第13話
それから焼き鳥を肴に三杯ほど飲み、気分よくホテルに戻った。部屋に入り一息ついた頃、いきなり頭全体に響き渡るほどの女性の悲鳴が届いた。それは今まで聞こえていた悲鳴とは明らかに違い、切迫した危機感が伝わってきた。
今までの悲鳴は、情事の「死ぬー」もあったし……。とにかく、その声に集中したが、やはりただ事では無さそうだ。『とにかく行ってみよう』と、声を頼りにホテルを出た。集中すればよく聞こえるが、現場までの距離感は掴めない。しかし声の状況から一刻を争いそうであり、全速力で行く必要があった。ところが、幸いにして酒の力は能力をアップさせるようだ。瞬く間に、私は悲鳴の聞こえる現場へと辿り着いた。どうやらマンションらしい建物から、悲鳴は聞こえていた。
見上げると、十階ぐらいだろうか、女性がベランダの手摺につかまり、必死に叫んでいた。だが、正面は交通量の多い道路で、女性の叫び声は道行く人には届いてはいなかった。エレベーターでは間に合いそうもない。今にも落ちそうだ。飛ぶしかない。私は咄嗟にそう思った。五十センチしか飛べないのに?安心召されよ。そのことは既に確認済みだ。私はマンションの壁から、五十センチのところを飛んでいった。地面でも壁でも、対象があれば常に五十センチなのだ。どんなに高い建物でも、壁に沿って飛ぶ分には、どこまでも上がっていけた。ただ速度は前にも言ったとおりだ。七階あたりまで飛んで行ったとき、案の定、その女性は力尽き、ベランダの手摺から落下した。丁度真下にいた私は、しっかりと女性をキャッチし、彼女が落ちたベランダまで上った。運良く女性は落ちたときに、既に失神していたらしい。私は顔を見られずに済んだことに、内心ほっとした。しかし、何故女性はベランダに掴まっていたのだろう。不思議に思っていると、部屋の中から物音がした。同居人ではない。私の直感が危険信号を鳴らした。同居人ならば、助けるはずだろう。窓から中を覗くと、覆面を付けた男が、居間の箪笥を物色していた。手には包丁。明らかに賊だ。女性はこの賊に落とされたに違いなかった。しばらく様子を伺っていると、賊はベッドルームに移動した。その隙に、私はサッシを静かに開け、中に忍び込んだ。背後から取り押さえるつもりだった。もちろん顔を見られたくない為の考えだ。ベッドルームの扉に近づき、そっと中を見ると、賊はクローゼットを覗き込んで後向きだった。チャンスとばかり足を踏み出そうとした瞬間、あたりを劈く悲鳴が聞こえた。しかも、それは間近で聞こえた。
振り向くと、あの女性がベランダで悲鳴を上げていた。その視線は、明らかに私に向けられていた。
「シーっ、私は賊ではない……」
無駄だった。女性はさらに大きな声で叫びだした。
「ドロボー。誰か助けて!」
今度は、私が賊に対して後ろ向きだった。声に反応した賊は、密かに私の背後に迫っていた。羽交い絞めにされたが、かえってラッキーだったと言おう。賊に顔を見られることなく、倒すことが出来たのだ。その賊はたった一発の肘鉄で完全に失神した。その状況を理解したのか、女性は叫ぶのを止めた。賊を倒したことにより、賊の仲間ではないことを理解したようだ。ベランダから室内に戻った女性は、それでも恐る恐る尋ねた。
「あの……。貴方は……」
「叫び声が聞こえたので……」
私の返答に女性は少し安心したようだった。そしてしばらく考えるような仕草の後、私に再度尋ねた。
「私……、ベランダから落ちた?」
まずい、気が付いている。どうにか私は誤魔化そうと考えた。
まさか、飛んでキャッチしたなどとは口が裂けても言えない。
「…いえ…、その、間一髪でした。でも引き上げたときには、意識がないようで……」
「そう……。てっきり落ちて、もうダメと思ったのよね、確か……」
「それよりも、早く警察に電話して」
私は女性を急がせた。あまり深く思い出してほしくなかったし、賊が意識を取り戻す恐れもあった。問題はこの女性だが、特別な能力を見られたわけではないので、その点は安心していた。急いでここから立ち去りたかったが、女性が『ありがとう、ではさようなら』と言うとは思えなかった。女性にガムテープがあるか聞いて、一巻き受けとり、賊をテープでがんじがらめにした。
「これでよし。では私はこれで……」
何気ない素振りをしながら、私は玄関に向かった。
「駄目よ。居てくれなくては。警察も話が聞きたいって言っていたわ」
女性は玄関まで私を追いかけて、私の腕を引っ張った。やっぱり無理か、と思いながら振り向くと、女性の顔つきが変わっていた。その目はドアのロックに注がれていたのだ。
「ど、どうやって入ったの」
その声は震えていた。見ると、ドアロックは完全に掛けられたままだ。
疑われていることは、鈍い私にも理解できた。このままでは、警察に何を聞かれるか分かったものではない。強盗事件の際に事情聴を申し込んだ警官を思い出した。実はその事情聴取も受けていない。これでは銀行強盗も犯人の仲間扱いされる。仕方ない。女性にだけは正体を打ち明けるしかないようだ。女性は共犯者でも見るような目つきで、私から後ずさり始めた。
「話を聞いてください」
「近寄らないで」
化粧のない顔は、恐怖に引きつっていた。結構な年増だが、若作り。そんなことはどうでも良い。
「私は決して怪しいものでは……」人の話も聞かずに女性は台所に走り去った。
「待ってください」
台所で包丁を引き出しから取り出し、女性は振りかざした。
「近づいたら刺すわよ」
その目は吸血鬼のように血走っている。とても話を聞ける状態では無さそうだ。
「近づかないから、話をきいて」
出来るだけ優しく言ったつもりでも、女性の興奮は極限を向かえそうだった。
「私はヒーローです」
何を言っている!口から出た言葉の馬鹿さ加減に、自分でもほとほと嫌気がさした。知能は高いはずだけど……。
「なにそれ!馬鹿みたい。共犯のくせして!」
叫ぶ女性の目は怒りに燃え、確信さえ持っていた。もう、何を言っても無理そうだ。パトカーのサイレンが直ぐ近くまで迫っていた。猶予はない。
仕方無しに私は飛んだ。たった五十センチだが、女性を黙らせるにはそれで十分だった。目を見開き、口をパクつかせる女性に、私は静かに話し始めた。
「貴女の言ったとおり、貴女はベランダから落ちました。でも見ての通り、私は飛べます。それで助けたのです」
女性は崩れるように床に座り込んだ。しかしその目は化け物でも見たかのように恐怖の色に満ちていた。仕方の無いことだろう。空飛ぶ人間など誰が信じるだろうか。
「お願いです。警察にあれこれ聞かれるわけにはいかない。このまま、行かせてはもらえないだろうか」その時、玄関のドアが激しくノックされた。
「大丈夫ですか。警察です。開けてください」
私は女性の目を見た。優しく訴えかけるように目を見た。それに対し女性はわなわなと小刻みに震えながら僅かに頷いただけだった。まるで壊れたロボットのようだ。
「このことは言わないで」
そう言って私はベランダに出たが、女性は私の動きを目で追うだけだった。
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