真っ白なキャンバス

雪猫なえ

①青と黄の衝突

 雲の割合は視界の約3割、つまり今日は「晴れ」。


「絶好のバトル日和だな!」


 三メートルを軽く超越する崖を見上げて、俺は昨日買ったばかりの大剣を一振り。瞬間、真っ二つに崖は裂け、俺の顔を光が照らし、その先、俺を待ってるあの人が立っていた。今この状況は、俺とあの人が無事に約束を果たしたことを物語っていた。


「よお、相棒」


 不敵な笑みは健在、か。それがなんだか嬉しい。再び始まる、新たな冒険の幕開けに胸が躍っている。今度はきっと、十年前の悪夢を振り払って前に進める気がした。


「さあ、行こうか」


 すっと手を差し伸べてくれる彼の頼もしさとかっこよさとにやられそうだ。

 二つ返事で俺が承諾したそのときだった。




「ばあっ!!」


 突然俺の視界が色素の薄い茶髪に侵された。

 辺りには、掃除道具でチャンバラをしているガキども、メイクに忙しそうな加工厨たち、古典の予習に追われる考えなしに空腹が授業に支障をきたすと言い張る早弁はやべん組などが勢揃い。崖も大剣も相棒もなく、何の変哲もない学校生活の一コマが散乱していた。

 親しみ深い風景の中で、馴染みのない鮮やかな茶髪が一際ひときわうざったかった。


「誰だよお前」


 せっかく良い場面ところだったのに。

 見慣れないそいつは目をキラキラさせて俺を見つめていた。先ほどからキラキラ軍団の気配は感じていたが、まさか襲いかかられるとは思っていなかった。誰かのダチがうちのクラスに遊びに来たのかと思って完全に守備範囲外だった。


「えー、いつもあんなに情熱的な視線を送っていたのに覚えてくれてなかったの?」


 大袈裟に語尾の調子をつり上げて茶髪は言う。知るかよ、片思い中の女子か。いや男子でもそういう奴はいると思うが。それかアイドルファンがライブ行ったときのアレ。「え、今私のこと見た!?」ってやつ。いや認識してねーだろって。


水希みずきだよ水希!隣のクラスの黄瀬水希きせみずき!」


 いや、だから、知るか。どこのどいつだよ。そもそも、「いつも」この茶髪が来ていたことさえ認識していなかった。俺からすれば、きらびやか一軍は十把一絡じっぱひとからげに「イケてる男子集団」だ。


「知らねぇ。誰だよ。用がないなら帰れ。うるさいから」


「いやいや用事があるから来たんでしょ。でさでさ、肝心の用事なんだけどぉー」


 俺のキツめの言葉も意に介さず、黄瀬と名乗ったそいつは手持ちのA4クリアファイルから何かをごそごそと取り出した。

 どうやらこいつはこういうウザいキャラらしい。正直に言わずとも面倒くさい。できれば早々に撤退してほしいところだ。そもそも俺なんかに何の用事があるって言うんだ。俺への来客なんて普段から滅多にないぞ。未提出の宿題なんて作ったことがなく、女子から告白の呼び出しもない俺に、訪問客なんているはずがなかった。


「僕さ、絵描くんだよね」


「はあ」


 話題の飛躍を見せた黄瀬が取り出したのは数枚のイラストだった。促されるままに手に取らせてもらう。どれも最後まで仕上げられていて、完成品だということが素人目しろうとめにも明らかだった。自然と扱う手つきに丁寧さを求められる気持ちがした。作品の大切さを俺はよく知っている。


「お前が描いたの、これ」


「そうなんだよー!まだまだなんだけどさ、これが今の僕の精一杯」


 自分の実力に苦笑する姿に好感が持てなかったと言えば嘘になる。へへへ、とはにかむ笑顔も好印象だった。

 だが、こういう子犬タイプには要注意と、俺の経験と直感が盛大に脳内反響している。


「それで?まだまだ未熟な絵描き様が陰キャな俺に何用ですか」


 手は黄瀬に差し出し目は彼に向けないまま、世界で唯一無二の数枚を返却する。視線は飛ばさずとも、指先の紙が引き抜かれる感触があるまではしっかりと力を込める。床にばらまかれた紙切れが、見るに耐えないほど作者の胸に苦しいことは実体験から吸収済みだ。

