第25話 許さない女
日曜日の夜。落ち込んでいた祢々は、ラエーニャからのディナーの誘いに喜んだ。ラエーニャとのディナー会場のレストランがあったのは、新の働く品川の高級ホテルだった。もし新に会ってしまったらどんな顔すればいいのかわからない。その気持ちで祢々は少し不安を覚えてしまった。だけどそれ以上に祢々はラエーニャに聞きたいことがあったのだ。2人はバルコニーに設けられた席に向かい合って座って料理を楽しんでいた。
「ねぇラエーニャ」
「なんですか?」
祢々の知るラエーニャはいつも地味な格好をしていた。美人でスタイルもいいのに、女らしさをというものをちっともアピールしない服装ばかり。だけど今は体の美しい線がよく映える黒のドレスを纏っている。結いあげた髪もまた優美であり、露出した肩から胸の谷間までの肌の滑らかさに同性でさえも魅了してしまいそうな色気があったのだ。
「…どうしてあたしをアラタに会わせたの?」
艶めかしいラエーニャの服装に対して、自分は学校の制服のままであり、どこか引け目を感じてしまった。それで気持ちが少し沈む。だけどそれでも問わなければならなかった。クラーロヴァー少将に言われた言葉がずっと引っ掛かっている。彼女もまた祢々と同じようにラエーニャの娘になれなかった女の子だったのだ。祢々の記憶の中のラエーニャの姿は今と変わらない若いままの姿。この人はいったい何者なのか?それが祢々には恐ろしく感じられたのだ。
「あなたが新さんの役に立つからですよ。同時にあなた個人の幸せにとってもいいと判断しました。どうでしたか?彼と会った後の日々は、輝いていたのではないですか?」
その通りだった。祢々の人生は他人と比べると何処か暗い影があるものだった。祢々は名前こそ日本名だったが、明らかにその容貌は日本人のものとは違ったし、髪や目の色も常人とは全く違うものであり、その美貌も相まって人々からは珍奇な視線に晒され続けていた。子供の頃は孤児院育ちもあって小学校などではひどく浮いてしまっていつも孤独を覚えていた。中学校に上がると今度は思春期を迎えた男子たちに、その美貌故に群がられて嫌な思いを何度もした。士官学校に入ってもそれは変わらず、それどころか美作のような危険人物にさえ付き纏われる始末。彼女にとって仲がいいのは同じ施設の仲間たちくらいだった。だから祢々は自分の人生を恵まれないものだと何処か呪うようなところがあった。
「うん。そうだね。新と会えて毎日が楽しかったよ…。ねぇラエーニャ…でもねあたしは…役立たずなんだよ…アラタの足を引っ張ってばかり…貰ってばかり…」
「別に気にする必要はないと思いますよ。あなたは女です。新さんは気前のいい男です。彼が与えるもので生きる。それに何の不満があるのですか?」
ラエーニャは優し気に微笑む。まるで母親のように。だけどその笑みに祢々は空虚さを感じた。
「ラエーニャ…。あたしは貰ってばかりの卑しい女の子にはなりたくないよ。アラタに何かを返したいんだ。いっぱいいっぱいアラタから貰っちゃった。だからね何かを返したいんだ」
「では彼に抱かれればいいのでは?」
「…ラエーニャ…?…そんなこと…」
思わず言葉に詰まってしまった。クラーロヴァー少将が言っていたことは本当だった。
「あなたは美しい。どんな男でさえも魅了する愛らしさがある。あなたの肉体にはどんな男の心でさえも癒し、その野望を昂らせる力がある。新さんに抱かれなさい」
「ラエーニャ。あたしって体だけの女の子なの?」
「祢々。あなたは彼に発情してる。ならばその行為には何ら後ろめたいことなんてない。彼と褥を共にし、愛されなさい。想像くらいはしたんじゃないですか?」
年頃の女としてそういった想像をしたことがなかったわけではない。最近は新とそういう行為に及ぶ想像をしてしまう夜もあった。
「ねぇ!ねぇラエーニャ!?あたしって体にしか価値がないの?!」
男が女の体を求めることはよく知っている。多くの男たちが祢々のことをそういった目で見てきたのだから。愛する人には求められたい。だけど同時にそれだけではいやだと思う自分がいるのだ。好きな人の為に何かをしたいという気持ちは膨らむばかりだった。
「祢々?もしかしてあなたは体以外の価値を求めてるのですか?新さんの為に体を捧げる以外の貢献がしたいと思っているのですか?」
「思ってるよ!いつだって思ってる!アラタのことが好きだから!だからね!アラタの為に色々なことをしてあげたくって」
「それは貴女の仕事ではありませんよ祢々。それは…そうですね…ええ…おこがましいことですね…とてもね」
ラエーニャは冷たい声でそういった。優雅な笑みを讃えたままなのに、その目は何処か鋭く細められて祢々を睨んでいるようにさえ見えた。
「祢々。あなたは勘違いしている。彼に何かを
「ラエーニャ?ねぇ。ラエーニャ。あたしはいつもアラタの隣にいるよ。学校でもダンジョンでも」
