第108話 織戸橘火受美VS阿蘇直孝 ミドル級のボクサーの恐怖
「邪魔するな!」
私は鳩尾の高さに両拳をやり、肘を締めた中段構えを取ると、左腰を前に捻り、左肩より上体を右に旋回しながら阿蘇の顎に向かって左拳の直突きを放った。
ボクシングなど他の格闘技におけるジャブの打ち方では、インパクトの寸前に手甲部分を捻って上にして打つので、その方が威力は高いが、日本拳法の縦拳の直突きは捻らない事でスピードが速く、相手のガードも突き破りやすい利点がある。
だが、阿蘇は私の直突きに反応し、右手のパリングで強く私の突きを弾き、それだけで私の体勢は崩れかけた。
「オラよっ!」
丸太の様な太い腕で返しの左フックが放たれた。
恐らくボクシングであればミドル級と思われる阿蘇のパンチを下手にブロックしてもダメージは免れないだろう。
私は頭の旋回と同時に膝を曲げ上体を前屈して阿蘇の腕の下側を抜ける
外側からの曲線的な攻撃から、正面からの直線的な攻撃でタイミングと目線をずらした避けづらいパンチのコンビネーションだが、私は咄嗟に膝を曲げ、沈身と言うボクシングで言うダッキングで阿蘇の拳より低く体を沈めて躱しながら、相手の腹を貫くようなつもりで胴突きを放った。
胴突きは基本的に無差別級の日本拳法では身長差のある相手に有効な技なのだ。
だが、日本拳法の試合なら一本かも知れないが、これは試合ではない。
「ボクサー相手に女のボディブローなんか効く訳ねぇだろ?」
私の上体が下がっていたところに、阿蘇は目線を下げ、手の甲を下に向け、下げた拳で勢いよく突き上げられた左アッパーを突き上げてきた。
この体勢では躱せず、咄嗟に両腕を二の字にして、顔を覆うようにしてパンチをブロックしたが、腕を折らんばかりの威力を殺しきれず、ガード越しのパンチが強く私の鼻を打った。
「ぐっ!」
ガードをしたのにも関わらず、私は鼻血をボタボタと流していた。
ヤバい。
メンタルを鍛える為に日本拳法だけでなく、防具無しで打ち合いも辞さないフルコンタクト空手も習っていた私だけれど、裸拳で顔面を殴られると言う体験は殆ど無かった為、こんな事は始めだ。
「どうした? 鼻血なんか初めてって顔してるな?」
日本拳法だって顔面突きがあるし、防具装着している分、激しく殴り合うので、大抵の格闘技よりも顔面への攻撃には慣れているし、面をかぶっていても直突きを真面に喰らうと衝撃で脳震盪を起こす事もある。
だが、裸拳で殴られる恐怖はまた別次元のものだった。
日本拳法の稽古では強い突きを面に打たれて首がムチ打ちのような状態になった事はあったけれど、ボクサーの素手のパンチがガード越しでもこんなに威力があるものとは思わなかった。
「うっ……うるさい!」
「オイオイ無理すんなよ! 肩震えてんぞ?」
「何?」
「ハハハッ! 姉貴に比べて技術はあるかも知れねーけど、テメーはとんだチキンだなぁ?」
奇しくも姫野君にも同じような事を言われた事がある。
実力では中学時代の自分を上回るけれど、気の弱さが弱点だと言われたのだ。
だから、フルコンタクト空手を習い、防具無しの打撃も経験したのだけれど、性根は治っていないという事か?
「たった一発でブルってるなんて、姉貴には程遠いよなぁ? ま、アイツの妹に生まれた事と麗何ぞに係わっちまったテメーの不運を呪うんだな!」
阿蘇は先程左アッパーを打った時の様に、目線を下げ、手の甲を下に向けた。
さっきは上体が下がっていたので顔面に放たれていたけれど、あの軌道は通常ボディアッパーの軌道のハズだ。
私は中断構えからアッパーを払おうとしたけれど、アッパーを撃つフォームのまま腕は曲線を描き左フックを放たれ、フェイントにかかった私は躱す事も防ぐ事も出来ずにクリーンヒットを喰らってしまう。
「がっ!」
テンプルが打ち抜かれ、首が捩じれる衝撃で私はつんのめりになって前に倒れた。
フルコンタクト空手の組手で上段廻し蹴りを喰らった事があるけれど、それ以上の衝撃で脳が激しく揺さぶられたのだ。
「ハハハッ! テメーの姉貴はカウンターが得意だったからなぁ! だから、テメーも似た様なタイプだろうからフェイントを使わせて貰ったぜ!」
岩石をぶつけられたように痛み、星がチカチカとする脳裏に阿蘇の耳障りな声がガンガンと鳴り響いた。
確かに……私が姫野君と同じ「後の先」を狙うタイプだと知っていればフェイントを使用して来るのは自明の理だったかも知れない。
試合ならとにかく、今までの
いや、それよりも一発目のアッパーで恐怖を植え付けらてれていたから、自然とアッパーを警戒しすぎてフェイントに掛かってしまったのか。
いずれにせよ、私はこれ以上戦う気が失せてしまった。
流麗の様な軽量級のボクサーが相手ならとにかく、ミドル級クラスのボクサー相手に私なんかがどう頑張ったって勝てる訳がない。
「んだよ? もう諦めたのかよ? あんまりガッカリさせるなよな?」
残念そうに言うと阿蘇は指一本動かす事が出来な私に唾を吐きつけた。
不快に粘つく生温い唾液で顔を汚されたが、怒りよりも恐怖が上回り、戦うよりも、誰かに助けて欲しいという情けない気持ちしか湧いてこなかった。
「ホラ! 見てみろよ! 柏のヤロウ、テメーのお友達を随分と気に入った様だぜ?」
神子が何かされているという事なのか?
