第13話
目を覚ますと、白い天井が視界に飛び込んできた。ここがどこなのか分からず、まだ覚醒しきっていない頭をフル回転させて考えてみるも、皆目見当もつかない。自分の部屋でも亮太郎の部屋でもない部屋のベッドに寝かされていることだけは分かったため、身体を起こそうと力を入れてみるものの、上手く起こすこともできない。
いや、体中が痛い。
せめてここがどこなのかだけでも理解をしようと頭を動かして視界を広げると、自分の腕に繋がれている点滴が目に入った。それでやっと「ああここは病院なのか」と理解をした。それを理解すると、薬品の匂いや清潔なシーツの匂いなど、病院独特の香りを感じ出した。
周りに他の患者が居ないことから、ここは個室なのだろうと予測も立てる。窓の外から漏れてくる光を頼りに、今が大体お昼間くらいだろうと察しがつくけれど、今日が一体いつなのかが分からない。
長く眠っていたような気もするし、たった数時間だった気もする。
さてこれからどうしたらいいだろうかと思ったときに、病室の扉をノックした後にそれが静かにスライドして開けられる音がした。よかった。誰かが来てくれた。
「百合ちゃん……!」
病室に入ってきたのは、母親だった。私が目を覚ましていることに気付くと、途端に瞳を潤ませた。そして、遠慮がちに点滴に繋がれていない方の手を握った。
「ごめんね……!ごめんね……!」
堪え切れなくなった母親の涙は、とめどなく溢れ出した。母親は「あの時、あなたがどんなに言おうと、もっと強くあなたが家を出て行くのを止めればよかった」と後悔を口にしながら、ただ涙を流した。
「どうして……?」
私はその母親の行動が理解できなかった。叱ってほしかった。なじってほしかった。バカ娘と怒鳴られた方が楽だった。家を勝手に出て行ったのは私で、母親と樹の手を振り払ったのは私だ。あんなことに巻き込まれたのだって私の自業自得だ。それなのに、なんで母親が謝るの?
「どうして、謝るの?悪いのは私じゃない……。」
私がそう言うと、母親は力いっぱいに首を横に振った。
「違う。もっと私が百合ちゃんの気持ちに寄り添って居れば、こんなこと自体起きなかったの。ずっとずっと辛い思いさせて、貴女の気持ちに気付かなくてごめんなさい。……とりあえず、その話はまた後でゆっくりしましょう。まずはお医者様に来てもらって診察してもらわないと。」
母親はすぐにナースコールをし、私が目を覚ましたことをナースセンターへと連絡した。それからすぐに、女性の医師と看護師がそれぞれ1名ずつやってきた。
「気分はどう?」
白衣を着ているから医師と分かるけれど、夜の街に居たらキャバ嬢に見間違えられるのではないかと思うくらい派手な美人だ。原先生は人と距離を詰めるのがうまいのか、私とは初対面であるはずなのにまるで前から知っていたかのように話しかけてくる。
「良くもなく悪くもなく。起き上がれないのがしんどい。」
「ははっ。そりゃあよかった。ここに運び込まれてきたときのことは覚えてるかな?」
「それが全く。」
「そっか……。今から重大な話をするから、そのまま聞いてくれるかな?」
原先生の前置きに、私の心臓はドキリとなった。どんな話をされるのか分からず、どんな心の準備をすればいいのかも分からない。原先生は温和な笑顔を保ったままだけれど、その後ろにいる母親の表情が強張った。だからきっと、よくない話をされるのだと思う。
「百合子ちゃんは、彼との赤ちゃんを妊娠していたよね?」
「はあ……。」
「お腹がとても痛かったんじゃない?」
「うん。めちゃくちゃ痛かった。」
「じゃあ、めちゃくちゃ出血してたのは知ってた?」
「出血?」
出血と言われると、あの鉄臭い部屋を思い出す。亮太郎と矢野さんが夥しい量の出血をしていたけれど、自分はしていた覚えがない。手足は縛られていたけれど、殴られてなどいなかったからだ。
「そっか。実はね。百合子ちゃんがここに運ばれてきたとき、たくさん出血してたのよ。」
妊娠の確認をされてから出血の話をされれば、それが何を意味しているのか知識の少ない私でも薄々勘づき始めた。顔から血の気が引いていくのが、自分でも分かる。
「……赤ちゃんは?」
私が訪ねると、原先生はゆっくりと首を横に振った。そして、私の手を優しく握る。原先生の手はなんて温かいのだろう。
「言いづらいけれど、流産です。病院に到着して診察したときには、状態もあまりよくなかったのですぐに手術をして、処置をしました。」
「……。」
正直、何と答えたら良いのか分からなかった。中絶をしようとしていた子供だ。だけど、流産と聞いて、もう私のお腹に子供が居ないんだと思えば思うほど、涙が溢れてくる。悲しくなってくる。こんな気持ちになるなんて、私は、本当は産みたかったのだろうか。
「……ごめんなさい。」
