痺れるほどに甘く。

七屋 糸

ドーナツの穴




ドーナツの穴みたいだ、と引っ越してきたばかりの頃にあなたが言った。



天井に広がる無数の穴。細かな点描は模様というのには少し無機質で、しかし無視するのにはいささか主張が強い。



だからドーナツの穴。


なにそれ、へんなの。



そう言いながら同棲開始にあわせて購入した大きなベッドに寝転んで、ふたりでくすくすと笑いあった。懐かしい記憶。







目が覚めるとカーテンの隙間から陽の光が覗いていて、寝ぼけた頭を刺激した。



枕元のスマホを見ると時刻は7時23分。平日にしては遅いが、休日にしては早い時間。もうしばらく惰眠を貪るのもいいかと思ったけれど、妙に目が冴えてしまって羽毛布団からそっと足を刺しぬいた。



「あれ、もう起きるの」



まだ眠っていると思っていた彼がむにゃりとした声で言った。


人の声や家鳴りに敏感な彼は、わたしが起き出そうとするとすぐに目を覚ましてしまう。彼の眠りを守ってこっそりリビングへ逃げおおせたことは数えるほどしかなかった。



「ごめんね、まだ寝てていいよ」



そう言って寝癖のついた髪をひと撫ですると、すっと目を閉じて穏やかな表情になった。本当に眠ってしまったのかはわからないけど、その安心した顔におやすみと声をかけて白いシーツから抜け出した。



ぴちょん、と規則的に水滴をたらす蛇口の下にコップを差し出して水を入れる。


いい加減この水漏れとも言い難い水道のアラを直してもらわなくてはいけない。そう思うのだけど間延びした休日を満喫しているとつい後回しにしてしまう。



薄いコップのフチに唇を押し当てて、少しずつ水を胃に流していく。


冷たくも温かくもない常温は驚くほど存在感薄く喉を通る。なみなみと注いだ一杯を飲み干した頃にようやく身体が朝を実感してきて、今日は何をしようかと心がわきたった。




昨夜までは原稿の締切に追われていた。


古くからの知り合いにもらった短編小説の寄稿の話。喜び勇んで受けたけれど大抵の仕事は最後の最後で難航するもので、特に書くことを生業にしているとそれをひしひしと感じた。



何を書けばいいのか、どこまで書けばいいのか、よりよくするには何を挿入すべきで、何を削るべきか。


それを考えるのは果てしもなく苦しくて、険しくて、楽しかった。




もう一度コップに水を入れ、持ったままキッチンからリビングへ出て閉じていた分厚いカーテンを開ける。


日差しがいっぺんに舞い込んできてくらくらしたけれど、この感覚が精神的に健康なことを知っている。右足にぐっと力を込めて支え、体いっぱいに陽の光を取り込んだ。



窓を開けると風は穏やかで、中途半端な長さの黒い髪をそよりと撫でる。顔だけ出して外を覗くと、隣の家のベランダにスズメが一羽とまっていた。


ちゅ、ちゅちゅん、ちゅん。歌うような鳴き声を真似してみるけど、自分でも笑ってしまうくらい似ていない。




手に持ったままだったコップの水は小さな白い植木鉢にやった。まだ何も芽を出していないが、じきに黄色くて可愛らしい花が咲くはずだった。


それがいつかはふわふわと柔らかな綿毛になり、うす青い空に飛んで行くのを想像する。




休日の、午前中の伸びやかな空気。




世界に受け入れられているような気がした。日々は忙しく過ぎていくけれど、人々が寝ぼけ眼をこする朝はこんなにも緩やかに時を刻んでいく。


その中にいる自分という人間の平らかさが、どこか愛おしかった。



身体をよじらせながらいっぱいに伸びをする。


手も足も、すべての筋肉を空へと伸ばすと身長が2センチも3センチも大きくなった気がした。無意識に止めていた息をお腹の奥から吐き出して、わたしはもとの小ささに戻る。




ぱりん。




薄いガラスが弾けた。左手に持っていたコップがするりと手の中から滑り落ちていた。そこの分厚い部分以外は示し合わせたように散り散りに割れ、そのひとつが水をやった植木鉢に刺さる。



