1-5 薔薇のアーチを抜けて
大きな青い空に、ゆっくりと流れる白い雲。晴れ渡る心地よい空の下、僕らは青々と生い茂る、何重にも設置されている薔薇のアーチを潜り抜けていく。今日は雲が少ないから太陽がよく見える。おかげで葉の光から差し込む日差しがとても心地よい、そんな素敵な場所。でも、ところどころに花開く真っ赤な大きな薔薇が、僕の隣で一緒に歩くミラの目に留まると、ミラの歩幅が小さくなってしまう。そのたびに、繋いでいる僕の手がぐいぐいと後ろに引っ張られる。
「ミラ? お仕事終わったら植物園、いっぱいまわるからね?」
はぁい、という小さなミラの声。明らか薔薇を見ながらしている返事。花が好きなミラにとっては大層、楽園のような幸せな空間なんじゃないかな。それでいて、僕から見れば、ミラの経験としてはあまりにも刺激的すぎたのかなと、ついため息が出てしまう。でもなんとなく、わからなくはない。僕は僕で、仕事の引継ぎで初めて植物園を訪ねた日のことを懐かしみながら歩みを進めていく。
北方から南方まで、あらゆる地域に生息する、大小多彩な植物が集まるこの施設、ケラスス植物園は県内だけでなく、県外からもたくさん観光客が訪れる有名施設になっている。当然、僕らツバメ観光だけではなく、他ライバル社とも契約を持っていて、ファミリー層に人気な観光施設として知られている。特に今の季節は、一定の予約金と植物園に連絡を入れておけば桜満開の下、ピクニックや宴会なんかできてしまう。今年は今回の仕事の件もあって、ゆっくりできそうにないけれど、来年あたりは有給使って、ミラと一緒に花見ピクニックを楽しむのもありだなぁなんて思っている。
そんなことを考えていたら、最後の薔薇のアーチを潜り抜けて、ふっと視界が開けた。目の前に現れる植物園の真ん中に建つ、大きな3階建ての洋館。ついでに今、僕らがいるのは屋敷の裏側、職員の出入りする職員用玄関口である。この建物は主に植物園で働く職員の休憩室や来客用の応接室なんかがある建物だけれど、一番はケラスス植物園を運営する園長のご家族が暮らしている家でもあるというところ。だから、植物園の職員のほか、屋敷の使用人さんたちとも、よくすれ違う。外見は確かに大きな西洋屋敷ではあるけれど、内装は正直、僕から見れば屋敷というより建て替えたばっかりの市役所って感じだから、来るたびになんだか背筋が伸びてしまう。職員玄関のガラスの自動ドアを通って、僕は大きく深呼吸する。契約の更新や、毎年の行事のご挨拶なんかで定期的に来てはいたものの、やっぱり仕事となると緊張してしまうもの。僕はスーツの襟をピンと伸ばす。
よし、行こうか!とミラに声をかけようと横を見ると、ミラは怪訝な顔で、一つの方向をじっと見つめていた。ミラの目線をたどって、僕もその方向を見ると、ちょうどエントランスホールの真ん中、大理石の大きな噴水の前で左右をきょろきょろ見回す、藍色のメイド服の女性が立っていた。着ている服から予想して多分、園長のご家族に仕えているメイドさんだと思う。
「先生……あの方、ずーっとキョロキョロしてます。」
「もしかすると、あの人かもね? 電話で聞いた僕らを案内してくれるとかいう、園長さんとこの使用人さん。」
「ちょっとお話してきます!」
ミラは繋いでいた僕の手をさっと解くと、エントランスホールの中央、大理石の噴水の前でキョロキョロあたりを見回している小柄なメイドさんに駆け寄っていく。行き来する職員や使用人さんの間をするするとうまく抜けて、一直線に駆け寄ってくるミラに気が付いたメイドさんは少ししゃがんで、でも驚いた表情でミラの話を聞いている。
ミラがメイドさんと話している間、昼間時ということもあり、僕の周りをたくさんの職員と使用人さんが通り過ぎていく。清潔感のある白基調の壁のエントランスホールを、植物園指定スーツの事務職員、職員証を首から下げてジャージの上から白衣を着ている研究員、ロングスカートのメイド服の使用人さん、土の跡がついている薄緑の作業員……本当に様々な人達がこの場を行き来している。たくさんの人々とすれ違う中で、僕も手提げの革バッグの中身を軽く確認する。園長との契約書類一式から、数年にわたるツアー記録の傾向や今後の展望と計画をまとめた説明書類、契約の変更届。一部分に町役場も関係していることから、町役場への提出書類と今までの控え書類一式など、とにかく持っていけるものは全部持ってきた。あと忘れてはいけない、謝罪の品。大きな和柄の包みが入った紙袋を指さし確認した。