 紙が俺の指を完全に離れきったことを確認した瞬間、エンターキ上で俺の薬指が跳ぶ。昔からの打ち癖で、こいつを叩くときはいつも右手の薬指だ。

 発言が聞こえてこないのでちらりと上を見たら、黄瀬は何やら不満そうに膨れていた。


「僕は『絵描き様』じゃないし、青井が陰キャだとも思わないけど」


 どうして黄瀬が俺の名前を知っているのかわからず動揺したが、黄瀬の次の言葉を待つ。


「頼みがあってきたんだ」


「は、頼み?」


 話の見えなさに手が止まった。黄瀬の表情は終始大真面目だった。


「……頼み?」


 もう一度ダメ押しする。またよくわからないことを言い出した。こいつが俺に頼むことなんて見当もつかないが、まさか作品を売ってくれなんて言い出さないだろうな。頭の中を盗られるのだけは勘弁だ。


「そう、頼みたいことがあるんだ、青井に」


 俺が混乱していることを察してか、黄瀬はダメ押しの質問にもきちんと返答をくれた。所々垣間見える「良い奴」感が余計に気にくわないような気もしてくる。


「僕と共作してよ」


 今こいつなんて言った。共作とか言ったか。要するに、手を取り合って仲良く作品作りしましょうってか。

 ふざけてやがる。他の奴なんて構っている暇はない。


「お断りだ」


 どうして、と訴える黄瀬の表情に呆れる。


「俺は、創作を団体戦にするつもりはない。もちろんペア競技もお断りだ」


 関係ないが、授業のサッカーもテニスのダブルスも大嫌いだ。

 腑に落ちないのだろう。黄瀬はその場を立ち去ろうとしない。もっとも、こいつが動かないのなら俺が移動するまでだ。PCを持ってうろつくことは叶わないため作業は中断さざるをえないが、ちょうど煮詰まってきて構想をねる過程に立ち戻ろうと思っていたため都合が良い。


「用はそれだけかよ。じゃ、俺も俺で忙しいんで」


 PCを机脇の鞄にしまって席を立つ。


「待ってよ!」


 待ってられるか。黄瀬は黄瀬、俺は俺で作品を作ればいい。そもそも、文字書きと絵描きが積極的に関わる必要なんてない。


(本当にうるさかったな)


 鬱陶しい邪魔者は自分の視界から排除するに限る。これまでの人生そうしてきたし、それで正解だったと思っている。


「待てって言ってるだろうが!」


 往生際の悪いことに、黄瀬は俺を追いかけてきた。直線廊下の壁にギザギザに反射した末に黄瀬の高い声が鼓膜に届く。


「俺にはもう話すことなんてねーよ」


 距離的に聞こえるか定かではなかったが、奴の耳は良かったようだ。


「僕にはあるんだよ!このまま引き下がれるか馬鹿!」


「お前……」


 どうやら見かけによらず口が悪いと見た。好青年像に少しひびが入る。やはりうるさい子犬パピーとは関わらないに限る。勝手にキャンキャン吠えててくれ。俺は玄関門の外にいるんで居心地のいい庭の犬小屋で勝手に関わることなくやっててくれ。土砂降りの中段ボールに入っている捨て犬も、餌ならお人好しのヤンキーに貰ってくれ。俺には、渡してやろうと思える手持ちも余裕もない。


「引き下がってくれねーと困るんだが」


 走るのも気だるいので歩き続けていたら駆けてきた黄瀬に追いつかれた。並んで歩いてひっついてくるこいつに構わず他クラスの前をずんずん進んでいく。どこを目指して歩いているのかは決めていない。


