第12話
今まで嗅いだことのない量の鉄の匂いが部屋中に充満している。残暑厳しい季節でクーラーもついていないから暑いはずなのに、私の身体は寒さを感じて震えていた。手先の感覚が分からないほど、冷え切っている。
もう、どれくらいの時間が経ったのだろう。昼間に家でアイスを食べたきり何も口にしていないからお腹が空いてもおかしくないはずなのに、まったくそうならない。むしろ、先ほどから吐き気を催しており、空吐きをしている。
「お前らさあ。本当にバレないとでも思ったの?勝手にハッパくすねてさあ。」
大男がそう言うやいなや、大きな足を振り上げて床に転がっている亮太郎と矢野さんの身体へと振り落とす。部屋には鈍い音が響きわたり、うめき声があがる。先ほどからこれの繰り返しだ。もう、2人共死んでしまうんじゃないかというくらい、ぼこぼこにされている。
誰でもいいからもう、この状況から助けてほしい。頭の中でどうやって警察に連絡を入れるかぐるぐると考えるけれど、良い案が浮かばない。幸いにも私のスマホは今穿いているジャージのポケットに入っている。だから、どこかのタイミングで外部と連絡をとりたい。
だってそうしないとこのままじゃ、確実に私も何かしらやられてしまう。
それに先ほどから下腹部に激痛が走っている。なぜなのかは分からないけれど、お腹の赤ちゃんに何か起きているんじゃないかと思う。そのせいで、脂汗が額に滲んでいる。
どうしよう。どうしたらいい?
そこでふと思い浮かんだのが、西野っちの顔だった。西野っちの家はこの隣だ。何か助けてもらえる手段はないだろうか。
トイレに行って電話をかける?いや、私が怪しい行動をとれば、一発であの蹴りが飛んでくる。じゃあ、この壁を蹴って大きな音を出す?それも男たちに怪しまれるし、西野っちも音だけじゃ何なのか分からないかもしれない。
とにかく、男たちの隙をつくしかない。何がある?何ができる?決して良いとは言えない頭をフル回転させる。男たちに怪しまれずに外部と連絡をとる方法……。
「さ、こんなもんか。こいつらの意識があるうちにサツ呼ばねえとな。大麻所持の容疑で逮捕されとけ。ほんで、お前ら二人で仲間割れして殴り合ったことにしとけよ。そうしねえと次は命ないからな。」
大男がそう言って暴行をやめると、金髪の男がスマホを片手に部屋から出て行った。どうやら自ら警察に通報するらしい。亮太郎たちはもう用無しということなのだろうか。
「そして、お嬢さん二人だけど。この二人がハッパくすねて金をちょろまかした分を責任もって払ってもらわねえとな。俺らのところの店で働いてもらうと言いたいところだけど、どうせまだ未成年だろ。それまではパパ活してもらうかなあ。最近は風俗も年齢に厳しくてさあ。安心しろ。住むところだけは確保してやるからさ。お前らみたいな女がゴロゴロいるから、その中で色々と教えてもらったらいいよ。」
一瞬、「え」という言葉が出そうになった。そんなの、どう考えたって御免だ。だけど、ここから脱出する手段を思いつかない限り、このまま私はこいつらの言いなりだろう。
ベッドの上で放心状態だった美琴は、スキンヘッドから服を着るように命じられており、大人しく従っている。そもそも美琴も大麻をやっていたから、こいつらの言いなりになるしかないのかもしれない。でも、私は?