「隣?あれが隣にいる?あなたは彼の道具です。隣には立っていません」
「あたしが道具…?」
「ええ、ですが誇りに思いなさい。彼に使われることは栄誉なのですよ。多くの女たちが彼の傍に仕えたいと望んでもその願いは叶わなかった。なのにあなたは彼に仕えている。そして今のあなたは彼の傍にいるから幸せでしょう?違いますか?…違うとは言わせない」
それは有無を言わせぬ迫力があった。
「祢々。いい加減くだらない考えに囚われるのはやめなさい。あなたは女です。そして彼は男。新さんはあなたに惜しみなくすべてを与えてくれる素晴らしい男です。あなたは股を開いてそれを受け取っていればいいのです。それで身も心も満たされる。あなたは新さんの与えるものだけで生きていればいい。それで何の憂いも不足ないのだから…それ以上望むのは反逆にも等しい思い上がりです。彼に与える?あのお方に何かを与える?…違う。私たちにできるのは捧げることだけです。与えるのではない。捧げるのですよ」
「…ラエーニャ。アラタはすごい男の子だけど…でもそれは変だよ…アラタは別にあたしやラエーニャの上にいるわけじゃ」
「上です。彼は上ですよ祢々。すべてのサブジェクトの上に立つのが彼です。故に対等などありえない。彼の隣に立つ者など誰一人としていやしないのだから…!」
ラエーニャの瞳には何処か陶酔にも似た甘い熱が宿っているように見えた。それは恋に浮かれる乙女のようにも見えるのに、何処か狂気のような暗い影も揺れているように見えた。
「祢々。私は彼の隣に立とうとする者を認めませんよ。それは彼の権威に傷をつける蛮行です。その罪は決して許されないものでなければいけない。私は容赦なくその罪を裁きます。たとえあなたであってもね…!」
「ラエーニャはアラタが好きなんでしょ?なのにどうして隣がいいって思わないの?」
「私の愛はあなたのような肉欲を伴ったものではないからですよ。私の愛は汚らわしい獣の心ではなく、清らかなる魂のみが齎すのです…そうですね。あれをごらんなさい」
ラエーニャはバルコニーの下のプールを指さす。そこには多くの水着姿の男女がいて踊り狂っていた。そして新と水着を着た金髪の女が話しているのが見えた。
「アラタ?あの人はもしかしてウォーロード?」
金髪の女は新に寄りかかる。その甘い光景に祢々は羨望を感じてしまう。だがよく見てみると金髪の女は祢々たちの方を見上げていた。その視線ははっきりとラエーニャを捉えていた。
「祢々。あの女がいい例ですよ。勘違い甚だしい女。どうも女には悪癖があっていけない。あなたも気をつけた方がいい。女は自分と寝た男を自分の物だと錯覚するような悪癖がある。男の権力、財産、武力、そして何より権威を自分の物だと思い込むような悪癖がね。それが高じると隣に立てるなどと宣い始める。馬鹿馬鹿しい!与えられたものに満足できずに、さらに求める事こそが何よりも卑しいことです!」
そして新と金髪の女はプールに落ちる音が聞こえた。水底の二人の姿が重なって見えた。祢々の目には二人の唇が重なっているのがはっきり見えた。
「…求めたから…あんな素敵なキスできるのかな…?」
ラエーニャにも聞こえないくらい小さな声で祢々はそう呟いた。嫉妬の気持ち以上に2人のキスの美しさに、祢々は憧憬の念を覚えたのだ。
「相変わらずあの子はくだらないことをしますね。派手好みで外連味ばかりを好む。あれで私を挑発しているつもりのようですね。くだらない。肉体が触れ合うことよりも、魂を震わせ合う方がよほど素晴らしいというのに…まったく…」
心底侮蔑的な瞳でプールにいる金髪の女を見下ろしているラエーニャの姿に、祢々はどこか憐みのようなものを覚えてしまった。ラエーニャはキスしていることに対してどんな感情も覚えていない。嫉妬も羨望もない。大好きな新が他の女と触れ合ってもラエーニャは気にもしていない。寂しい女。きっと愛の形を間違えている可哀そうな女。そう思った。
「祢々。私はあなたに新さんの御傍に居ることを望みます。努々尽くすことをお忘れなく。ですが尽くせば必ずその忠義に寵愛でもって応えてくれるのが新さんです。彼のことを信じなさい。いいですね?」
「…うん。…あたしは…アラタの事は信じてみるよ…。もう好きな気持ちはどうせ止まらないから…」
祢々のその返答に満足したのかラエーニャはにっこりと笑う。
「では明日の学年全体演習には期待してます。新さんにちゃんとすべてを捧げてくださいね。それはとてもとても素晴らしい充足と快楽をあなたに齎すはずですからね」
ラエーニャはグラスを手に取り、どこかうっとりとそう言った。その言葉に祢々はどこか嫌な予感だけを覚えてしまったのだった。
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