本当に園長は、何が目的で僕を指名したのか。正直、不安で仕方がない。ふとミラのほうを見ると、僕を指さしながら何かを話しているミラとメイドさんに気づいた。メイドさんも僕と目が合い、頭を下げてきたため、僕も小さくお辞儀をした。やっぱり彼女が、僕らの案内人らしい。ミラが周りを気にせず大きく手を振ってきている様子を見て、少し恥ずかしさありつつも、駆け足で2人に駆け寄った。
「夫人がお世話になっております。私、ゴメイザ夫人に仕えております、クサリと申します。ツバメ観光のフルグライト様でお間違いありませんか?」
僕も、お世話になっております間違いないですと、スーツ裏に前もってしまっておいていた名刺を取り出して通例のように、挨拶をした。そんな社会人の挨拶に馴染みのないミラは、僕とクサリさんを交互に見て戸惑っていたため、僕はおいでとミラを呼んで僕の隣に、ぴったりと沿わせた。
「先日はうちの部署の社員が、大変ご迷惑をおかけしました。ゴメイザ園長はお忙しいでしょうか? 謝罪と、ご連絡のあった件について、詳しくお話を伺いたく、こちらを訪ねたのですが……」
低姿勢の僕の様子を見たクサリさんは、小さい声でそんなそんなと慌てながら両手を横に振る。
「もう少しで夫人は地区集会から帰宅されますので、先にお部屋にご案内いたします。」
クサリさんは僕らにどうぞと声をかけてくると、エントランスホールの噴水のある開けたエリアの端から、壁伝いに設置されている螺旋階段を上っていく。クサリさんの後に続いて、僕とミラも階段を上り始める。だんだん段数が増えるにつれて、吹き抜けから見える1階、通り過ぎる人々が少しずつ小さくなっていく。どれだけの人が僕らとすれ違っていたのか、面白いほどよくわかる。
そんな感心する僕を追い越して、どんどん階段を上がっていく、隣にいたはずのミラ。気が付けば僕の目の前を元気に駆け上がっていく。すごく足取りが軽いし、これから何があるのか楽しみで仕方がないのだと思う。でも僕の足取りの遅さを気にしているのか、ちらちら見てくる横顔には元気な嬉しさ半面、心配そうな表情もうかがえた。そんなミラの様子を見ていると心配してくれる優しさや、子供らしさのある可愛げもあるし、なにより面白いなぁとも感じる。僕も迷惑をかけないよう、少し早足で階段を駆け上がることにした。
***
妙に長かった階段をため息交じりで上りきると、数歩先に自信満々に胸を張ってクサリさんと会話しているミラと、ミラの話を笑顔でクスクス笑いながら聞いているクサリさんがいた。僕も疲れ気味の、軽くフラフラした足取りで2人に合流した。
「もうっ!遅いです!お家に帰ったら、お散歩しましょう!体力づくりも大事ですよ‼」
「それ、ランニングのことじゃない?それ絶対ランニングでしょ……」
「お子さん、とってもお元気ですね!」
クサリさんは僕らの会話を聞きながら、クスクスと楽しそうに笑っている。そんな横でミラは、あれってランニングって言うんですか?と困ったことを言っている。そうだよ、この前ミラが読んでいたスポーツウェアの雑誌、ランニング特集だったよ……もう僕は疲れ切って頭を抱える。クサリさんはクサリさんで、僕とミラのことを親子かなんかと勘違いしているけど、もう説明の気力もないから言及はしない。とにかく今は仕事だと気を取り直して、無理にピシッと背筋を伸ばして手提げの革バックなどを持ち直す。クサリさんも僕の様子を見るや否や、ハッとした顔で小さな咳払いをすると、こちらにどうぞと長い廊下を歩き始めた。そんな彼女の後を、僕らは追いかけた。
