第2話

 事の起こりは、母一人が住む実家に帰省した日の夜だった。特に理由はないが、一人暮らしのお袋に会いに行くのは、月一の恒例行事に過ぎない。仕事や人間関係について細かく言われないのも、恒例になった要因ではある。無言に近い2人だけの夕食後、思い立ったかのようにお袋が一通の手紙らしきものを渡してくれた。長い間忘れていたらしい。封は切られていなかったけれど、宛名は明らかに私だった。

色褪せて古ぼけた封筒を開いたが、紙面の文字とおぼしき羅列は解読不可能だった。ローマ字でもなければキリル文字でもない。幾何学的な形は、もちろん漢字ともひらがなともかけ離れていた。要は全く読めず、文字との認識すら無理であった。

「いつの間にか届いていたんだけど。そのことすら忘れていたのよ。ついこの前、ひょっこり見つかってね……」とお袋は青ざめた顔をした。封筒の消印は、半分は薄れて読めないが、年度は私が生まれた年だった。

「こんなの今頃貰っても……」と言うと、

「何度も捨て……。いえ、なんかね、捨てたらいけないような気がして」と、胡麻化すかのように訳の分からないことを呟いていた。

正直に言って、何十年も昔の手紙などに私は何の興味も持たなかった。ましてや読めない手紙のことなど、今の私にはどうでも良かった。それよりも、これからの事、明日からの自分の事で頭はいっぱいだった。生きる気力さえ失いかけていたからだ。当然のこと、働く意欲などどこにもなかった。その後、お袋とは互いに交わす言葉は発せられず、その夜は早めに眠りについた。もちろん熟睡などできるわけもない。ただ目を閉じて、これからのことをあれこれ考えるだけで朝を迎えてしまった。


 早朝、寝不足で朦朧とする頭を抱え自分のアパートに戻ったが、何かをする気力はすでに失っていた。古くなったキッチンの椅子に腰かけ、『どうするべきか』と自問したが、答えが返るはずもなかった。だからと言って、相談できる友人さえいなかった。仮に相談相手が居たとしても、解決の糸口は見つからないのは分かっていた。

「ふっ」とため息をついて、冷蔵庫から冷えたビールを取り出し、明るい時間から飲み始めた。ベッドに腰を掛けて足を放り出し、真っ黒なテレビ画面を見ていると、不意に昨夜の封筒を思い出した。放り投げたままのバッグをまさぐり、色褪せた封筒を開いてみた。逆さにしてもひっくり返しても、差出人さえ分からない。封筒の裏面を見たが、ここにも何も記されてはいない。だが、昨夜とは何かが違うように感じた。静かに振ってみると、微かな重みが手に伝わってきたのだ。渡されたときには感じなかった重みが、今は確かに感じる取ることができた。

丹念に調べてみると、小さなコインらしきものが封筒から滑り落ちた。

床に落ちたコインらしきものを拾い上げたとき、突如として私の頭に稲妻が駆け巡った。まるで感電したかのようだ。私は慌ててコインらしきものを投げ捨てたが、台所まで転がったコインらしきものは、なぜか私を呼んでいるように思えて仕方なかった。恐る恐るコインらしきものに近寄り、ゆっくりと拾い上げたが、今度は先ほどのようなショックは受けなかった。その代わりにすごく懐かしいものを感じた。それは暖かく、私を包み込むような愛さえ感じられた。

心が幸せに満たされたような感じだった。そのコインらしきものを胸に抱き、静かにベッドに腰を下ろした。しばらく目を瞑り、瞑想するかのように静かにしていたが、その幸福感が消えることはなかった。

私の両親は私が幼い頃に離婚していた。お袋は早々に再婚し、私は義父との生活を余儀なくされた。お袋とて女である。愛情は子供よりも新しい旦那に注がれ、私は常に我慢を強要させられた。そんなお袋の愛情は、記憶の中の幼い時期でぷっつりと途絶えていた。しかし今、その忘れていた母の愛情に近いものが優しく私を包み込んでいた。そして、無意識に伸ばした手には、同封されていた手紙が握られていた。ところが、その手紙に目を向けた時、更なる衝撃が私を襲ってきた。

『読める!』ついさっきまで、意味不明だった文字の羅列が、はっきりと意味を成した形で、現実の私の目に飛び込んできた。そこにはこう書かれていた。

「息子よ。お前がどんな暮らしをしているのか、今は知る由もない。願わくは、思春期ごろにはこの手紙を見てほしい。おまえにはやらなくてはいけないことが山ほどある。詳しくはその情報カプセルに保存しておく。何か映せるものを利用すればよい。これだけは言っておく、私たちはお前を愛している。一緒に居られないのが残念だ」正直私は戸惑った。『ちょっと待て!』

手紙の差出人は実の親なのか?文面からはそう読み取れる。それでは昨夜会ったお袋は、本当の母ではない?『そんなはずはないだろう?』

なぜ急に意味不明だった文字が読めたのか?情報カプセルとはどれか?私の頭は完全に混乱していた。何度読み返しても文面は同じだ。

次から次へと疑問が浮かぶのだが、どれも答えに結びつきそうな考えは浮かんではこなかった。それでも私は考えることを止められなかった。突飛な現実には突飛な想像すらも追いつけないようだ。けれども、どうしても答えがほしかったのだ。納得できるような答えが出ない限り、私は気でも狂ってしまうのではないかと思ったからだ。事実、状況だけを見れば既に狂っているとしか言えなかったからだ。

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