私は今日、たまたま母親と大喧嘩して家出してきただけだ。ただ居合わせただけで、こいつらの言いなりにならなければいけないの?でも、怖い。拒否をしたら、亮太郎みたいに暴行を受けるかもしれないと思うと、怖い。
「お前も。さっさと準備しろ。」
大男は、私の足と手の紐を解いた。チャンスはもう、ここしかない。
「あの……。」
「なんだ?」
「さっきから私のスマホの着信が鳴りっぱなしで……。親が心配しているみたいでなんで連絡だけとってもいいですか?何も連絡しないと大事になりそうで……。」
私がそう言うと、大男は一瞬だけ怪訝な顔をしたが、「1分以内に終わらせろ。」と許可をくれた。スマホが鳴りっぱなしなのは本当のことだった。あんな形で家を出てきたから、母親が心配しているのだと思う。
スマホの画面を見ると、母親と西野っちと担任からの着信が合わせて100件以上になっていた。恐らく、母親が学校に連絡を入れたのだろう。西野っちがこれだけ電話を入れてくれているなら、今かけてもすぐに繋がるかもしれない。
私は意を決して西野っちに電話をかけた。
『もしもし、穂高?!今どこに居る?!』
思った通りだった。西野っちは1コールで電話に出てくれた。ただこの電話で「助けて」と直接的に言うことはできない。言葉のチョイスで何とか緊急事態を伝えなければいけない。命がかかった緊張からか、私の口の中はぱさぱさになっていた。
「ごめんね、西野っち。私のことなら心配しなくて大丈夫だから。」
なんとか声を絞り出すことができた。そして、私の運命の分かれ道の質問をしなければいけない。西野っちが今、家に居てくれればなんとか首の皮が一枚つながる。
「それより、西野っちは今、家なの?」
『え?あ、ああ。』
……よかった!
「じゃあ、玄関の鍵を開けて待っててくれる?勝手に帰ってくるから。西野っちは家の中に居ていい。もう、探さなくて大丈夫だから。家の中で待ってて。」
助けてとは言えなかったけれど、西野っちにしてほしいことだけを私は伝えた。亮太郎の家から出ると、西野っちの家の玄関の前を必ず通らなければならない。上手くいくか分からないけれど、西野っちの家の玄関の鍵さえ開けていてもらえれば、隙を見て逃げ込むことができるかもしれない。
美琴も一緒に助けてあげたいけれど、私がそうやって逃げることで男たちは私へ視線が向くだろうから、美琴が逃げる隙を与えられるかもしれない。それに、やつらはすでに警察を自ら呼んでいて、私たちにかけられる時間もそんなに無いはずだ。
『穂高、お前は今、彼氏の家か?』
「うん。そうだよ。」
そう言った瞬間、玄関の扉がドンドンと大きな音を立てた。
「小西さーん!警察です!中に居るんでしょ?開けてくださーい!」
外からの声が聞こえると、室内は一瞬にして凍り付いた。男たちが明らかに「まずい」という表情をしている。
「サツ来るの早くねえか?!」
「まだ電話して5分も経ってねえっすよ。」
「じゃあなんでサツ来てんだよ!」
ああ。きっともう、この瞬間しかない。
男たちが慌てふためいている隙に、私は玄関まで走った。
「あ!てめぇ!!!」
私が座り込んでいた床から玄関まで実際には5mもないけれど、長く長く感じた。すべてがスローモーションだった。鍵を開ける手が震えた。背後で男たちが怒鳴り散らして迫ってくる中、私は勢いよく玄関を開けた。
それからはもう、何が起きたのかよく分からなかった。「穂高!」と大声で呼んでくれた西野っちの胸の中に飛び込んだ記憶しかない。大勢の警察官が亮太郎の家へとなだれ込んだのが見えたけれど、私は泣きながら西野っちの腕にすがりついた。
そして、一気に安心したせいか、下腹部の痛みが尋常じゃないくらいに疼きだす。私は立っていられなくなり、西野っちの腕を握ったままその場に蹲った。
「穂高?どこか痛むのか?」
西野っちの問いかけに答えられる状態でもない。ただひたすらに痛い。外は蒸し暑いのに、全身が冷えていくのが分かる。身体が震えだす。
私の異常に気付いた西野っちが誰かを呼んでくれ、「歩けますか?」と女性警察官から尋ねられる。私はそれに首を横に振ると、すぐに救急隊が来てくれて担架に乗せて救急車へと運ばれた。
どうしてあんなに大勢の警察官が居たのか。そして、どうして救急車まで待機していたのか。疑問に思うことはいくつかある。だけど、今、私はそれどころじゃない。痛い。ありえないくらい下腹部が痛い。
「穂高しっかりしろ!」
救急車には西野っちが同乗してくれたらしい。私の手を握りながら、必死な形相で声をかけてくれる西野っちの顔を見ながら、私はあまりの痛さに意識を手離した。
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