“あ”から始まる物語

メンタル弱男

“あ”から始まる物語


『“あ”から始まる物語』っと、、、。

 あれ?俺はこの後に何を書こうとしてたんだっけ?頭が真っ白になってしまった。自動ロックという名前だったか、催促する様にスマホの画面が暗くなる。『何だよ』と言いながらスマホをベッドへ投げつけた。


 足を止めれば後退する、とは誰の言葉か知らないが、今の俺には全てにおいて当てはまると思う。仕事に役立つ自己啓発類や、資格などの勉強だけでなく、趣味で始めたギターや料理もそうだ。全てが後退し始めている。そして今書いている小説も同じだ。


 赤色のスマホ。鈍く輝く赤色のスマホ。本文に『あ』と一文字書かれたままのディスプレイが眩しい。俺自身の手でさっき投げつけたにも関わらず、ものの数分もしないうちに、また俺の手に戻っている。いや、この表現は確実に間違いで、正しくはスマホのもとに俺が戻っている。スマホでニュースを見る。動画を見る。ゲームをする。動画を見る。ゲームをする。ネットサーフィンする。動画を見る、、、、、、。


 明らかに俺は、、、。そう絶対に認めたくはなかったのだが、不甲斐ない俺はまさに、『スマホのペット』なのだなと、我ながら情けない気分になった。でも『ペット』という言葉は綺麗な表現で、仲良しであったり家族であったり前向きな印象を与えるから、随分と自分の状況を良い方へ見積もってしまっているかもしれない。おそらく、従順なしもべといったところだな。


 あと何年もの間、この小さな電子機器に仕えなければならないのだろうか。この小さな画面を見ながら巧みに指を動かす事に、一体どれくらいの時間を割かなければならないのだろう。もちろんこれは俺の心の弱さの問題なのだが、すぐにスマホを見てしまうという事こそが俺にとって諸悪の根源だと言えると思う。


 あぁ、、、で、結局俺は『"あ”から始まる物語』と題して、どのような展開の話を書こうとしていたのか。未だに思い出せない。本当はじっくり考えなければならないのに、それでも俺の指はYouTubeへとまっしぐらだ。


『明日の朝は晴れますが、午後からはオヤジが降ってくるでしょう。』

『ほうほう。それは何色のオヤジですか?』

『緑色です。人工芝のような艶があります。』

『気持ち悪ぅ。』


 頭を狂わせる、なんちゅう刺激的な動画を俺は見ているんだ。全身緑色の、裸のオヤジが空からたくさん降りてくる謎の映像を見ながら、何を熱心に考えているのか。過ぎていく時間が惜しいような感覚を横目に、よく分からない動画の不思議な光景に感心してしまっている。


『あとは粉チーズを満遍なく緑のオヤジにふりかけて完成ですー。』やはりこの動画を作った人はとんでもない馬鹿なのだと思う。ただ馬鹿と天才は紙一重というから、見方を変えればどうなのだろう、、、。とりあえず、この作者は俺が仕える多くの主人のうちの一人であり、そんな俺と同じように多くの人をスマホ依存へと導いている事は間違いない。


 頭の中にこびりついていくスマホに対する満足感は、やがて安心感へと変わり、ついには依存を始める。生活の一部だったものが、人生の中核をなすものへと躍り出る。もちろんマイナス面だけではない。しかし、多くの時間が蝕まれている。これは確実に悪循環なのだろうが、やはりそう言いながらも俺の手の中にはスマホ。食事をしていても右手に箸、左手にスマホ。もうこの電子機器からは逃れられない。


 ある有名な画家はこう言った。『依存の本質は虚無であり、また生への渇望である。』彼は極度のアルコール依存に悩まされながらも毎日キャンバスに向かい、見る者が理解出来るか出来ないかの際どい表現で、新たな価値を創り出した。だが、彼は決してアルコールに関して諦めなかった。絵に対して本当の自分自身を反映させたいと願った。晩年は依存症を克服し、『ようやく書きたいと思えるものが書けた』と、集大成的連作を発表した。その作品を神戸の美術館で見た時、俺は自然と涙を流したものだ。まさにその作品の名が『“あ”から始まる物語』だった。“あ”から“ん”まで、一作品ずつ街の情景が描かれている。しかし表現は独特で、それぞれにメッセージ性がある。そしてその絵を見ていると、どことなく郷愁を覚える。こんなにも幸せな時間は今までになかった。俺はこれを小説で書こうと思い立ったのだ。。。


『あまりにも技術が足りなかった、、、』こう赤いスマホで打ち込むのは、誰に向けたメッセージなのか。結局俺は“あ”から躓いて、その後何も思い浮かばない。“ん”などまだ到底辿り着かない、夢のまた夢だ。それはきっと俺がまだスマホの依存から抜け出せていないからなのかもしれない。。。


 朝になってしまった。俺は一晩中、花粉症でしょぼくれた目を必死に開けて、スマホと向かい合っていた。ただ『これは小説を書くためだ』と言い訳しておこう。しかし時々挟む動画休憩は少しずつ控えていかなければならないかもしれないな。。。


 あぁ俺の『“あ”から始まる物語』の本当の始まりはまだまだ先になりそうだ。

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