最終章 暗躍

エピローグ1 『殺し屋』再び

「ハァっ……ハアッ……ここまで来れば大丈夫だよなぁ?」


 警察から逃れ、再び神奈川の温泉街である廃旅館まで逃げて戻って来た阿蘇は柏に聞いた。


「大丈夫じゃないかな? イテテテッ……肋骨まだ痛いんだから、少し休ませてくれよ」


 柏は服の下がプロテクターで覆われている脇腹を抑えながら言った。


 指名手配をされている柏は病院から出て来た同世代の学生を襲い、保険証と金銭を奪い、別の病院で、ヒビが入っていた肋骨の治療を行った。本来入院が必要な程重症なのだが、流石に警察に知られてしまうだろうから、痛み止めとプロテクターによる応急処置で済まさざるを得なかったのだ。


「ったく、仕方ねーな……それにしてもラングラー乗り捨てちまったのがイテ―なぁ」


 彼らは足が着く事を恐れ、ラングラーを途中で乗り捨てていたのだ。


「でも、三千万は僕らの手の中にあるから、これから如何にでもなるでしょ?」


 柏は阿蘇の持つトランクを指さして言った。


「ファントムはパクられちまったしなぁ、俺達が有効に使ってやるしかねーよな」


 武達との喧嘩の後、柏と阿蘇は三千万円の入ったトランクを奪い、武との戦いで動けない伊吹を置いて逃げ出したのだ。


 逃げたと言っても、柏も重症だったので、近場で隠れてやり過ごしたのだが、その時に、遠目で検挙された伊吹の姿を確認していた。


「オイオイ、それは流石にファントムを見捨てておいて薄情じゃない?」


「心にもねぇ事を言うな。テメーだって散々ファントムから良いように使いっパシリにされていたじゃねーかよ。心の中じゃ何時も舌出してたんだろ?」


 実際、伊吹は麗衣達が乗り込んできた時、仲間の喧嘩を一切見ていなかった。伊吹にとっては柏達は少しは使える程度の道具でしか無かった。


 柏もそんな事は気付いていた上で、『世界戦潰し』の伊吹を利用するつもりであり、真の仲間であるとは一度も考えた事が無かったが、それでも伊吹が武に対して強い執着心を持って仲間に引き入れようとしていた事に対し、嫉妬に似た感情も抱いていた。


 だから、伊吹が検挙され、三千万まで手に入った事は彼にとって正直良かったぐらいに思っていた。


「アハハ! そうだね! 確かに少しイイ気分かもね!」


 ファントムから解放され、警察からも逃げ切ったと思っていた二人が高笑いすると、誰も居ない筈の廃旅館の中でカツカツと鳴る足音が近づいてきた。


「誰だ? リベリオンのオッサンか? それとも廃墟巡りでもしてる旅行客か?」


 阿蘇が闇の中、接近してきた人物に問いかけると青いジャージを着、首が太く若干耳が潰れ、褐色に焼けた肌の黒髪の少女が中に入って来た。


「黙って聞いていれば猛様の弟君に対して何という事を……やはり彼らに天誅を下す必要があるかと」


「あ? 猛様? 弟君? 何の事だ?」


 この様な場所にやってきた侵入者の話が理解出来ず、阿蘇が首を傾げた。


「よく分からねーけどよぉ、姉ちゃん、こんな場所に一人で来たって事はそれなりの覚悟は出来ているんだよなぁ?」


 麗との闘争では香月を犯し損ね、その後の逃走の為に性欲の処理どころでは無かった阿蘇は少女の端正な顔と引き締まった身体を嘗め回す様に見ていたが、彼女の後ろから現れたサングラスをかけた大男を見て表情が一転して蒼褪めたものになり、言葉を失った。


「なっ……テメーはまさか……長野賢二おさのけんじか!」


 阿蘇の口から洩れた名前を聞き、柏も顔色を失った。


「まさか! コイツが伝説の『殺し屋』長野だって!」


 長野賢二


 中学時代、空手道『大東塾だいとうじゅく』の南斗旗全日本大会ジュニアの元チャンピオン。


 大会ではスーパーセーフと呼ばれる防具をパンチで叩き割ったという逸話もあり、余りもの強さから『殺し屋』の異名を持つ。


 他にも、層が分厚い柔道とフルコンタクト空手の大会でも上位入賞を果たし、ジュニアのキックボクシングの大会でも優勝経験があったが、高校に入ると大会などに出場したという情報が聞かれなくなっていた。


 その為、伊吹とは違った意味で伝説の男になっていた。


 高校に入ってからの試合実績が無いのは、かつて恵が創造した武闘派の右翼団体「天網」で活動していたからに他ならず、「天網」最強の男であり、恵の片腕として数々の反社を叩き潰し、麗との闘争時では姫野を寄せ付けず、勝子が今までで唯一喧嘩で勝つことが出来なかった相手でもある。


 そんな男が何故、神奈川にまで来ているのか、柏達の知る由もなかった。


「こっ……『殺し屋』が何しに来やがった!」


 阿蘇が若干震え声で聞くと、長野の代わりに褐色の少女が答えた。


「決まっているじゃない。そのお金は猛様の弟君の物。だから返しに貰いにきたのよ」


「だから弟君って誰だよ?」


 理解力の低い阿蘇に対して呆れた様な口調で柏が答えた。


「阿蘇君、話から察するにファントムの事じゃないか?」


「そう言う事か。でも、アイツなら警察マッポにパクられたぜ」


「そうそう。警察から拳銃を奪った上に周佐ちゃんを撃ったぐらいだから、どーせ何年間かお勤めしてるでしょ? だからその間、僕達がこのお金を預かっておく事にしたんだよ」


 柏がこの場を切り抜けようと嘘を吐いたが、侵入者は当然こんな話を信じる訳が無かった。


「白々しい嘘を……弟君への想いがあるのであれば少しぐらい情状酌量の余地があったけれど、やはり貴方達を見逃すわけには行かないわね」


「セーナ。この二人は俺に任せろ」


 長野が前へ進み出ようとすると、セーナと呼ばれた少女は片腕を上げて制した。


「いいえ。聞いた話じゃ、細い方の男は以前レイイを倒した事があるらしいじゃない? だからアイツは私に任せてくれない」


「……好きにしろ」


 長野は少女が柏の様な危険な男と戦う事を止めようともしなかった。


 前へ進み出たセーナは上体を起こし、左足を前に出すと、前足を正面に、後ろ足のつま先は正面に対して外側に45度の角度に向けると、両手はこめかみの高さに置き、顎を引いて上目遣いに柏を見ると、前足に踵を少し浮かして、体重を後ろにかけた。


 タン・ガード・ムエイ


 それは左右の構えを逆にすれば麗衣にそっくりなムエタイの構えに他ならなかった。

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