私が辛うじて顔を上げて、神子の方に視線を向けると、柏と言う男が、火の付いたライターを片手に失神している神子の顔に近付けようとしていた。
その光景に、私の血が瞬時で沸騰し、恐怖を超越した。
「テメェ! 神子から離れろ!」
私はよろめきながら立ち上がると、神子の顔を焼こうとしていた柏は一瞬、例の薄気味悪い笑顔から驚いたような表情に変わっていたけれど、すぐに元の悪魔めいた醜悪な微笑に戻った。
「オイオイ、阿蘇君。まだ織戸橘先輩の妹ちゃん元気そうジャン♪まさか同情でもしちゃったの?」
「気持ちワリィ事言うな! あまりにも弱すぎてガッカリしたんだよ」
「そりゃーそうだよ。仮に妹ちゃんがあの頃の織戸橘先輩ぐらい強かったとしても、今の僕達の相手じゃないだろうしね♪で、どうすんの?」
「何やら柏に対してご立腹らしいぜ? 相手してやったらどうだ?」
阿蘇はもうヤル気が無いのか? 私に興味を無くしたように言った。
「え~めんどくさいなぁ……阿蘇君が妹ちゃんで織戸橘先輩の憂さ晴らしするつもりじゃなかったの?」
「黙れ! その口を塞げ!」
二人のやりとりを遮り、私は柏に向かって行こうとした、その時だった。
あたかもボーリングの球の様なパンチが私のこめかみを打ち抜き、私は大きくよろめいて神子の隣で倒れた。
「バーカ! 騙されてるんじゃねーぞ!」
阿蘇は只でさえ力の差があり、こんな事をしなくても私を倒せるはずなのに、私を更なる絶望の淵に叩き落とす為に一芝居を打っていたのだ。
ガードの上からでも効かせるようなパンチを無防備の状態で喰らった。
頭が割れるような衝撃で、これ以上立ち上がるのは不可能だろう。
でも……せめて神子だけでも……。
立ち上がれない私は匍匐前進で神子に近付くと、彼女を守る様に覆いかぶさった。
「何じゃそりゃ!
「それって昭和の漫画だね!」
阿蘇と柏がゲラゲラと笑い出した。
何と言われようと、私が盾になってせめて神子だけでも守らなきゃ……。
私達を痛めつけようと、二人が近づいてきたその時だった。
「その位で止めとけ」
小男が静かな口調で命じると、二人の動きはピタリと止まった。
「何で止めるんだよ……ファントム」
阿蘇はリーダーと思しき小男をファントムと呼び、訊ねた。
「まさか、妹ちゃんの健気な姿に心打たれたって訳じゃないよね?」
柏がふざけた口ぶりで訊ねると、ファントムは首を振った。
「ちげぇよ。誰か通報しやがったのか、パトカーのサイレンが聞こえるだろ?」
言われるまで気付かなかったけれど、確かに、それらしい音が聞こえて来て徐々に音が大きくなってきている。
「ちっ! 折角、周佐達に繋がる手掛かりだったんだけどよぉ……」
「まぁ良いじゃねぇか。こうして麗の手足を少しずつもいで苦しませて追い詰めていくのも乙なものだろ?」
「ハハハッ! ファントムは僕以上の悪魔だねぇ♪」
何が可笑しいのか全く理解できないが、柏は愉快そうに笑っていた。
「オイ、男女! まだ生きてたら麗のメンバーに伝えておけ。柏と阿蘇、それに伊吹尚弥がテメーラを狩りに行くから首を洗って待ってろ? てな?」
ファントム・伊吹尚弥はそう言い残し、この場から去って行き、暫く経つとパトカーでは無く、見慣れた顔が現れ、私は安堵した。
「ふうっ……上手く行ったか。あんな化け物達、相手にしたくないからね」
パトカーのサイレンの音と共にスマホを手にした孝子だった。
「スマホにパトカーの音入れてたんだ……」
「そうそう、音量を少しずつ大きくしていって段々近付いてくる演出したんだけど……気付かれたら私も殺されるところだったよ」
隠れて様子を見ていた孝子が機転を利かせてくれたみたいだった。
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