我が家のヒーロー
立川マナ
第1話
「ねえ、お父さん。なによ、これ!?」
突然、娘がリビングに駆け込んできた。その手には、真っ白な全身タイツがしっかりと握られている。
大して読んでもいなかった新聞をおもむろにたたみながら、「見ての通り、全身タイツだろう」と平静を装った。
決して知られてはならない。久々に娘に話しかけられて嬉しさに胸が高鳴っていることなど。
中学二年になってから段々とわたしを避けるようになった娘は、高校に入ってさらにわたしを無視するようになった。最近では妻までも「おい、ビール」という呼びかけに反応しなくなってしまった。一時期、自分が透明人間になったのではないか、という恐怖に陥ったが、パンツ一丁で歩いていると「やめてよ」という反応が返ってくるので、どうやら見えてはいるようだ。
「知ってるわよ、そんなこと」
苛立ちもあらわに、娘はわたしに全身タイツを突き出してきた。
「なんで、全身タイツがお父さんの机の中にあるのよ!?」
「父さんの机の中を勝手にみたのか?」
父の威厳を見せつけるかのように、新聞をローデスクに荒々しく放った。
決して悟られてはならない。娘と二言以上会話をしていることに心を躍らせていることなど。
「勝手に見た……て、お父さんの書斎は昨日から私のものになったんだから。机だって使うわよ。当然でしょ」
「ああ、そうだったな」
娘は訝しそうにわたしを睨みつけている。長い黒髪もそうだが、疑るようなその目つき……母さんによく似てきた。
親のひいき目なのかもしれないが、娘はずいぶんと美しく成長した。賢さが顔に表れている。眉がほとんど無いのが気に入らないが、そんなことを言っても「髪が無いお父さんに言われたくない」と言われるに決まっているので口にはしない。
「で、なんなのよ、この全身タイツ!?」
わたしはため息をもらした。
もう頃合いかもしれない。こうして見つかってしまったのも運命なのだろう。家族に隠し通すのにも限界があったのだ。
決して、娘の尊敬の眼差しが欲しくなった、とか、父としての威厳を取り戻したくなった、とか……そんなくだらないことを考えたわけではない。
ただ、思ったのだ。娘ももう子供ではない。父親の過去を——真の姿を知ってもいいころだろう、と。
「お前にずっと隠していたことがあったんだ」
わたしは身を乗り出して、睨みつけるように娘を真っ向から見つめた。
そんなただならぬわたしの雰囲気に、娘は少なからず驚いたようだった。険しい表情で全身タイツを手に身を引いた。
「わたしはな……」
まさか、本当に娘に明かす日が来ようとは……。いつか話そうとは思っていたが、こうして実際に『そのとき』が来ると躊躇われる。
わたしは言葉を切って、気を落ち着かせるように深く息を吸った。
あとで、妻にも話さなくてはならないな。——娘に先に明かしたことですねるかもしれないが。
妻の驚く顔を想像すると、緊張がほぐれた。
わたしは決意を固め、娘に告白した。
「わたしはな、ある組織からこの街に派遣された正義のヒーローなんだ。もう引退してずいぶん経つ。そのタイツは耐熱耐寒加工が施されたヒーロー専用のスーツだ。現役時代に使っていたものなんだ」
果たして、娘にここまで熱く語ったことはあっただろうか。少なくとも、ここ数年は無かった。それも、わたし自身の話など……。
なにはともあれ、ようやく娘にわたしの正体を打ち明けることができた。肩の荷が降りたような気分だった。
もう秘密はない。これで娘との間に感じていた壁は崩れ去るだろう——そんな期待がふくらんだ。
娘はしばらく啞然としてわたしを見つめていた。いつも睨んでばかりの目が、赤ん坊のころのようにまん丸になっている。
じっと黙って返答を待っていると、娘はふらりと歩き出し、妻のいる台所のほうへ向かった。
わたしは肩を落として俯いた。
やはりすんなり受け入れてくれるわけも無いか。仕方ないだろう。いきなり父が正義のヒーローだったなんて、動揺するに決まっている。
妻にはわたしから打ち明けたかったのだが、娘を引き止めるのは憚られた。困惑した娘が母のもとへ助けを求めにいくのは自然な反応だ。
やがて、しばらくして——、
「お母さん!」といつもの不機嫌そうな娘の怒鳴り声が聞こえてきた。「お父さんが超キモいんだけど! ねえ、これ見て。全身タイツ隠し持ってたの! しかも、意味分かんないことでごまかしてんの。絶対変な趣味あるのよ、フーゾクよ、フーゾク!」
わたしはすっと立ち上がり、音も立てずにリビングから出た。
タバコでも買いに行こう。
* * *
「あれ? 黒岩?」
道すがら、懐かしい声にわたしは振り返った。
「おや、青木」
寒空に寂しく浮かぶ満月の下、どうも、とお辞儀をしてきたのは、昔の同僚だった。すっかり頭ははげ上がってしまっているが、昔は長い黒髪をなびかせクールに決めていたものだ。トレードマークだったレザージャケットは、今やよれた背広に変わっている。仲間内でも二枚目ともてはやされた青木が、この有様とは……嘆かわしいものだ。
「久しぶりだな」と軽く手を挙げる。「今、帰りなのか?」
「いやいや。夕飯は自分で買ってこい、と嫁に追い出されてな。コンビニ弁当でも買いに行こうかと思って」
「ああ……そうか。お前もすっかり邪魔者か」
冗談まじりに言うと、青木は鼻で笑った。
「不思議なものだな。十二年前、ようやく全ての怪人を殲滅し、街は平和になったというのに……俺たちはまだ闘っている」
「そうだな」
しんみりとつぶやき、わたしは視線を落とした。
久しぶりに空から見下ろす街は静かで平穏そのものだった。
足下にまばらに敷かれた雲の下、ぽつりぽつりと灯る光の数だけ、わたしたちが守ってきた暮らしがある。そう思うだけで救われる気がした。
だからだろう。こうして、ときどき空を飛びたくなるのは。
「家族のために、と闘ってきたというのに……今や、わたしが家族の敵だ。虚しくなるよ」
呆れたように漏らした青木の言葉に、わたしは失笑した。
「全くだ」
だが……と、わたしはひと際明るい光を放つ一軒家を見下ろした。
「仕方ない。わたしたちは『父親』だからな」
我が家のヒーロー 立川マナ @Tachikawa
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