「僕、諦め悪いんだからね。絶対青井を共作の海に引きずり込んでみせるよ」


「怖いこと言うなよ」


 直線廊下の突き当たり、五組まで来て立ち止まる。同じく一時停止した黄瀬が俺の前に立ち塞がる。

 相当本気なのか。それにしたってどうしてこんなに本気なのか。一体こいつの原動力はなんだ。黄瀬は誰がどう見ても意気込んでいる。過剰なまでに。


「僕の話、最後まで聞いてもらうから」


「話、最後まで行ってなかったのかよ。もう十分概要はわかったって」


 黄瀬が俺の制服の袖を軽く引いた。そしてすぐに腕ごと掴み直される。黄瀬の顔が視界いっぱいに映って、控えめに言って気色悪い。


「最後まで、ちゃんと聞いて」


「お、俺は誰かと作業するのがそもそも嫌いなんだよ。もちろん初対面のお前が例外なわけない」


「いいから聞くだけ聞けよこのわからずや。そんなこと言ってっからずっと一匹狼なんだろうが」


「はあ!?お前、マジで頭おかし……」


「僕は青井のファンなんだ!」


 突然のカミングアウトに俺の頭は追いつかなかった。ただでさえキャパオーバーなところにこれは酷い。言葉に詰まって当然だろう。「ふぁん」って何だ。特定の人物や事象に対する支持者や愛好者っていうアレか?


「何言って……」


「本当だよ」


「信用なんねー。ていうか何をもってファンだなんて……あ?」


 そういえば俺は、こいつはもちろん学校の誰にも小説を書いてるなんて言ったことがなかった。趣味が創作だなんてことも、今まで他人ひとに言ったことがない。

 どうして、こいつが、見ず知らずのこいつが、俺のことをそこまで知っているんだ。名前を周知されていた事実がここにきて恐怖を引き立てる伏線になっている。同じ学年なら知っていても不思議ではないし、学ランに名札くらい付いているのでそこまで怖がる必要もないはずなのだが、そんな理屈は恐怖心の前にひざまずいた。


「僕、青井の作品に惚れたんだ!」


「惚れたとかマジで言うなよ気持ち悪ぃ」


 誰も知らないはずの情報を入手済みであることと相まって背筋が凍る。


「そういう冷たい性格が作品にきてるのかなぁ」


「はあ?」


 黄瀬が溢した分析にも悪寒がする。こいつの目の付け所が変態っぽくて嫌だ。なんか、直感的に、嫌だ。


「青井のパソコン」


「は?」


 突然黄瀬が呟く。


「僕、さっき見たからわかるんだよね、どこにしまったか。今どこにあるのか」


「は」


 疑問符をす前に黄瀬が何をしようとしているのか、どうやって俺を脅そうとしているのか思い至った。


「あ、先生実はさっき教室で青井がパソコ……」 


「馬鹿!」


 やっぱりこいつはわかっていた。俺のパソコンの取り扱い方なんて、変態的な視点を持つこいつはとっくにわかっていたに違いない。仮に今日こいつの目の前でパソコンをしまわなかったとしても、今までずっと観察されていたのであれば、隠し場所なんてきっとこいつには知られていたのだろう。黄瀬は、この悪魔は、いつでも俺を脅せる立場にあったんだ。知らぬ間に袋小路に追い詰められていた恐怖というのは、そんな事実ピンチに気付いた瞬間に大きなエネルギーとなって冷静さをむしばむ。

 咄嗟とっさに止めるためにとはいえ、この直後の俺はなんて浅はかだったんだろう。言った瞬間に後悔した。「直後」では足りない、言いながら既に後悔を始めていた。


「何でも言うこと聞いてやるから黙ってろこの馬鹿!」


 黄瀬のにやりとした笑みを見たときにはもう手遅れだった。

 うちの学校は朝に教師が廊下をうろついてることは滅多にない。特別な集会が行われる朝か、何か問題が起こった翌朝くらいだ。

 今朝も例にたがわず、廊下に教師なんているはずもなかった。つまりはフェイク。まんまとやられたってわけだ。

 こいつは見かけによらず策士なのだと。


「お前……」


「いや、こんな簡単な嘘に引っかかってくれるとは思わなかったんだけど、別に今すぐ職員室に駆け込んで告発したってよかったわけだからね?どっちにしろ結果は一緒だよ」


 それは、俺に対するフォローになっているのかいないのか。


「今みたいな瞬発的威力はなかったかもしれないけど、僕みたいな一軍が先生に『青井ばっかりずるいですー!』って騒いだらどうなると思う?っていう脅し文句は結構効果あると思わない?」


