第23話

 そんな幸せな時間をあざ笑うかのように、私の耳ははっきりと悲鳴をキャッチした。その声はまさに危機迫るものだった。弘子には私の異変は直ぐ分かる。私の心を覗くからだ。コスチュームはまだない。しかし、行かなくてはならなかった。緊迫感がヒシヒシと伝わってきていたからだ。制作の続きは夕子に任せ、私と弘子は悲鳴に向かって移動した。

「へー、本当に走るのが早いのね」弘子は私の心を覗いて、ある程度の能力は理解していたが、実際に見るのは初めてだった。

「そうかい?弘子みたいに飛びたいけどね」私の答えを弘子が笑った。

「当たり前でしょ。私は実体がないの。だから重力の影響も受けないわ。飛んでいるように見えるけど、私自身は何もしてないのよ」

言われてみればその通りだった。弘子達幽霊は、魂のみの存在で実体がない。意志のみで行動できるのだ。弘子にしてみれば、私のように『さあ、飛べ』と言わなくても、私についていくと考えただけで、行動できる。

これが、目的地がはっきりしている場合、瞬間移動となるのだ。ただ、弘子には悲鳴は聞こえない。今は、私の後に続くしかないのだ。従順な妻のように……。また、変な発想をしてしまい、弘子をチラッと見たら怒っていた。けれども、目は優しく笑っていた。

そんな二人の高速デート?も、あっという間に終わった。悲鳴の現場に着いたのだ。一軒の大きな屋敷だが、悲鳴はその中からだった。軽くジャンプして塀を越え、悲鳴の聞こえる窓を見た。部屋の中央に男が立ちはだかり、赤ん坊を抱きかかえ、さらにナイフを向けていた。赤ん坊のお母さんだろうか、必死に返してと泣き崩れていた。

「あの男、別れた亭主で、子供は彼の子よ」弘子は男の心を覗いていた。

「急いで、二人とも殺し、自分も死ぬ気だわ」私は窓を突き破り、体当たりを食らわそうと考えた。しかし弘子の強い言葉に引き止められた。

「待って」弘子はなおも男の心を覗き、言葉を続けた。

「躊躇しているわ。ちょっと見ていて」そう言うと弘子は姿を消した。私は窓から中を窺う事しか出来なかった。弘子は何をするのだろうか。

心配しながら見ていると、急に男が泣き崩れ、床にナイフを落とした。

「今よ」弘子の声が聞こえると同時に、私は窓ガラスを蹴破り、部屋に入った。

そして、床に転がったナイフを遠くに放り投げて、泣き叫ぶ赤ん坊を取り上げた。

男はその場に座り込みただ泣き崩れていた。赤ん坊を母親に返すと、必死に抱きしめて、私のほうなど見向きもしなかった。それはそれで都合がよかった。

「もう大丈夫。行きましょう」いつの間にか弘子が隣にいた。

「大丈夫って……あの男、ほっといて良いのかい?」

「もう邪悪な心はないわ、私にはそれが分かる」弘子の言うことならば信用できる。しかし、何故?急に?

「聞きたい?」弘子の前で考え事は無理だ。こちらの考えは手に取るようにお見通しなのだ。

「実はね、ちょっと赤ちゃんに憑依したの。そこでね、パパって呼んだらご覧のとおり」男はパパと呼ばれ、殺す決心が鈍るどころか、完全に失せたそうだ。初めてパパと呼んだわが子を手にかけることなど出来るものではない。そして自分の過ちに気がつき、更生することを心に決めたらしい。

「きっと良いパパになるわ。奥さんは許しそうに無いけど」と、弘子は笑った。

「でも、なんでこんなことに?」

「それは言えないわ。プライベートな事だから」と、弘子は恥ずかしそうにはにかんだ。無粋な想像はやめ、私も小さく笑った。しかし、これではどちらがヒーローだか分からない。良いコンビなのは間違いがないのだが……。けれども、そんなことはどうでも良い事だ。事件が未然に防がれたのだから些細なことである。帰り道、弘子と色々な話をしながら歩いた。久しぶりのデートに気分は高揚し、妙に心が浮き立つ。私以外に見えないと思うと、残念な気持ちになった。まあ、自分がよければそれでよし。そう、自分にはしっかりと現実の世界なのだから。思い起こせば、以前の私は息をするだけの存在であった。あの封筒が無ければ、今でも変化のない屍のような生活を送っていただろう。あの封筒こそがオアシスへのカギだったことは間違いがない。そして弘子こそがオアシスで待っていた出会うべき人だったのだろう。そして今までの事はすべて、この瞬間のための道だったのではないだろうか。そう考えると、あの荒んだ日々も悪くないとさえ思えるから不思議なものである。

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