また、わたしの左手が悪さをした。



思い出せもしないほど幼い頃、交通事故にあったわたしの左手は肘から下にじりじりとした痺れがあった。日常生活には支障がないほどの、しかし親しい友人を含めて身内からは重いものを運ぶなと注意されるくらいの、はだかの王様のような痺れ。


つくづく自分が夢に見た職業が肉体労働でなくてよかったと思う。



飛び散った欠片を拾い上げようとしゃがみこむと、骨ばった手が目の前を遮った。



「危ないから触っちゃダメ」



さっき撫でた寝癖をつけたままの彼が身を乗り出してきていた。視界いっぱいの着古した灰色のスエットから洗剤と恋人の匂いがする。



「ごめんね、起こしちゃった?」


「君が起きたときからね」



いたずらっぽく笑う目元は確かに睡魔の気配がない。やはり彼を起こさずにベッドを抜け出すのは至難の技らしい。



玄関へほうきとちりとりを取りに行った彼のいない隙に、植木鉢に刺さったガラス片だけを左手でつまむ。


感覚がまったくないわけではない。けれど一度気を抜くとまたするりと指と指のあいだをすり抜けてしまいそうになる。



透明な破片はみんな緩いカーブを描いて、まるで切っ先などないように見える。しかしうっかり端っこに触れれば簡単に皮を、肉を裂く。それがなんだか朝のベランダには不似合いで、でも面白くって透かし見る。



「あ、」



透明な壁の向こう、ガラスの額縁に小さな双葉がにょきりと伸びていた。さっき水をやった種がさっそく芽を出したらしい。



「もう、触っちゃダメって言ったのに」



気が付かなかった。彼が後ろ手に立っていて、玄関周りを掃くのに使っている小さなほうきとちりとりを持っていた。


わたしはごまかすようにして「でも見て、芽が出たの」と植木鉢を指差した。小さな双葉はみるみるうちに成長していく。2枚だった葉が3枚になり、4枚になり、きっと明日には花が咲くだろう。



ふたりしてベランダの縁に座って、休日のもやにも似たのんびりとした空気を吸い込む。散り散りになったガラスの欠片たちはいつの間にか灰色のコンクリートに溶け込み、まるでステンドグラスのようにはめ込まれていた。




床にぺたりとつけた左手の上に、彼の右手が重なる。




彼は大抵わたしの左側に座って、人よりも少しだけ鈍感な指先を撫でるように握った。それが同情や哀れみでないことを知っていたから、わたしも安心して握り返す。


痺れが甘やかにとろけて彼の熱と混ざり合い、流れていく。



「ねぇ、昨日はどんな物語を書いたの」


「ん、昨日はねぇ、」



言いかけて、見上げた空に細い線がすっと伸びていった。



「流れ星だ」


「え、どこ」



彼がわたしに頬を寄せ、目線を同じくする。触れていなくても暖かさが、線でつないだように伝わってきた。




この部屋の中が世界の全てみたいだ。そう思って、わたしはようやくこれが夢だと気がついた。







目が覚めるとあたりは薄暗く、外からはしとしとと降る雨の音がした。



枕元のスマホを見ると時刻は7時23分。平日にしては遅いが、休日にしては早い時間。もう一度横になろうかと思ったが、雨の音が身体と頭を覚醒させる。


大きめのサイズのベッドの上、少し離れた場所で彼が壁際を向いて眠っている。物言わぬ後頭部を起こさないようにそっと白いシーツの海を抜け出した。



リビングの床はしんと冷たく冴え返り、キッチンの蛇口から一滴ずつ雫が垂れる音が響いてくる。陽の光のない湿った部屋は窓も、板張りの床も、白いはずの壁も、すべてが青々として見えた。


