親子の時間【KAC20215】

江田 吏来

スマホがない!

 スマホがない!

 俺の体からすうっと血の気が引いていく。

 ありとあらゆるポケットに手を突っ込み、寝室の枕をどけても見つからない。


「落ち着け~」


 うわごとのようにくり返しながら家の隅々を探し回った。

 熊のようにウロウロしても、洗濯機の隙間をのぞき込んでも、スマホはない。

 俺は腕を組み、天井をにらみつけた。

 四十前だが記憶力はまだ衰えていないはず。

 朝からの行動をもう一度、深く思い起こした。


「スマホのアラームで目が覚めたから……」


 朝、スマホは寝室にあった。今日は休日だが、妻は職場のバーベキュー大会とかで帰宅は夕方過ぎになる。小学生の娘はお友達の誕生日会でいない。ぽつんとひとり取り残されたから、昼食はちょっと贅沢してやろうと電車に乗った。その時もスマホはあった。


「となると、あの店か」

 

 藍色の暖簾が目を引くそば屋さん。

 出汁の湯気に包まれたそばを豪快にすするのもうまいが、ここは定食メニューも充実している。出汁を活かした料理はどれも絶品で、そば屋というより定食屋と呼んだ方がしっくりくる店だ。


 暖簾をくぐると「いらっしゃい」の明るい声と共に、やわらかい笑顔の女将さんが熱いお茶を出してくれた。

 俺は壁一面に貼られたメニューに目を向けたが、電車に乗ったときから注文は決めてある。チキンカツ定食だ。

 衣がサクサクなのは言う迄も無いが、衣にまで味がしっかりついて美味いのだ。


「おまたせしました」


 熱々のチキンカツを目の前にすると、猛烈な空腹感に襲われる。「いただきます」の声よりも先にザクッとかぶりついていた。


「んー、美味い!」

 

 衣の味と食感を楽しむためにそのまま食べても良いが、一緒に出てくる胡麻だれが最高に美味かった。味噌汁もマカロニサラダも完璧なバランスで至福のひとときだった。

 次にくるときは妻も呼ぼう。そう思ってメニュー表をスマホで撮影――。


「あっ!」


 撮影した後、女将さんと雑談をした。その時スマホはカウンターテーブルの上。そのまま置いてきてしまったのだ。

 急いで店に連絡を。いつものくせでポケットに手を突っ込んだ。


「バカか」


 スマホがない。店に忘れてきた。そこまで分かっているのに、スマホで連絡を取ろうとするなんて……。もう苦笑いしかできない。

 俺は家を飛び出して、再び電車に乗った。


 夕方前の電車は空いていたが座席に座っている人、全員がうつむきながらスマホをいじっている。その光景がとても不気味に見えた。自分だってスマホがあればずっと画面を見ていたくせに。


 次の駅で親子が乗ってきた。

 五、六歳の男の子とお父さんだ。お父さんは子どもを座らせるとすぐにスマホを取り出した。

 男の子は大人しく座っている。

 親がスマホを見ているときは、話しかけてはいけない。そう決められているのか、ずっと大人しい。

 お父さんの方は大きめのリュックサックを背負っているから、これからどこかに行くところか、帰る途中か。どちらにせよ、窓の外を見ながら親子で話す良い機会なのにスマホとにらめっこ。大きなお世話かもしれないが、男の子が少しかわいそうに見えた。

 それと同時に胸がチクリと痛んだ。


 いつの間にかスマホを手放せない体になっている。

 話しかけてきても上の空。なんてことが何度もある。

 娘もあの男の子のようにぽつんと一人で、親に気を遣っていたのだろうか。

 幼い子どもは好奇心がいっぱいで、何気ない言葉のやりとりでもたくさんの幸せが詰まっているはずなのに。

 そして、子どもが子どもでいる時間はとても短い。

 つらい気持ちになるから男の子から目をそらした。すると男の子のお父さんが小声で話しはじめた。


「大丈夫、この電車であってる」

「もう、お父ちゃんしっかりしてや。僕、不安で泣きそうや」

「ごめん、ごめん。今度こそ、大丈夫だから」


 この親子は迷子になっていたようだ。だから必死になってスマホを……。

 思わず吹き出しそうになったが、親子の楽しそうな会話は続いていく。


 ほんの数時間スマホを手放しただけなのに、景色が違って見える。

 俺は窓の外をぼんやり眺めながら、胸の中に広がったこの温かい気持ちを絶対に忘れてはいけないと思った。

   




 

 

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