湿った緊迫

 数年後、予定通り婚約者を妻に迎え、社長に就任したフランツは、新しい事業の開拓に精を出していた。そのうち自然と海から足は遠のき、フランツの居場所が専ら、背の高いビルの最上階のオフィスになっていったのは、自然な流れと言える。


 しかし、執念深いヴラジミルが、泣き寝入りするはずがなかった。多忙を極めるフランツがなかなか帰宅しないのを良いことに、彼の妻の目を盗んでフランツの自室に忍び込むと、あるものを盗み出したのだ。戸棚の奥に用心深く仕舞われていた小ぶりな弦楽器である。大した値打ちはないように思えたが、フランツが幼少期から大切にしていたのを知っていた。金目のものを盗まれるよりも、この楽器をなくす方がよほど心を乱すだろうと踏んだのだ。


 ある夜フランツは、ヴラジミルからの招待状を受け取った。「美味しい料理を振る舞うから、妻も連れ立ってうちへ来るといい。久方ぶりに兄弟の親睦を深めたい」などと、わざとらしい文句が並べ立てられている。身重の妻を連れて歩くのは気が引けたが、久しぶりに外で食事をしたいと浮き足立つ妻の様子に根負けし、ヴラジミルの屋敷に出向くことになった。


 からりと乾いた真夏の夜でも、ヴラジミルの屋敷は、じっとりとじめついて、庭では蛙が跳ね回っている。フランツは顔をしかめたが、妻は肝試しのような気でいるのか、目に見えてはしゃいでいる様子だった。

 出迎えたヴラジミルは、かび臭いスーツに身を包み、不潔な無精ひげもそのままに、二人をテーブルへいざなった。無視しようのない巨大な水槽の中には、以前見たときのままの姿で、少しも老いることなく、人魚が浮かんでいる。

 フランツの妻は、生きて泳ぐ人魚を見るのが初めてだった。目を輝かせて水槽に駆け寄ると、食い入るように様子を観察している。

 「私のコレクションとでも言いましょうか」

 ヴラジミルがいやらしく顎を撫でつけながら言うと、妻は屈託のない笑みを浮かべた。

 「お義兄様は不思議なものをたくさんお持ちなのね。この人魚も玉を作るのですか」

 「いいえ。私が調合した薬を打つと、腹に卵を抱えることができなくなるんですよ」

 「なんだか、可哀想な気がするけれど」

 やはりヴラジミルの知識が鍵になるのだ、とわかり、確かな手ごたえを感じていたフランツは、慌てて妻の言葉を打ち消した。

 「何を可哀想に思うことがあるんだい。強制的に眠らされて、望みもしない玉を作らされて、おまけに見るも無残な姿になってしまう、これ以上の不幸があるはずがない」

 フランツの妻は、それもそうかしら、と寂しげに笑った。

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