春夢

増田朋美

春夢

春夢

もうすぐ桜が咲く季節になってきた。杉ちゃんの住んでいる静岡県富士市も春らしくなってきて、もうそろそろ、羽織なしで外へ出られるかなという言葉があちらこちらで聞こえてくる時期だった。

そんななか、その日はとてもよく晴れていて、雨とは無縁と言えそうな天気だった。其れでも春には、晴れていてもよくあるものがある。春には、春風というか突風が多い。その日も、晴れてはいたけれど、春らしく荒れた天気で、春の嵐と言えそうなほど、突風が吹き荒れていた。

杉ちゃんと蘭は、いつも通りテーブルを囲んでお昼を食べていた。突然、家の外で、ガラガラ、どしーんという音がしたので二人はびっくりする。

「な、何だ。なにがあったんだ?」

杉ちゃんと蘭は顔を見合わせた。

とにかく風が吹いて、何かあったことだけは間違いない。

「でも、こんな風で車いすをひっくり返されたらたまったもんじゃない。風が止むのを待とう。」

蘭がそういったため、しばらく部屋の中にいることにした。幸い突風は長続きせず、数分したら静かになった。

「おい、静かになったぞ。外で何が在ったか、見てみよう。」

杉ちゃんが言ったので、二人はそとへでてみることにした。玄関から外へ出てみると、蘭の家の外に設置していた、物干しざおが倒れ、洗濯ものが散乱していた。其れを起き上らせるということが必要なのであるが、車いすの杉ちゃんも、蘭もそれはできなかった。

「いやだなあ。さっきの突風で、洗濯ものがぶっ倒れちゃったよ。いい迷惑だぜ。」

杉ちゃんがそういうが、蘭はどうしようかと考えていた。自分たちではどうしてもできないことであるからである。

「誰か、何でも屋にでも頼むか。こういう時には、役にたつってもんだぜ。よし、電話をかけるかな。」

と、杉ちゃんは言った。杉ちゃん電話かけるって、数字も碌に読めないのにどうするんだよと蘭は言いかけるが、

「そいつを呼び出すにはこの番号にかけると良いんだってさ。そいつを呼びだして手伝ってもらおう。」

杉ちゃんは、スマートフォンを出した。最近の杉ちゃんは文字というものを読むことはできないが、記号を追ってスマートフォンを操作することはできるようになっている。なので、その人の番号を導き出すことには成功した。

「蘭さ、悪いけど、この番号にかけてみてくれないか?」

杉ちゃんに言われて蘭は、その番号を見た。其れは一般的なスマートフォンの番号であるのだが、蘭はどうしてこんな高名な人に杉ちゃんが接触できたのか、びっくりしてしまう。番号は、犬養梢と書いてある。確か犬養梢さんの著書が、市立図書館にもあったはず。そんな洗濯物を何とかしてほしいという下世話なことで、犬養さんを呼び出してしまうのか?

「何をもったいぶっているんだ。早く呼び出してくれよ。」

杉ちゃんがそういうので、蘭は仕方なく、発信ボタンを押した。そして、杉ちゃんにスマートフォンを渡した。

「あ、もしもし、犬養さん?ちょっとさ、蘭の家で倒れてしまった洗濯物を起してくれないかな?ああ、そうなんだよ。先ほどの嵐みたいな突風でさ。きれいに倒れちまった。おう、よろしく頼むぜ。」

杉ちゃんよくそういうことを言えるなあと、蘭はため息をついた。杉ちゃんという人は、時々そういう高名な人と、簡単に友達になってしまうものである。全く悪びれた様子もなく、なんでそういう態度が取れるのか、不思議な気持ちになってしまう蘭だった。

「近くにいるから、すぐ、来てくれるってさ。良かったな。こういう時は、分別しないで、誰かに手を借りるってのも、悪いことじゃないよねえ。」

そういうことを言っている杉ちゃんに、蘭は、そのお礼をしなければならないということを知っていたから、それを具体的にどうしようか、それを考えていたのであった。

数分後、犬養梢さんの車がやってきた。とりあえず、車をとめて、犬養さんは杉ちゃんたちのほうへやってくる。

「杉ちゃんこんにちは。今日は一体どうしたの?」

そういう口調からも、犬養さんは杉ちゃんとかなり親しい間柄なのだろうか。

「おう、よろしく頼むよ。じゃあ、そこにある、物干しざおを起してもらえないだろうか。僕たちは、このような姿なので、出来ないからさ。」

と、杉ちゃんは言った。

「はい、わかりました。少しお待ちください。」

と、犬養さんは、倒れた物干しざおについていた洗濯物を外して、物干しざおを起してくれた。

「どうもありがとうございます。おかげで助かりました。」

杉ちゃんがにこやかに笑ってそういうことを言うと、

「いいえ、私はただ、出来ることをやっただけです。杉ちゃんたちだって、出来ることもあればできない事もあるはずですから、それでいいことにしましょう。できないことは、出来る人が手伝えばそれでいいじゃないですか。すくなくとも、私は、そう考えています。」