たどり着いた廊下には、端から端まで藍色系の抽象的な模様が目立つ鮮やかな絨毯が続いていた。また、壁は白地に薄くクラシックな絵柄の花がたくさんあしらわれた、これまた美しい壁紙で来客をもてなすためだけに作られたような空間に感じた。でも、今日の来客は僕らだけのようで、この空間には僕らの足音と会話しか響かない。それくらい静かな廊下を歩いている。気づけば大人2人に置いて行かれないよう、ミラはまるでヒヨコのようについて歩いている。
「ミラ大丈夫? 手繋ごうか?」
軽くミラのほうに左腕を近づけてみる。小さく頷いたミラは僕の腕を掴んだ後、伝うようにつかみ掴み、僕の左手を小さな手でぎゅっと掴んだ。そんな僕らの様子を軽く振り向いて見ていたクサリさんは、微笑んでまた前へ向き直った。少し歩いたところでクサリさんは【応接室1】というアンティーク調に加工された小さな木の札がかけられたドアの前で立ち止まったが、すぐにドアを開けて、中へどうぞと僕らを誘導する。
「ゴメイザ夫人の帰りを確認してまいりますので、今少しお待ちください。」
彼女はそういうと、微笑みながら一礼してゆっくりと部屋を出て行ってしまった。応接室の壁も、白地に薄くクラシックな絵柄の花がたくさんあしらわれていて、床も藍色系の抽象的な模様が目立つ鮮やかな絨毯が敷かれている。大きな開放的な窓からは、僕らが通ってきた薔薇のアーチがある迷路のような、花と緑いっぱいの庭園が遠くまで見えている。部屋にたどり着くまで結構時間はかかっていた気がするから、そこまで待たずとも、すぐにゴメイザ婦人とも会える気がする。すぐ本題に入れるよう、僕はスーツの襟をピンと直し、革バックから契約書類一式はさんでいるファイルを取り出す。さらに謝罪のために持ってきていた菓子折りも、謝罪後すぐに渡せるよう持ち直した。気づけばミラは、そんな僕を下から心配そうに、僕のスーツの端をぎゅっと掴みながら見ていた。
「園長さんとのお話の間は、静かにしていてね? 守れる?」
「はい、先生……」
「園長さん、いろいろ事情あって怒っているかも。それでもなんで怒っているか聞いちゃだめだよ?質問攻めもだめ。」
「は、い?」
ミラは僕の言ったことがいまいちわかっていない様子だった。けれど僕が、お人形さんみたいにしてればいいんだよと話すと、何となく理解したらしく、はいと返事が返ってきた。
「でもね、ミラのことについて聞かれたら……そう、お名前はなぁに?とか、何歳?とか、あとお花好き?とか聞かれたら、元気に答えていいからね?」
「はい!」
ミラの元気な返事に、僕もにこりと微笑む。今考えられるゴメイザ夫人の、ミラに対しての反応はこれくらいしか思いつかない。けれど今回の目的は、ミラのことではないからそこまで想定せずともいいはず。怒っているであろう夫人の機嫌をうまく、これ以上損ねずにできればいいのだけれど。ミラと会話しているうちに、だんだんと早足の、それでいてカツカツと強い足音が近づいているのに気づいた。同時に女性の焦るような口ぶりの会話も聞こえてくる。多分、声のほうはクサリさんなんじゃないだろうか。
「ミラ、約束だよ。よろしくね?」
「頑張ります先生っ!」
2人で軽く指切りした後、すぐさま僕は荷物を再び持ち直し、スーツと背筋をピシッと直す。ミラも僕の真似をして、ワンピースを少し引っ張ってしわを伸ばしている。
こういう日のミラの服装はどうしたらよいのか大変悩んだが、苦悩の末に買っておいた大きめリボンが特徴的な、クリーム色に近い白の長袖シャツと、そこまで風に吹かれてヒラヒラとしない黒のシンプルなワンピースがまあ、良い感じにフォーマルな雰囲気を出してくれて安心した。そんなこんなで僕ら2人が身だしなみを揃え終わった後、すぐに応接室のドアが勢いよく開き、これまた勢いの良いヒールの足音とともに、うねりのある綺麗な短め白髪が印象的なおばさま・ゴメイザ夫人と、そのあとを大焦りであたふた夫人の荷物を持ちながら付いているクサリさんが入室。あまりの勢いに呆然としていると、ゴメイザ夫人は僕らお構いなしに、部屋の中央にある白枠に紺色のクッションでできた長ソファの真ん中に腰を下ろした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます