あやふやなものたしかなもの

独白世人

あやふやなものたしかなもの

 僕は今、人生の大きな分かれ道の前に立っている。

 沈黙の中で僕は、この状況を噛み締めていた。

 もう三十分も僕たち二人の間に会話は無かったが、その沈黙を破ったのは美沙だった。

「なんかしゃべってよ」

 なんとも芸の無い空気の乱し方だ。僕は体内時計の秒針が十五回刻んだ頃合いで、口を開いた。

「宇宙人っていんのかなぁ?」

 美沙は少しの時間をあけた後、

「さぁ……。あやふやだね」

と一瞬たりとも僕の方を見ないまま、そう応えた。


 大学四年から始まった僕たちの交際は、今年で八年目を迎える。始まりは僕の一目ぼれだった。彼女はとても可愛らしい女の子だった。

 僕たちは東京から京都に向かう車の中だ。午前二時の東名高速道路の上。大学時代の友達である祐二から借りた車は快調に走る。そして、二月の深夜の空にはパラパラと雪が舞っていた。

 この八年間で美沙は大きく変化した。無邪気な女子大生から、仕事に情熱を注ぐキャリアウーマンになった。ショートカットだった髪を伸ばし、化粧は濃くなった。同棲を始めて五年。最近は歩き方まで変わってきたように感じる。それに比べて僕は何も変わっていない。大学の研究室に残って遺伝子の研究を続けている。そして、昔から貼られ続けている〝いい人〟のレッテルを、今も貼られている。

「この世はあやふやなもので溢れているよね」

 美沙が言った。先程の会話から五分は経っていた。

 そして、この言葉を皮切りに、交互に〝あやふやなもの〟を言っていくというゲームが始まった。


 僕が、

「空と雲の境界線」と言う。

 美沙が、

「小石と砂利の違い」と言う。

 僕が、

「その人が今、幸せかどうか?」と言う。

 美沙が、

「小学校の時の記憶」と言う。

 僕が、

「臆病者と慎重な人の違い」と言う。

 そうすれば美沙は、

「楽観主義と現実逃避の違い」と言う。

 そして僕は、

「浮気はどこからか?」

と聞いた。


 そこまでわりと順調に進んでいた言葉のやりとりがピタリと止まった。僕が出した「浮気はどこからか?」という言葉に美沙は何も言えなくなったのか? それとも単純にネタが無くなって困っているだけなのか? 運転で前を向いている僕はチラチラと美沙の横顔を盗み見たが、表情からは全く読み取れなかった。


 帰ってこなかった間、美沙がどこで何をしていたのか?

 僕にとって今、最も彼女に聞きたいことだ。

 僕たちはクリスマスイヴに大喧嘩をした。いつまでも研究に没頭している僕に、彼女は将来が不安だと言った。

 勢いで飛び出した美沙は、同棲しているアパートに年が明けても帰って来なかった。

 その間、彼女はどこに泊まっていたのだろうか? 何度電話を鳴らしても電話をとらなかったし、大学時代に彼女といちばん仲の良かったサエコに聞いても「知らない」と言うだけだった。

 一人で過ごすクリスマスと正月は、想像以上に寂しいものだった。新年のカウントダウン前に帰ってくる美沙の姿を期待したが、それも想像するだけで終わった。新年を迎え、ハッピームード全快のテレビ画面の中と、落ち込みから立ち直れない自分とのギャップに押しつぶされて、本当にもう少しでどうにかなってしまいそうだった。

 僕はメールで美沙に謝罪して、帰って来てくれないかと頼んだ。不本意な謝罪だった。

 正月明けに美沙は帰ってきた。「正月太りした」と言っていた。逆に僕の体重は5キロ近く落ちていた。少しふっくらとした美沙のウエストラインは、今も元に戻っていない。

 美沙はクリスマスと年明けの瞬間を、誰とどこで過ごしたのだろうか? 僕はそのことを聞けないままだ。

 おそらく美沙はしてやったりと思っているはずだ。「男をあやつるなんて簡単よ」なんてふうに会社の同僚に言っている姿が安易に想像できた。

男の寂しさをあやつるのが女という生き物だとすれば、僕はまんまとその罠にかかってしまったことになる。


 三時間ほど休み無く高速道路を運転した僕は、サービスエリアで休憩を取ることにした。

 美沙がトイレに向かったその背中を見ながら、外にある喫煙コーナーで煙草に火を付ける。真夜中のサービスエリアは閑散としていて寒さが何割にも増して感じられた。

 日本は奇跡的な国だ。四季が見事に感じられる。これから半年後には暑くてたまらない夏が来るなんて、この今の寒さからはとても考えられなかった。


 明日、両親に美沙を紹介することになっている。

それはつまり、結婚の決意表明をする会でもあった。

 外面の良い美沙はおそらく両親から気に入られるだろう。そして、トントン拍子に話は進み、僕たちは美沙の立てた予定通り、秋に結婚式を挙げるだろう。そして、僕がコツコツと貯めた貯金をはたき、新婚旅行に行くのだろう。行き先は美沙の希望通り、オーストラリアになるだろう。コアラを抱いて写真に写っている自分の姿が想像できた。


「これが人生かぁ」

と呟いて、ため息を一つ。

 一生をあやつられる覚悟が僕には必要だ。白い息に混じって煙草の煙が風に吹かれて消える。あまりの寒さで鼻が赤くなっているのが、鏡を見なくても分かった。

 なんだか急にどうしようもなく悲しくなってきた。そして、怒りがこみ上げてきた。

 これで良いはずが無い。

 僕はあやつり人間ではない。

 僕は吸い始めたばかりの煙草を灰皿に捨てると、美沙がトイレから出てくるのを待たずして車に戻った。トランクから美沙の荷物を投げ捨てる。

 そして、エンジンをかけて車を発進させた。

 そのままアクセルを踏み込む。

 加速するエンジン音が自分の鼓動と重なった。

 おそらくトイレから出てきた美沙は僕を探すだろう。そして次に車を探すだろう。その次は……。僕に電話をかけてくるはずだ。僕は右手でハンドルを握りながらパーカーの左ポケットに入っていた携帯電話を取り出すと電源をオフにした。

 これで彼女は路頭に迷う。

 雪の舞う真夜中のパーキングエリアで独りきりだ。


 僕はこのまま実家に一人で帰り、

「結婚はやめたわ。ごめん」

と父と母に言う。

 そうしたら、びっくりしている両親の顔を横目に、僕はニヤリと笑おう。

 男はこうでなくてはいけない。

 女には支配されてはいけないのだ。

 ざまあみろ、だ。

 そう思った瞬間、それまであやふやだったものが確信に変わった。僕は美沙のことを愛していない。そう、これで良かったのだ。


 開放感から叫びたくなった僕は、

「さらばだ。クソ女!!!イヤッホーーーー!!!!」

と叫んだ。

 その瞬間、僕は自分の財布を美沙のカバンに入れたままだったのを思い出した。財布には現金や免許証、銀行のキャッシュカードやクレジットカードまで僕の大切な物の全てが入っていた。銀行には僕の全財産がある。そして、美沙はその暗証番号を知っていた。

 僕は、この人生が始まってからおそらく最大であろう大きなため息を一つしてから、携帯電話の電源を入れた。

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