第9話

 結局はもと居た街まで戻り、何食わぬ顔で不動産屋を探し始めた。謝礼の残りと貯金の額を考えても、大した物件は借りられそうも無い。出来れば、礼金一、敷金一、あたりが狙いどころだ。なんとも庶民じみたヒーローだと、つくづく思う。もしも、思春期前に手紙を読んでいたら、おそらく数々の能力はあっという間に会得しただろう。そうすれば、学生時代からヒーローとして活躍でき、衣食住には困らなかった。また知能も高いと言っていた為、就職にも困らなかったであろう。そう考えると、二人の母を恨む心がまた疼き出した。不機嫌な顔で彷徨ううちに、街外れの雑居ビルの二階に一軒の不動産屋を探し当てた。こういう、目立たないところが今の私には都合が良い。それにしても携帯の着信がうるさい。母からの着信もあったが、今は話せることがなかった。

「いらっしゃい」小さい店だが気立ての良さそうな親父が出てきた。

「アパートを探しているのですが」

「どのあたりで?」

親父に聞かれたが、直ぐに答えは出せなかった。仕事も決まっていないからだ。

「うーん、安ければどこでもいいけど……」

そんな答えしか出来なかったが、親父は嫌な顔を見せずに聞き返した。普通はこのあたりで冷やかしかどうかを見抜くところだろうが、私の場合は必至に見えたらしい。事実、急いでいたのだ。

「予算はどのくらい?」

「月に五万ぐらいで、出来れば礼金一、敷金一。そんな物件ありますか?」

「古くてもよければありますよ。場所は……、この近くだね」

親父はチラシの束から、一枚抜き取った。チラシには、賃貸料月四万九千円、礼金一、敷金一。と書かれていたが、トイレはあるものの、風呂はシャワーのみである。汗を流すことはできるが、ゆっくりと湯に浸かるのを好む私にとっては敬遠したい物件だ。何よりも湯上りに飲むビールの味に違いが出そうだ。。

「風呂付はありませんか?」私は遠慮がちに尋ねた。

「ちょっと遠くなるけど、それでもよければありますよ」と、チラシが閉じられたバインダーを開き、中から二、三枚を抜き出し、そのうちの一枚を持って親父は言った。

「これは、お得ですよ。バス、トイレ別、月四万五千円。一DKで、敷金、礼金一つずつ、公益費も二千円と格安ですね」バス、トイレ別というのも、必須条件である。私にとっては、体を洗う場所がないと落ち着かないのだ。

私は目を輝かし、チラシを受け取った。えーと、住所は……。おっ、千住か。まあ下町とは言え都会だな。築……。昭和四十五年。かなり古そうだ……。しかし、贅沢は言ってはいられない。

「見ることは出来ますか?」

私は半信半疑で尋ねた。不動産屋にはサクラの物件が多いからだ。

「ちょっと待ってね」

親父は電話を引き寄せ、あるところに掛け始めた。

「お宅の千住の物件……。そう四万五千円の……。そうそう……。見られます?うん、お客さんが来て……。はい、はい、……。よろしく」

親父は受話器を持ったまま私に尋ねた。

「見れるそうですけど、今から行きます?ここからだと、一時間位かかるけど」

「い、行きます」サクラじゃないと分かって、私は咄嗟に答えた。少しでも早く部屋を見つけたい一心だった。

「じゃあ、駅に着いたら、この携帯に電話して。相手も一時間後に駅に行くから」親父はそう言って、相手の電話番号を渡してくれた。それから二言ほど話してから、親父は電話を切った。

「一応、決まったらここにも電話して」

そう言って気の良さそうな親父は自分の名刺を渡してくれた。やっと希望の光が照らし始めたようだ。

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