と、犬養さんは言った。

「そうですか。本まで出されている高名なあなたが、僕たちみたいな人間の手伝いをしてくれるなんて思いもしませんでした。あの、お礼ですが、これでよろしいでしょうか?」

蘭は、犬養さんにお礼の五千円札を渡そうと思ったが、

「いえ、結構ですよ。そんなお金なんていりません。お金を払うのは、何か具体的なセッションをやったときです。今回は、そういうことではないんですから、御礼をおだしする必要はありませんよ。」

と、彼女に言われて、はあそうですかとだけしか言えなかった。

「まあいいや。本当に今日はありがとうございました。まあ、地球は生き物ですから、こういう突風が吹くこともありますよね。そういうことでも、分別しないで、なんでもやっていけたらいいよね。」

杉ちゃんはにこやかに笑って彼女に礼を言った。

「じゃあ私、これで戻りますね。二時から、クライエントさんのお宅に行かなければならないんです。」

蘭が時計を見ると一時五分を指していた。

「ああ、すみません。くだらない用事で、時間をとらせてしまって。」

「いいんですよ。そういう用事に分別をつけるなと教えてくれたのは、杉ちゃんじゃないですか。用事には、身分も順位も何もありませんよ。私も、それを教えてもらって、やっと楽になったんです。」

犬養さんは、そんなことを言って、車に乗り込んだ。

「じゃあ、また来てね。何かあったら、直ぐに呼び出すからね。よろしくお願いします。」

「はい。よろしくお願いします。」

と、杉ちゃんに言われて、犬養さんは、軽く一礼し、車のエンジンをかけて、その場を去っていった。

「杉ちゃん、一体君はどうしてそう、偉い人というか、そういうひとと仲良くなれるんだ?あの人は、本まで出しているすごい人だよ。」

蘭は思わず、頭の中に思っていることを、急いで口にしたが、

「いやあ、ただ製鉄所にラスプーチンが来て、彼女を一緒に連れてきただけの事だ。犬養さんはラスプーチンと同級生だったらしい。」

と、杉ちゃんは飾ることなく答える。

「そうなんだね。小杉道子先生の知り合いじゃ、そういう偉い人と知り合いになれるかもしれないよね。」

蘭は、はあとため息をついた。

「そんなに違いすぎる人でもないよ。ただ彼女はただの女性。それくらい考えておけばそれでいいんだ。どんなことをしたかなんて、気にしなくていいんだよ。ただ、手伝ってくれたんだからそれでいいじゃないか。さて、戻ろうか。」

と、杉ちゃんはあーあ、と伸びをして、部屋の中に戻っていった。蘭は、まあ、誰がしてくれようと、洗濯ものを戻してくれたんだから、それでいいにするかとだけ考え直して、部屋に戻った。

その数日後の事である。蘭は、ある女性の施術をすることになった。まだ、30代前半の若い女性だった。蘭から見たら、そのくらいの年代は、まだまだ子供だと思う。でも、彼女は、もう生きていたくないという、達観したような顔をしている。

「えーと、芦澤さんですね。初めまして。刺青師の彫たつと申します。」

と蘭は、頭を下げて、そう挨拶した。

「初めまして。芦澤香織です。」

と、彼女も挨拶をした。蘭は、洋服から透けて見える、彼女の右手についたおびただしいリストカットの痕を見た。彼女のお願いというのは、たぶんこの傷跡を消してくれというものだろう。そういう事で、刺青をお願いしてくる人は、年々増えているが、彫る側にとっては、傷だらけの皮膚に色素を入れなければいけないので、結構ハードルが高くなる。

「芦澤香織さんですね。ありがとうございます。今日は、どんなことで僕のところに来たんですか?」

と、蘭は彼女に聞いた。

「ええ、もちろん、彫師の先生に会いに来たわけですから、刺青をお願いしたいというわけです。」

「どこにですか?」

蘭が聞くと彼女は予想した通り右手首をめくった。

「この傷跡を、刺青で消していただけないでしょうか。過去に合った自分とどうしても決別というか、新しい自分になりたいのです。」

よくあるパターンである。傷跡を消すなら美容整形に行けばよいとか、植皮すればよいという人も少なくないだろうが、いずれも高額な費用が掛かることから、蘭のような人が必要になるのだ。