溢れる涙を拭いながら謝ると、原先生は「いいのよ。」と言いながら、強く、優しく私の手を握ってくれた。私の“ごめんなさい”は、すべてに対してのものだった。ここで話を見守ってくれている原先生や看護師に対して、これまで迷惑をかけてきた家族に対して、命を守り切れなかった赤ちゃんに対して、そして大切にできなかった自分に対して。
「どうか、自分を責めないで。百合子ちゃんが経験したすべてのことは、百合子ちゃん自身の未来にも繋がるし、同じ経験をした人の希望にもなる。意味のないことなんて1つもないから、自分を責めなくていい。ありのままの百合子ちゃんの気持ちで良いんだよ。」
原先生の言葉は、すっと私の胸に落ちた。赤ちゃんを流産したと聞いて、悲しい気持ちの中でどこかでほっとした自分が居た。そんな自分に気付いて、また自分を最低だとも思った。だけど原先生の言葉はそんな私も包んでくれた。
中絶をしようと決まったとき、亮太郎は一生背負っていくと口では言っていたけれど、果たしてどこまで本気でそう思っていたのだろう。その亮太郎の言葉を聞いて、その時は本気で私も一生背負おうと思って居たけれど、あんな決意は到底本気じゃなかった。
本気で覚悟を決めるってどういうことかさえも分かっていなかった。今なら、母親が血相を変えて怒ったことも心で理解できる。
「……本当は、子供をおろすつもりだったの。でも今から考えたら浅はかだったと思う。不本意な形で流産して……。流産って聞いて悔しくて悲しい気持ちもあるけれど、自分の意志で流産したわけじゃないから、どこかほっとした自分も居て。最低だなと思ってしまう。」
「そうだったの。産むことも中絶することもどちらも覚悟がいることだと思う。そして、今の百合子ちゃんみたいに高校生で経済力もない中で子供を産むのかそれとも中絶するのか、難しいことだよね。でも先生は、どちらを選んでも正解なんだと思う。」
「え?」
どちらを選んでも正解という概念は私のなかにはなかった。だから思わず、驚いた声が出てしまった。だって、母親もあんなに怒っていたし、できることなら産んだ方が正解なんじゃないかと心のどこかで思っていた。
「ううん、違うね。どちらを選んでも正解に自分でしなきゃいけないんだよ。」
「どちらを選んでも正解に?」
「うん。子供を産むなら育てなきゃいけないし、子供を中絶するならその命を奪わなきゃいけない。生まれてきた子供に、“あなたを産んだことは間違いだった”って言う?中絶した後に“やっぱり産めばよかった”って言う?そんなことできないよね。どちらを選んでも正解にするために、悩んで悩んで悩み抜かなきゃいけないんだよ。ほんの少しの後悔もあるかもしれない。だけど悩み抜いて出した答えなら、必ず自分の正解にしていけるから。」
原先生の言葉を聞いて、自分の考えの至らなさを余計に感じた。子供ができれば高校を中退すればいいかくらいにしか思っていなかったし、亮太郎と中絶しようって決めたときも「亮太郎が言うから」くらいにしか思っていなかった。赤ちゃんのことも自分のこともちゃんと考えきれていなかった。
「……罰があたったのかな。」
「それは違うよ。少しでも百合子ちゃんの元に来てくれた子が、命をかけて教えてくれたんだよ。」
命をかけて教えてくれたなら、私はそれに対してどうしたらいいんだろう。謝っても謝り切れないし、謝ったところでこの子の命はもう戻らない。
「……私はこの子に対してどうしたらいいのかな。」
「ありがとうって感謝することなんじゃない。」
「感謝するの?」
「たった少しでも、自分の元に来てくれてありがとう。命をかけて教えてくれてありがとうって。そうやってその子に感謝して、その子に恥ずかしくない人生を送ることが、意味あることに変えていくってことなんじゃないかな。そして、いっぱい幸せになることが自分にとって正解にしていくってことなんじゃないかな。」
「幸せになっていいのかな?」
「幸せになっちゃいけない人なんていないから。それに幸せって言っても、辛いことや過ちを忘れていくことじゃないから。それも全部自分の生きる糧にして、自分にとって大切なことを教えてくれたすべてのことに感謝していく生き方が、幸せってことだと思うのよ。」
「先生、深いね。」
「伊達に30年生きてないからね。」
「えっ。先生って30なの?」
「そうよー。今年31だしね。私でも人生これからなんだからね。百合子ちゃんなんてまだ10代よ。あと何十年生きると思ってんのよ。そんなこの世の終わりみたいな顔しなくていいの。いっぱい笑って泣いて悩んで幸せな人生を勝ち取ればいいの。」
あっけらかんと笑ってみせる原先生は、本当に人生が楽しそうに見えた。私もそうなれるだろうか。ううん。なりたいな。
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