密やかなあやまち

 薄暗いダイニングに、巨大な水槽が鎮座している。青白い灯りが照らし出す水の中に、細身の人魚が一匹、力なく泳いでいる。強い人工灯のせいでその繊細な色合いはわからないが、青や紫に似た尾ひれだった。

 「暗い顔をして、どうした」

 ヴラジミルはフランツに問いかけた。

 「よく見ろ。美しいだろう」

 「可哀想だ」

 水槽の分厚いガラスを湿っぽく撫でつけながら、ヴラジミルは小さく笑った。

 「何が可哀想で、何がそうじゃないのか、俺は考えるのをやめた。心の赴くまま、欲しいものを手元に置くだけだ」

 「兄さんはこの人魚をどうやって見つけたの」

 「ある時気が向いてついて行った漁で、網に引っかかって眠っているのを見つけた。もう薬を打たれた後だったが、どうしても欲しいと思ったから、そのままここへ連れてきた」

 「それじゃ、肌をどうやって治したの。綺麗な白じゃないか」

 フランツの形相を見て眉を顰めたヴラジミルは首を捻った。

 「どうして知りたがる」

 フランツはふと黙った。フランツの知る人魚の方が、水槽の中の人魚よりずっとずっと美しい。きっとヴラジミルがその存在を知ったら、奪って所有しようとするだろう。今すぐにでもその術を聞き出したい衝動を必死に抑えながら、フランツは首を横に振った。

 「なんでもないよ」

 ヴラジミルは一瞬目を光らせたが、すぐに陽気な顔に戻って、フランツの隣に腰を下ろした。

 「それよりお前、巷に妙な噂が出回ってるのを知ってるか」

 「どんな?」

 「女たちが、人魚の肉を食ってるんだとさ」

 フランツは、飛び上がらんばかりに驚いた顔をした。

 「なんで、また」

 「玉のような肌と、艶やかな髪、永遠の若さが手に入るらしい。人魚の肉を食べれば、その特徴が自分のものになる。昔から言われてることだ。新しい商売の糸口になるんじゃないかと思ってな。未来の社長さんのお耳に入れておくに越したことはない」

 ヴラジミルの嫌味な言い方は気に障ったが、フランツの胸には、ある決意の灯が点った。

 翌朝、ソファの上で酔いと眠りから覚めたヴラジミルは激高した。愛玩する人魚の鱗が一片、無惨にはぎ取られていたのである。


 「君はきっと、他のどんな人魚よりも美しい。失いたくない。どうかこれを呑んでおくれ」

 人魚の見開かれた瞳が一筋、流星のような涙をこぼしたのを、フランツは知る由もない。人魚の顔を照らす月も、今日ばかりは雲間に隠れてしまっていたのだ。

 「嬉しいかい?これは、ある老いない人魚の鱗だよ。君はもう永遠に老いず、卵をはらまず、人に切り裂かれることもない。美しいままだ。僕は今晩、一生分の善いことをした気がする」

 フランツが夜空を仰いで、歓喜の声を上げた。

 「僕が会社を譲り受けたら、人魚に残酷な真似をするのをやめさせる。そうだな……これまで同様、君たちの卵を狙う輩は後を絶たないだろうから、いっそ皆に繁殖を止める薬を打つのはどうだろう。兄さんの協力が必要になるかもしれないけれど。どのみち、きっとうまくいくさ」

 人魚は、喉の奥に乱暴に押し込まれた鱗を呑み下しながら、顔の下半分を水に浸して小さな泡を吐き出した。フランツは人魚を一瞥もしないまま、広大な夜空に向かって滔々と語り続けた。

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