 失敗したときの作戦まで考えていたとは。一体ストックはいくつあったのか、前々から考えていたのかこの場で考えられる力があるのか。何もかもがわからないが、自分が失言をしたことはわかった。


「ふふ、言質げんちは取ったからね」


 しまった、の言葉すら出てこない。絶句という言葉は幾度も打ち込んできたが、体験したことはまあない。小説家としては喜ぶべき初体験が、しくもこんな場面になってしまった。執筆中頻繁に使う単語だ。この先ずっと、この思い出が付随的に蘇るんだろうか。

 この状況下で黄瀬の願いは一つしかないはずだ。


「僕とタッグ、組んでくれるんだよね?」


 俺の返事を待たずして朝のHRホームルームの予鈴が鳴り、黄瀬は俊敏に自分のクラスに帰った。犬並みの機敏さなのか上機嫌ゆえなのか。そもそも奴が今上機嫌なのかもわからないが。

 そして奴が隣のクラスだということを、このとき初めて知った。

 目の前から嵐は去ったというのにホッと胸を撫で下ろす気になれない。むしろ嵐の渦中に巻き込まれてしまった。

 激しい焦燥感と不快感にさいなまれる中、あっという間に本鈴ほんれいのチャイムが鳴った。昼休みまでの四時間弱、気が気でないことを悟った。


 

「やあやあ相棒、お元気かなー?」


 案の定黄瀬は昼休みを利用してやって来た。今朝と違ってキャンキャン吠えてはいないが、動きは文句なしにうるさい。


「誰が相棒だ。どうせ一作完成させるまでの臨時助手ってとこだろ」


「助手ぅー?」


 黄瀬の甘ったるい頓狂とんきょうな声は相も変わらず気色悪い。


「お前が先生、俺は補助。そうだろ?で、大先生、俺は一体何をすればいいんだよ」


 とっとと黄瀬の望みを叶えて関係を終わらせたかった。凍結しそうな頭を働かせて逆転の発想に持ち込んだ結果、願いを叶えることこそが最大の近道かもしれないと思い至った。

 人間誰しも愛着という情を持ち合わせている。どんなに嫌いな奴でも、長く一緒にいればいるほど離れがたくなるのが自然のさがで、俺は黄瀬こんなやつに情を移すなんてまっぴらごめんだった。


「何すればいいって……呆れるねえ。そんな愚問聞いたことないよ」


 黄瀬が本気で呆れていた。こいつに呆れられるなんて屈辱でしかないが、黄瀬の真意を俺はまだ知りかねている。


「青井が、書くんでしょーが」


「はあ?」


 予想だにしない答えが上から流星群を食らわせにきたんだから驚いたなんてもんじゃ足りない。


「いや逆に何を考えてたの」


 黄瀬が眉をひそめる。


「いや、お前は一体何考えてるんだって考えてたよ」


「僕、青井のファンだって言ったよねぇ。青井の文章おがみたいに決まってんじゃん」


 溜息をつく黄瀬。


「さ、サインの方がまだ現実的だったろーよ」


「サインて」


 再度溜息をつく黄瀬。こいつ、息の吐きすぎで酸欠になればいいのに。


「青井、共作の意味わかってる?一緒に作品作ろうて言ってんのにサインなんか貰っててどうすんのさ。言っとくけど、リスペクトと迎合げいごうは別の話だから。一緒に作品作るなら、尊敬してても、いや尊敬してるからこそちゃんと意見は言わせてもらうよ」


