第12話
ホテルまであと少しのところで、疲れた私の鼻を唸らせるほどの良い匂いがただよってきた。焼き鳥の看板と赤提灯があり、入り口近くで焼く匂いが歩道上を覆い、私の疲れた足を容易に引きとめた。精神的疲れを狙い撃つ見事な戦略だ。
「いらっしゃい」
元気な声が店内に響き渡った。カウンターのみの店だが、美味しいのだろう。店内はサラリーマンやカップルで混み合っていた。中央付近に椅子が二つほど空いていたので、私は迷わずそこに座った。厚い一枚板で作られたカウンターは奇麗に磨かれつつも程よく色褪せ、嫌味のない年季を漂わせていた。一体、何人の人がこの席で会話を楽しみ、そして料理に舌鼓を打ったのだろうか。
「ご注文は?」
カウンター越の元気な声で、私の気分は良かった。筋肉痛も忘れられそうだ。
「とりあえず、ビールを」随分と走ったので、喉は渇ききっていた。
「ビンですか?生ですか?」
「じゃあ、生で」
私の喉は既に鳴っていたが、一分もしない内に生ビールが運ばれてきた。中ジョッキだ。心配りの効いた店に感謝した。待たせず出されるビール。ジョッキは中。私の好みとピッタリ一致した。大ジョッキは飲む間に温まってしまう。少ジョッキだと早く無くなり注文の面倒さが残る。やっぱり、中ジョッキだなと、つくづく思った。そして一口、かなり長い一口を楽しんだ。
メニュー自体はシンプルに焼き鳥の種類と、常備されたおつまみとご飯ものだけだが、カウンターの壁に掛けられた大きな黒板には、今日のおすすめメニューとして沢山の商品名が並んでいた。しかも手ごろな値段で、私の好みに、これまたマッチした。一口飲んだところで、店員が私の前に現れた。
「つまみはなんにします?」
「おすすめの、マグロ刺し、つくねと手羽先、梅ささみと銀杏。つくねはたれで、手羽は塩でね」
最高の取り合わせに、自分でも満足した。店員は伝票に書き込むと、各担当に大声で伝えた。
「カウンター六番さん、マグロ刺し、つくねたれ、手羽塩、梅ささみと銀杏」
「はーい」
各担当の返事も、私の気分を害すことなく、店の雰囲気に合っていた。
一杯目が終わる頃、マグロの刺身がカウンター越しに差し出された。
「おまち」
「ありがとう、生、もう一杯」と、私が言うと、店員はにこやかに頷いた。そこで店員の目線が、手芸の本に注がれていることに気が付いた。あちゃー、と思ったが、店員の反応は予想外だった。
「手作りの洋服ですか?難しいですよね」
何か懐かしいものを見るような目つきだった。
「君もかい?」何か店員からも同じ匂いがしたのだ。
「昔はデザイナーになりたくて、服飾学園に通っていました。才能がなくて今はこの通りですけど」
一見、ごつそうだが、繊細な神経の持ち主のようだ。
「デザイナー志望だったの?あの世界も厳しいからね……」もちろん知ったかぶりである。そこまで言った私の頭に、素晴らしいアイデアが浮かんだ。この若者に手伝ってもらえれば……。しかし、突然言っても可笑しなおっさん程度に思われる。しばらくは、この店に通って仲良くなってからだ。勿論、秘密は守ってもらわなくてはならないが、とりあえず布石だけは打っておこうと思い、本を広げて尋ねた。
「私は素人だから、言葉の意味さえ分からないよ。この縫いしろってなんだい?」
「ダメだなあ。基本中の基本ですよ」店員の笑顔がこぼれた。順調だ。
「教えてもらえればあり難いけどな」
「仕事中だから、またいつか」あっさりとかわされたが、こんな話で、きっかけ作りは出来たはずだ。おそらく教えたくてうずうずしているだろう。何度か通えば、容易に口を開いてくれそうに感じた。
人間は、自分の得意分野に興味を持ってもらうと、知っていることを話したくなるものだ。あくまでも自論でしかない。
この分だと、来月あたりにはヒーローとして活躍できそうだ。勝手な想像だとは思いながらも、私は笑った。しかし心の中では、『早いところ仕事と住処を探さなくては』と、改めて気をひきしめた。
時々私の顔を覗き込む客もいたが、あの銀行でのヒーローが目に前にいるわけはないだろうと思ったようで、直ぐに興味を失ったかのように目を逸らせた。
それは私も承知の上だった。人の噂などあっと言う間に消え去り、たとえ見たとしても他人の空似と思うことを確信していた。例えこの場で動画と比べられても、動画の画像は荒く、顔ははっきりとは映ってはいなかったからだ。きっと恐る恐る撮影していたのだろうが、いい迷惑である。
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