コップになみなみと水を汲み、一息で飲み干す。自分の喉が鳴るのがまるで何かを噛み砕く音のように聞こえてどきりとした。




昨日は何をしたんだっけ。そうだ、短編小説の〆切が、



「あ、」



いけない。まだ頭の中で現実と夢がない混ぜになっている。


それほどに精巧に作り上げられた、まるで手のひらに乗せて体温を感じられるような景色だった。


ガトーショコラにひと匙ずつ粉砂糖を振りかけたような、現実に虹がかかったような夢。



わたしは、ものを書く仕事などしていない。いや、正確に言えば仕事にできていない。


書くことはあくまでも趣味としての幅を超えることはなく、平日5日間の事務仕事で生計を立てていた。時々は言うことをきかない左手を気遣われながら、どうにか生きているに過ぎなかった。




どうせなら、もっと甘やかな夢を見ればいいのに。




息をするように言葉を生み出す自分を。痺れなどない左手が紡ぐ小説がたくさんの人に届くところを。書く者として、もっと大きく美しい姿を。


それなのに灰色に見える薄い肌には、苦悶しながら言葉を絞り出した感覚が残っている。どこまでも泥臭い、わたしのやり方だ。




雨の日も風の日もベランダに出しっぱなしにしている白い植木鉢も、何も育てていない。ずっと昔に友達からもらったマリーゴールドの鉢植えだったものは処分の方法もわからずに持て余し、夢に見るまで思い出しもしなかった。


そこに愛情をかけ、休日の朝に水を注ぐ自分の横顔。まるで小説みたいだと思って苦笑する。




このコップだって、




透明なグラスも、今は青々として冷たい。体温よりもずっと低い温度で、わたしの指先を侵食してくる。ぴちょん、ぴちょん、と音を立てて垂れ落ちる水のすべりも手伝って、持つ手の痺れが加速する。


取り落しそうになって、でも手のひらから離れることはなかった。




本能はときどき、誰よりも残酷なことをする。夢に見ていたのは、それほど遠いものではなかった。ごくありふれた、手に届きそうなほどの、暖かなものだった。


どうせなら、もっと遠い世界の夢を見ればいいのに。そうしたらいつまでも気が付かずにいられるのに。




昔を夢に見たのかと思ったが、それすらも分からないほどに彼の体温に触れていない。優しい声も、くすぐったい触れ合いも、安心を誘う匂いも。全部が過去のもののような、いつか夢に見たもののような。


彼を起こさずにベッドを抜け出すのは至難の技だった。それが今ではいとも簡単に、いや、彼の寝たフリが上手になっただけのこと。そして物言わぬその寝顔に「ごめんね」と声をかけることにすら疲れてしまっただけのことだ。



ときどきはこの透明なガラスが粉々になるほどの衝撃を与えてみたら、と思うこともある。だけどもうそんな必要も、真に迫るほどの幸福も二人の間にはないような気がしてやめた。




ひたりと素足で床を踏んでみる。静謐な空気が染みてきて、この部屋はこんなに冷えていたかなと考える。



まるでドーナツの穴を探すみたいに、証拠ばかり集めてしまう。みずみずしい双葉を守る植木鉢を、コンクリートに溶けた透明なステンドグラスを、かつては寄り添いあった彼を。そこにぴたりとはまるものなどないと知りながらする探しものは、叫びだしそうなほどに胸を裂く。




わたしは誰かになり代わるより、今の自分が幸せになりたいのだと突きつけられているようだった。



ただ認められたいのではなく、わたしが認められたいのだと。


ただ愛されたいのではなく、彼に愛されたいのだと。




彼はわたしに同情の瞳を向けない。


だから愛情のなくなったわたし相手に、熱を分け与えるようなことはしなかった。すっぱりと、緩やかに、でも自分の心に従いながらベッドで横になる彼を「変わってしまった」と言うのは、きっとわたしのエゴだろう。





せめて蛇口の水漏れくらいなおった夢を見ればいいのに。そんなところまで再現してしまう自分がおかしくて、わたしは両手で顔を覆った。



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痺れるほどに甘く。 七屋 糸 @stringsichiya

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