「ああ、わかりました。何か彫りたい絵柄とか、そういうものはありますか?刺青というものは一生消えませんから、それは入念に聞いておかないと、いけないんです。後悔させてしまったら、僕は職務怠業だと思っています。」

蘭がそういうと、彼女は困った顔をした。

「私は、わかりません。日本の伝統的なものは何も知らないんです。日本の伝統的な吉祥文様とかそういうものも、私、何も知らないんです。」

「そうですか。それは困りますね。何か彫ってほしいものがあれば、ちゃんと意思表示していただかなければ困りますよ。それを言わないでただ、リストカット痕を消したいということでは、刺青を入れることはできませんから。ちゃんと、具体的に何を入れたいか、しっかり考えてから来てください。」

蘭はそういったが、彼女の顔を見て、不味いことを言ってしまったと考え直した。彼女は涙をこぼしているのだ。きっと、ほかの医療機関などにも頼んで、冷たく邪険に扱われたに違いない。蘭は、そういう事を繰り返させてはならないとおもった。

「ええ、わからなくなっても仕方ないと思いますが、刺青というのは一生残るものですから、彫る側としては、ちゃんと本人に選んでいただきたいんですね。軽い気持ちで入れるということはしてほしくありません。だって、そうじゃありませんか。刺青をすれば、刺青を入れる前の自分には戻れないんですよ。」

「そうですか。でも、私、日本の伝統的な模様とか、そういうことをまったく知らないんです。」

と、答える彼女。せめて、日本の伝統柄辞典とか、そういうもので調べてくれてから、ここにきてほしいなと思った蘭であるが、彼女にはそんな余裕はなさそうだった。

「あなたは、どうして刺青をしようと思ったんですか?」

と蘭は彼女に聞いてみる。

「ええ。私、長らく家に引きこもっていたんですが、来月からスーパーマーケットで働くことになりました。ほんの小さな一歩ですが、出かけることすらできなかった私が、こうして社会に出られることは、本当に記念碑的な進歩なので、それで、今までの自分と決別しようと思って。それで、今までのリストカットの痕を消して、新しい私になりたいと思ったんですよ。私、過去を引きずらないようにするためにするにはどうしたらいいのか聞いたところ、外見を劇的に変える事が手っ取り早いと言われた事がありまして。それなら、刺青を彫ってもらうのが一番だなと。」

と、語る彼女に、蘭はそうなんだよなと思った。できることなら、過去に縛られないで、生き抜いてほしいと蘭は思う。

「ええ、その理屈はわかります。でもあなたは、何を彫りたいかというところで口をつぐんでしまう。もちろん、あなたは外見を劇的に変えたいということはわかりますよ。確かに、髪形を変えるとか、服装を変えたるよりも、さらに大きく自分を変えることになるのもわかります。でもですね、何を入れたいかは、あなたが決めていただかなければ。僕が指示を出しても、その通りに人生が動くことは多分ないでしょうからね。其れは守ってもらいたいんですよ。」

「そうですか。いつまでに、何を彫るか決めたらいいのでしょうか。私、何を入れたらいいか、本当にわからないんです。先生は、日本の伝統的な刺青を専門にしているのですか?」

と、彼女は申し訳なさそうに聞いた。

「自分を責めるのではなく、僕に聞くのでもなく、あなたが決めてほしいんです。まあ確かに、僕は手彫りしかできないけど、それよりも、何を彫るのかが問題なので。」

蘭は、彼女を後押しするつもりで、そういうことを言った。

「すみません、、、。私、本当に意思の弱い女ですよね。こんな大事なことも自分で決められないなんて、なんて変な人だろうと先生も思っていますよね。」

そういう彼女に、蘭は、自分への悪評価だけは、直ぐに言えるんだなとおもった。そういうところは本当に今時の女性だ。自分の意思は自分で決められず、自分への悪い評価だけは、極端なくらいまで言うのである。

「そういうことよりも、あなたが何を彫りたいか、ですよ。あなたの事を意思が弱いとか、変な人とか、そういうジャッジは僕はしません。其れよりも大事なことが在るはずでしょうが。」

蘭はそういうのであるが、彼女はどうしても彫るものが決められなさそうだった。蘭は、彼女のそういう態度を見て、彼女がそうすることによって、自分の弱いところを見せないようにしているという気持ちなのではないかと思った。

