第30話

 ある日の夜に起こったことには、忘れられない衝撃を私に残した。

「帰ろうか」大きな事件も起こらずに、平和な一日の夜だった。

「そうね。たまにはゆっくり休んで」と、共に巡回中の弘子も同意してくれた。

そんな時であった。小さな叫びが私の耳に届いた。それは嗚咽にまみれた子供のような声だ。私は急いで声の元へと向かった。弘子の顔も険しい。私を通して理解したのだろう。その声はとある河川敷からだった。中学生くらいの男の子が上半身裸で数人に囲まれていた。その子の体にはたくさんの傷があり、赤や青に変色していた。『虐めだ』私はすぐに状況を理解した。男の子を囲む少年たちは、バッドや鉄パイプを持っている。

「何をしている!」突然現れた私に少年たちは驚きの声を上げ、散り散りなって逃げ出した。さすがには向かってくる者はいなかったが、私を驚かせたのは、虐められていたはずの少年の言葉だった。

「大丈夫か?」と尋ねると、

「放っておいてください」と、自分の服を掴むと走り出したのだ。その目には大粒の涙が光っていたが、それは痛みや恐怖を感じて流す涙には見えなかった。

意味が分からずにその後姿を見つめていると、

「あなたに見られたのがイヤだったみたい」と弘子が呟いた。

「え、なんで?」

「恥ずかしかったんじゃないかしら」

「でも、放っておいたら殺されたかもしれないのに」

「……そうね。でもイヤだったみたい」弘子は少年の心に触れたはずだ。だからその言葉は信じられる。けれども、少年の気持ちは信じられない思いで一杯だった。私が立ち尽くしていると、

「さてと、私は許さないからね。ちょっと待ってて」と、弘子は姿を消した。

「ちきしょう。なんであいつが来るんだよ」

「くそ!うぜぇ!」と、主犯格の二人の少年は、悪態をつきながらも必死に走っていた。

「みんなは何処に行った?」

「知らねえよ。ばらばらに逃げたんだろ」

「くそ!。どこまで逃げればいいんだよ」

「待て待て、追いかけて来ないぞ」と、一人の少年が振り向き足を止めた。

「そうか?」と、もう一人の少年も足を止め、走って来た路地を振り返った。二人とも激しく肩を上下させ、早い呼吸を繰り返していた。路地には外灯もなく、月夜も差し込まずに真っ暗だ。

「なんなんだよ、あいつは」

「ほんとだよ、犯罪者でも捕まえてろよな」下手をすれば、自分たちも犯罪者になるとは微塵も思っていない。そんな二人の前に、弘子が姿を現した。暗闇の中でぼーっと光り、怒りに満ちた恐ろしい形相で現れたのだ。そして二人の首に手を伸ばし、ケラケラと笑った。勿論、単なる脅しである。二人は弘子から目を背けることさえできずにわなわなと震え、力なくその場に座り込んだ。

二人ともいつの間にかズボンが濡れ、地面に大きな輪染みと作っていた。それを見て、弘子は大笑いで指さした。そして二人に向かって飛び掛かった。主犯格の二人は固く目を閉じ、大声を上げて両手を振り回した。必死の抵抗だろうが、『助けてくれ』と泣き叫ぶ以外に成す術がなかった。しばらくたって二人が目を開けた時には、弘子の姿は消えていた。けれども、少年たちは立ち上がることもできずに、路地から這いつくばって出た。そこは夜でも人通りの多い道で、二人は濡れたズボン姿を大勢に見られた。

「どうした?なにかあったのか?」優しそうな会社員風の男に訊ねられたが、二人は何も言えなかった。言えるはずもなかった。一人の少年を虐めているときにヒートマンが現れ、逃げたところを幽霊に襲われた。などと言えるはずもない。嘘を言う思考さえも働かなかった。そして何よりも、二人を見て笑う通行人の目が怖かったのだ。二人はどうにか立ち上がると、「大丈夫です。なんでもありません」と真っ赤になりながらその場を離れた。若い酔っ払いの男たちからは、さんざん濡れたズボンをからかわれ、ずっと顔を伏せたまま歩き続けた。弘子はそんな光景をずっと見ていた。彼らの心には惨めさしか残っていなかった。虐めた少年の事も、幽霊に襲われたことも、すべてが忘れ去られたかのように心の中にはなかった。あるのは、早く家に帰りたい。との願いだけだ。『少しはおとなしくなればいいけど……』と、弘子はそんな様子を静かに見ていた。


「大丈夫かな、あの子」シャワーを浴び、ベッドの寝ころんだ私は弘子に聞いた。結局、私は泣きながら立ち去った少年を追いかけることもできなった。

「そうね。どうしたらいいのか、私にもわからない」と、弘子はすっと現れ、ベッドの隅に腰かけた。

「そうなんだ。あのまま終わっていたかも知れないし、もっと大事になっていたかも知れない」

「きっと、虐めてる方にもわからないんじゃないかな」

「だから怖いんだ。歯止めが効かなくなることが恐ろしい。でも、虐めにはこれと言った解決方法がないように思うんだ」

「それぞれに状況が違い、反応も違う。肝心なのは本人の望みだとは思う」

「お節介だったのかな?私はどうしたらいいのだろう」

「難しいわね。虐めが違法ならば簡単なんだけどね。あまり深入りする訳にもいかないでしょう」

「彼の体の傷から見て、傷害という罪ではあるけれど、子供だからな……」

「うん……」この後、二人は会話が続かなかった。色々な言葉は浮かんでくるが、それらが口から出ることがなかった。それこそ、虐めにまで介入するようになれば、身体はいくつあっても足りないだろう。あくまでも身体的な危険が迫らない限り、出番は無いように思えた。それまでは、教師や親に任せるのが一番なのだろう。しかも、陰湿な虐めなどでは、助けを呼ぶ声も上げられないのではと思った。私の場合、聞こえる声が唯一の手掛かりである。助けを求める声だけが、急いで向かうかどうかの判断材料だ。エイリアンである私は神ではない。どちらかと言えば、エイリアンよりも地球人に近い。だからこそミスも犯す。『できる範囲で良いよ』と、弘子は言ってくれた。そうなのだろう、確かにそうなのだろう。けれども、判断基準を見誤った場合の結果を考えると、身が凍るほどに恐ろしかった。

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