぶりだろう。
「じゃあ、お父さんとお母さんの出会いはなんなの?」
「元々、高校時代にお付き合いしてたのよ。」
「えっ。」
あまりに驚いて大きな声が出てしまった。父親と母親の馴れ初めなんて聞いたことがなかったから新鮮だ。
「高校の同級生でね。でもその時は、手を繋いだくらいでお別れしたのかなあ。」
「ええ。純粋すぎじゃない?」
「お父さん、真面目な人だから。受験勉強で忙しくなってどちらからともなく自然消滅ってやつね。別々の大学に行って、別々の人と一緒になったって風の便りで聞いて。お父さんは百合ちゃん、私は樹という子宝にそれぞれ恵まれてね。お父さんと再会したのは、私が離婚するっていう時かな。」
「どうやって再会したの?」
「離婚のために弁護士事務所を訪ねたら、そこにお父さんが居たのよ。」
「ええっ。お父さんの弁護士事務所に行ったの?」
「そう。驚いちゃった。その時はすでに百合ちゃんのお母さんもお亡くなりになって2年経った頃だったから、個人的にも連絡とるようになってね。そこからね。あんな人だから、お父さんから交際の申し込みがあったのは、私の離婚が成立して1年経ったときだったけどね。」
「そうだったんだ……。」
どうして私はもっとちゃんと母親の話を聞かなかったのだろう。ずっとずっと虚像を恨んで孤独を感じていたのかと思うと、自分の至らなさを恥じる。ずっと父親のことを憎んできたけれど、誰も悪くなかったんじゃないか。
「お父さんはね。私と樹のことを本当にとても大切にしてくれる。だけどね、お父さんの中で一番大切なのは、他の誰でもなく百合ちゃんなんだよ。」
「私?」
私が問いかけると、母親が大きく首を縦に振りかぶった。
「夏休みに百合ちゃんが帰ってこなくなったときも、お父さんはずっと夜中まで起きて百合ちゃんの帰りを待ってたよ。」
「え……。」
「それだけじゃない。百合ちゃんが妊娠したって分かったときは、百合ちゃんが話して来たらすべてを受け止めようって心の準備をしていたし、今回の騒動のときには百合ちゃんのお母さんの仏壇の前で静かに泣いてたよ。」
父親が泣いていたということに、私はあまりに大きな衝撃を受けた。昔はもっと笑顔で接してくれていたはずの父親が、いつからか眉間に皺を寄せてしか話をしなくなった。でもそういえば、一度だけ父親が泣いているのを見たことがある。母親が死んだときだ。
いうなれば今回の出来事は、それくらい父親に心配をかけたということだ。
「でもいつも私に怒ってばかりで……。」
「反抗期の百合ちゃんにどう接したらいいのか分からなかっただけよ。元々、女性慣れしてない人だからね。中学生になってから急に百合ちゃんの外見が変わったじゃない。内心とても心配していたけれど、どう注意していいのか、どんな百合ちゃんの心の変化があったのか、分からなかったのよ。……それは、私も同じだった。百合ちゃん、ごめんね。そんなデマを聞いて信じちゃったら、そりゃあお父さんと私のことを信じられなくなるよね。百合ちゃんの様子がおかしいなと思ったときに、ちゃんと話を聞いてあげればよかった。」
この人はどうしてすぐに謝るのだろう。私だって悪いのに。むしろ、私の方が悪いのに。
「違うよ。私の方こそ、本当の母親じゃないなんてひどいこと言ってごめんなさい。最初に向き合うのを止めたのは私だよ。だから、悪いのは私。」
母親はハンカチで目頭を押さえながら、何度も首を横に振った。
「……大好きな百合ちゃんのはずなのに、百合ちゃんが怖くて仕方なかった。どうしてこうなっちゃったんだろうって。何度も挫けては“やっぱり百合ちゃんと向き合わなきゃ”って思うの繰り返しで。一向によくならない状況にもどかしさも感じて。上手に百合ちゃんのお母さんができなくてごめんね。」
私が中々家に帰らなくても、どんなに態度が悪くても怒らなかった母親が、こんなにも私のことで悩んでくれていたなんて知らなかった。私のことなんてどうでもいいから、言いなりになっているんだと思っていた。この人だって、感情のある人間だったんだ。
母親のことを見つめていると、母親が私の目尻から蟀谷のラインをそっとハンカチで撫でた。
「なに?」
「涙。」
「え?出てる?」
「出てる。」
母親がふっと涙声で笑ったから、私も可笑しくて笑みが漏れた。
「お父さんとも、ちゃんと話してみようかな。」
「話さなくていいんじゃない?」
「えー?」
「元気な顔を見せれば、お父さんはそれだけでいいのよ。」
どうして忘れてしまっていたんだろう。お母さんが死んで、お父さんが仏壇の前で泣いていたとき、私は泣きながらお父さんに飛びついた。するとお父さんは必死で涙を引っ込めて、私が泣き止むまで抱っこをしてくれた。ただ何も言わずに、温かくて大きな手で私の頭を撫でながら。
太陽の日差しが傾きかけてくると、母親は「そろそろ樹も家に帰っているだろうから帰るね」と言って帰って行った。私の退院は明日にでもできるらしい。入院して丸1日以上眠っていた私は日付の感覚があまりないけれど、ベッドの脇に置いてあったスマホの画面を開くと、あれから2日が経っていた。
亮太郎と矢野さん、そして美琴がどうなったのか、母親はきっと知っているだろうけど何も言わなかった。私も聞かなかった。全く気にならないと言ったら嘘になるけれど、でももう関わらない方が良いのだろうと思った。
スマホの画面から3人の連絡先を開いて削除をする。私はきっと、亮太郎のことを好きじゃなかったんだと思う。ただ、逃げ場にしていただけだ。家に居るのが辛いから彼と一緒に居ることを選んで、自分とも周りの人とも向き合うことから逃げていただけだ。
空がオレンジ色に染まり始めた頃、病室の扉がノックされた。誰だろうと思って「はい」と返事をすると、扉を開けたのは父親だった。驚いたけれど、中に入るのを躊躇している父親に「起き上がれないから入ってきなよ」と声をかけると、父親はゆっくりとこちらへと歩を進めた。
そして、ベッドサイドにある椅子へ座るように促すと、ようやく父親の顔がちゃんと見えた。こんなに父親の顔をちゃんと見るのは、いつ以来だろう。髪の毛に白髪が混じっており、私が知っている父親よりも随分年をとった。
ひょっとしたら、私が心配をかけてきたせいなのかもしれない。
「……身体は、辛いか?」
「まあ、まったく辛くないわけじゃないかな。」
「そうか。」
「……。」
「……。」
父親は何を話したらいいのか、言葉を探している様子だった。それがなんだか可笑しくて私は思わず吹き出してしまった。突然笑い始める私に、父親は困惑の表情を見せる。その姿がまたさらに可笑しい。「どうしたんだ?」と慌てる顔は、小さい頃に私がいたずらをして困惑していた父親から少しも変わっていなかった。
「ごめん、なんだか可笑しくて。……お父さんは今でも死んだお母さんのこと好き?」
笑いを落ち着けてそう尋ねると、父親は目を泳がせた。だけど、私がじっと見つめているのを感じて、唇を尖らせると咳払いをして言った。
「好きじゃなくなった日なんてないよ。」
私とお父さんはひょっとしたら似た者同士なのかもしれない。
「私も。死んだお母さんのこと……今のお母さんのことも。どっちも好き。」
私がそう言うと、お父さんは照れたように「そうか。」と言った。それがまた可笑しくて、笑いが止まらなくなった。
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