 黄瀬の毒舌が調子に乗ってきたようだ。急に饒舌じょうぜつになったところからするに、スイッチが入ると快活なタイプらしい。


「俺が書くとして、お前は何すんだよ」


「それをここ数週間ずっと考えてたんだけど」


 マジかよ。いや、こいつは本気だ。「四露死苦」と書いて「よろしく」、「4946」と書いて「しくよろ」と読む方の「本気マジ」だ。

 未だ混乱が継続中の俺に、黄瀬は要求を続けていた。


「僕が書いてほしいものを青井に表現してほしいんだ」


「それは、つまるところ依頼か?小説の原作をお前にやらせろってことか」


 的を射たまとめ方だったと思ったが、黄瀬はまた不服そうな表情をする。


「えー?なんか夢のない言葉のチョイスだねー、青井のくせに。あぁいや、青井の小説は夢を見たり見せたりするような作風じゃなかったか」


「なんだよ。今言ったことで合ってるだろーが」


「絵描きの僕が青井先生と共演する方法、そう、それは僕の思いついたストーリーを形にしてもらう以外ない!」


 いやそれはお前が絵師である必要はないと思ったことはさておき、やっぱりまとめ方は合ってんじゃねぇか。鋼のメンタルもここまで来るとある意味才能なのかもしれないとさえ思う。言わずもがな奇才ではあるだろうが。しかし俺の話をまるで聞かずにヒートアップしていく様は少々滑稽で溜飲が下がる。こいつの考えてることはさっぱりわからない。本心と一緒に雲に覆われているような感じで、見えないし、読めない。

 そして依然として団体戦は不本意だった。ストーリーを考える作業だって文字書きの作業だ。舐めんな。

 しかしパソコンを人質に取られてしまった以上、俺は黄瀬の言うことを聞くしかなかった。学校でパソコンを開いて作業ができない事態は避けたい。もしこいつの依頼を断れば、今後パソコンを持ち込んだ日には告げ口されてしまうのだろう。そうすれば、金輪際持ち込むことができない。退屈な学校生活をこれ以上退屈にするわけにはいかない。せめて登校するモチベーションは残したいところだ。

 黄瀬から解放されるためにも、一先ひとまず要望を聞くことにする。


「……わかった。とりあえず頭ん中にあるもの教えてくんねーか」


 黄瀬が繰り出すアイデアや言葉は良い意味で突拍子がなくて、正直、少し惹かれる面白みがある。そんな直感が頭の中を巡り、可能性に胸が躍りかけていることも嘘ではなかった。


「僕は、青井の学園サクセスストーリーを読みたくてね!」


 黄瀬は溢れ出る感情をまだまだ放出中のようで話続けていたが、俺の方はというと非常に困っていた。


「青井、暗い話ばっかり書くじゃんか。もしくはめちゃめちゃ明るいやつ。なんっつーか、両極端だよな」


 「よく分析しているようで」


 そうではない、と気付くまでには少し時間がかかった。


「お前、なんで俺の作品知って」


「だからさ、俺、青井が生み出す色んな感情を読んでみたいんだよ」


 俺の言葉なんてちっとも聞かず、黄瀬の口は止まらない。俺の小説が読みたいと言うならば、作者自身の言葉にもっと耳を傾けてくれ。そして俺も俺で黄瀬の勢いに押されてしまう。

 そういえばこいつは俺のファンだなんて抜かしていた。その意味をまだ聞いていなかったことに今更ながら気付く。気付くのが遅くなってしまったのは他人からの評価を置いてけぼりにしてきた今までのツケだろうか。「あの一件」から、俺の小説世界は一気に縮小して俺一人を飲み込むのが精一杯なちっぽけな空間になってしまった。それ以上人を入れると崩壊してしまうのか、また拡張できるポテンシャルを秘めているのか、それとも化学反応によって大躍進するところまでいくのか、他人を招待するという行為をまだ試していないからわからないが。

