第37話 悔しさすら湧いてこない

 あまりにも鮮やかなKO劇にジムの練習生達は静まり返っていた。


 男子にも勝てると言われているMMAの女王相手だ。


 幾ら麗衣でも勝てない事は解り切っていた事だ。


 だが、あの麗衣がたったの一撃で倒された事に理解が追い付かなかった。



「麗衣さん! 大丈夫!」


 唖然としていた俺を尻目に恵は、マットに倒れ、立ち上がる様子が無い麗衣のもとに駆け寄った。


「手加減するには彼女は強すぎたようだね。これなら寝技グランドでギブアップさせた方が良かったんじゃないのか?」


 ブラッドさんは俺達にも聞かせる為なのか? 日本語でレイチェル選手に話しかけた。


「レイイ、ツヨカッタ。ミドルデウデイタイ。ローキック、マルデ、ムチミタイ」


「全く、フライウェイトのアマチュアキックボクサーがこれ程やるとは思わなかったよ。正直驚いている」


 ブラッドさんもレイチェル選手も惨敗した麗衣の事を絶賛していた。


「アレ? あたし……、何してたんだっけ?」


 麗衣が目を覚ますと、レイチェル選手は麗衣に抱き着いた。


「なななななっ!」


 意識が混濁としていそうな麗衣だったが、不意に金髪美女に抱き着かれ赤面した。


「レイイ、イッショニ、アメリカニイキマショウ!」


「「「はあああっ?」」」


 予想外のレイチェル選手の一言に、麗衣のみならず。その場に居た全員が驚きの声を上げた。


「えっと……話が見えねーんですが……」


 レイチェル選手とスパーをした事すら記憶に無さそうな麗衣はヘッドハンティングされそうな状況の意味が分からず、首を捻った。


「つまり、レイチェルは君に俺のジムに来て欲しいと言っているんだよ」


 ブラッドさんが説明すると、麗衣は益々混乱したような表情を浮かべた。


「でっ……でもおっ、麗衣さん一発でKOされていたし、ほどの強さを見せていないと思うんですけれど?」


 恵は敬愛する麗衣をさり気なくディスっている事すら気付かない程焦りながらブラッドさんに訊ねた。


「そりゃあ、キックの階級に換算すればフライウェイトとライトウェイトの対戦、しかもオープンフィンガーグローブだからね。一発でも当たれば倒されてしまうのは仕方の無い事だよ」


 実際の麗衣の体重はフライ級よりもミニフライ級に近い。

 ミニフライ級以下では相手がいない為、フライ級下限まで無理矢理体重を上げたのだ。


 対するレイチェル選手の通常体重がどれ程か不明だが、試合時の体重と変わらないとしても、麗衣との体重差は少なくても13キロ近かった事だろう。


 武道系の競技では有り得る体重差だが、顔面無しだったり防具を装着するルールであったり無差別級であっても一応最低限の安全は考慮されている競技が多い。


 だが、素手に近いオープンフィンガーグローブでグローブのハンデも無く、殴り合うのはやはり無謀だった。


「一発で……あたしが倒されたって言うのかよ!」


 麗衣は事ここに至り、自分がKOされた事を認識した様だ。


「まぁ、少なくても今の君が倒されてしまうのは仕方が無い事なんだよ。例えば、君のキックは素晴らしいものがあるけれど、一寸それに頼りすぎている。如何にフェイントが上手くても、キックしか来ない事さえ分かっていれば覚悟を決めて、思い切ってキックの間合いよりも中に入れば威力は半減する」


 奇しくも、先日、草薙神子が朝来名益城のローキック対策に間合いを詰め、インパクトを外し、衝撃を軽減させていたのと同じ方法だった。


「あと、君はハの字にガードを開いていたからアッパーの良い餌食だったんだよ。ボクシンググローブが使えないMMAでは猶更弱点を晒している様なものだ」


 実際、肘やハイキックを防御する為にオープン気味でガードを高く上げるムエタイの構えに対して、左アッパーは有効な武器である。


 そう言えば魔裟斗選手がムエタイ選手相手にアッパーをよく使っていたな。


「……チッ! んな事言われても、どうやられちまったのかスパーの記憶もねーんじゃ、悔しさすら湧いてこねーな……完敗だよ」


 麗衣が負けを認める姿など初めて見た。


「だが、君は強い! 左ミドルを一目見た時、久々に鳥肌が立ったよ。君ならばきっとジャネット・ドットにも匹敵する選手になれるに違いない! ウチのジムに来れば世界王者になれるぞ! 如何だいレイイ。我々と一緒にアメリカに来ないか?」


 所謂青田刈りと言う奴か?


 ブラッドさんは女子ムエタイの強豪、ジャネット・ドットの名前まで出して、堂々と引き抜きを始めだした。


 と言ってもまだ麗衣はアマチュアキックボクサーだからジムの縛りを受ける立場では無い。


 寧ろ麗衣にとっては良いチャンスに思えるが。


「ええっとぉ……いきなりそんな事言われましても、ウチの美夜受も困るかと思いますので……」


 流石に妃美さんは引き抜きを止めようとした。


 そりゃあ、この強さと美貌だから、プロ入りさえすれば人気選手になる事は保証されている様なものだからな。

 

 ジムの会長の娘の立場からすれば、麗衣の様な将来有望な選手を手放したいはずがない。


 そんな大人達の思惑を知ってか知らずか、麗衣は立ち上がるとリングから降りた。


「光栄な事だけど、あたしははなっからプロになるつもりはねーんだ。ワリィな。無駄な事に時間を使わせちまって……」


 それだけ言うと、麗衣は振り返りもせず、外へ出て行った。


「れっ……麗衣さん! 待って!」


 打ちひしがれた麗衣の背を慌てて恵が追った。

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