 一先ずこの場では俺が質問を引っ込めることに落ち着く。どうせ黄瀬の一人語りが鎮まらなければどんな言葉も奴の耳に届かない。

 黄瀬は随分変わっている、と素直に思った。そんな変わり者が提案する物語に興味もあった。でも、さっきの黄瀬からの依頼に、俺は首を縦に振らなかった。


「もはやお前の方がよくわかってるかもしれないけど、俺はそういう機微を書かねぇ」


「もったいないよ」


 黄瀬のそんな感想がまっすぐ飛んできたからビビった。率直な言葉は何事においても一番の特効薬だとは思っているが、いざ体験するとこんなに効くものかと恐怖さえ覚える。


「なんでお前がそんなこと」


「ファンだから」


 こいつは直球しか投げられないのか。


「青井のファンだからだよ」


 ダメ押しまで飛んでくる。スマホやパソコンを持ったときから視力は急速に悪化したけど、聴覚はまだまだ安定だ馬鹿。ちゃんと一回で聞こえてんだよ。


「ファンならわかってんだろ。俺は極端な感情しか興味ねぇ。感情の起伏だとか機微だとか、知ったことか」


 何度黄瀬にぶつけられても、俺はそのボールはキャッチしない。いずれ黄瀬だって諦める。それまで俺がてられなければいいだけだ。

 そう思っていたのに。


「青井に機微がわからないはずがない」


「は?」


 黄瀬の言葉はまっすぐ飛んでくる。それなのに、さっきも思ったようにこいつは変人めいているからか、飛んでくる方向は読めなくて実質ほとんど全部変化球だ。今そう気付いた。

 気付いたら、決意が揺るぎそうになった。面白そうな予感を感じていて、そんな最中さなかにこんな予測不能さを目前にしてしまったら。拒否し続ける自信がなくなってきた。

 俺はこいつに惹かれてる。そしていつかきっと折れてしまう。甘くはないけれどなぜか美味そうなその蜜を食べたくなる。創作者としての宿命なのかもしれないし、おれもそれなりに変人だったのかもしれない。面白そうなものを見ると、感化される。つむぎたくなる。少なくとも、俺はそいうものに抗えない。


「僕は見てたんだよ、青井のこと」


 俺が誰かに見られてるなんて考えたこともなかった。考えるわけがなかった。だって俺は教室の隅でパソコンやスマホでひたすら文章を打っているような陰キャで、授業中やテストの成績だって良い方向にも悪い方向にも目立つわけじゃない。


「青井いつも人間観察してるよな。さすが作家ってずっと思ってた。だから、そんな青井が人の感情を深く理解してないなんてありえない」


 そんな様子を観察されていたなんて露程つゆほども知らなかった。またしても背中にすーっと冷たい感覚が走る。今日一日で幾分も寿命が縮まっていると思う。


「み、見ててもわかんないものは、ある」


 精一杯の反抗を試みてはみる。


「でも青井の場合はわかってんだろ?他人の感情の振れ幅や起伏、安定や乱れをさ」


 なんでこいつはそう断言できるんだ。

 そうだ。俺には他人の感情が易々やすやすとわかる。そういう類に対して、他の人より敏感な自覚もある。

 いつからだったか、両親を始めとして、その感情が鬱陶しくなった。それ以上に、いちいち細かいことに反応する自分の気質が嫌になった。

 今でもハッキリ覚えている。嫌になったあの日から、単調な物語だけを書くようになった。極端な感情は強く、豪傑で、剛力で、激しくて、ダイナミックで、鈍い。楽だった。アレと同じだ、小学生の時に使ったマス目状のノート。もしくは日記帳の縦罫線けいせんにでかでかとひらがなで行埋めをしていくあの雑さ。

 内容なんてすっからかんで大したことないなんてもんじゃない。だけど馬鹿みたいに大きいクソデカ感情が行数だけは稼いでいく。あの強引さだ。そこに中身なんてない。要らない。


「もっといっぱい、色んなこと表現したいとか思わないの」


 黄瀬が畳みかけてくる。


(やめろ)


 今更もう嫌なんだ。大人たちに言わせれば、俺の人生なんてごくごく短い時間でしかないんだろう。だけど俺はもう疲れた。俺には精神的な体力スタミナがなかったんだ。それが、「あの一件」でよくわかった。だから、もう抗いたくないんだ。抗わないと決めたんだ。

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真っ白なキャンバス 雪猫なえ @Hosiyukinyannko

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