そうこうしている間に、12時の鐘が鳴った。

「まだ、お決まりになりませんか?」

蘭はもうお昼の支度をしなければならないなと思いながら、彼女に言った。

「ええ、先生、申し訳ありません。私、直ぐに決断できなくて、やっぱり駄目な人間ですよね。」

と、申し訳なさそうに言う彼女に、蘭は、彼女がどんな教育を受けてきたのかわかるような気がした。おそらく大きな障壁はなく、上級機関に進めたはずだ。でも、自分の意思はことごとく表現せず、周りの誰かに流されてすべてのことを決め、そして、自分への評価は、ダメだとか、弱いとか、そういう悪いことばかり覚えているだけである。今時の若い女性に非常に多い傾向だ。でも、蘭は彼女がリストカットに苦しんでいるということを、一つのチャンスなのかもしれないとおもった。そういう風に症状として表れてくれれば、彼女は自分で決定することを早く体験することができるかもしれない。蘭は、そういう風に、彼女を持っていくことに決めた。

「じゃあですね。次にここへ来るまでに、日本の伝統的な柄を調べて、良い柄だと思った柄を、ノートにまとめてみて下さい。」

蘭は彼女にそう指示を出した。彼女のような人は指示をすれば確実に持ってこられることも知っている。

「わかりました。必ずやってみます。予約は、来週の今日でいいでしょうか。私、しっかり調べてきます。」

そういう彼女に、蘭はじゃあその日に予約をしますと言った。とりあえず今日は打ち合わせだけなので施術時間には入らないと言って、彼女からお金をとることはしなかった。そして彼女を玄関先まで連れていき、来週よろしくお願いしますと言って、彼女を送り出してあげた。

「ありがとうございました。先生から出された宿題、しっかりやってきますから。」

と言って、かえっていく彼女に、もう少し意思が強くなってくれればいいと思った。

「おーい蘭。買い物行こうぜ。今日は、お手伝いさんを頼んだよ。」

それと同時に、杉ちゃんの声が聞こえてきた。お手伝いさんって誰だろうと思ったら、例の犬養さんであった。杉ちゃんはなぜ犬養さんを連れてきたのだろう。犬養さんもなぜ、杉ちゃんの誘いに応じるのか、蘭は不思議であった。

「僕たちは、ショッピングモールに移動するのに、誰かの助けなしではいられないんだからな。まあ、お金払ってタクシーも悪くないが、こういうひとを使うのも、悪くないな。」

と、杉ちゃんが言うと、犬養さんが車を出しますよといった。蘭は、ありがとうございますと言って、犬養さんに手伝ってもらいながら、ワゴン車に乗せてもらった。杉ちゃんも一緒に乗せてもらった。

「じゃあ、駅近くのショッピングモールでよろしかったんですね?」

と、犬養さんが言うと、杉ちゃんはおう、その通りだと言った。犬養さんは、分かりましたと言って、車を動かし始めた。

「伊能さんは、お仕事は何をされているんですか?」

犬養さんが、蘭にそう聞いてきた。蘭は、思わず返答に困ってしまった。こういう仕事をしている人は、倫理観がやたら強くて、刺青というものに偏見がある人も少なからずいるからである。

「ああ、蘭は刺青師だ。」

杉ちゃんが代わりに応えた。

「でも、やーさんみたいな人を相手にするのではなく、悩んでいる人たちの体に刺青を入れることによって、解決するように導いている。」

「そうなんですか。今、リストカットとか、根性焼きの痕を消すために刺青を入れてくれと頼むことが多いみたいだけど、蘭さんも同じことをやっているんですか?」

彼女は蘭に言った。

「私、精神障害のある人のブログとか、SNSとかよく覗いているんですけど、時々そういう事をして貰っている人の記事を読ませてもらうこともあるんです。そうなると、依頼人さんたちの、重い話を聞くこともあるでしょう?」

犬養さんはそういうことを言うのである。

「まあそうですね。きっと彼女たちは、僕以外、話せる人がいないんだろうなと思うので、徹底的に聞いてやることにしています。ご存じの通り、刺青は激痛を伴いますから、その時に話す言葉に嘘はないと思います。」

蘭がそういうと、犬養さんは、

「そうなのね。あなたは私がしていることより、より実用的というか、現実を変えることができるという意味ですごいわね。」

といった。そういっている犬養さんの顔を見て、蘭は、彼女も悩んでいるのだろうなということを知った。もしかしたら、クライエントさんを変えてあげられないで、悩んでいるのかもしれない。蘭にとって、犬養梢という人は、雲の上の人というように見えたけど、もしかしたら、違うところにいるのかなと考え直した。

「今日も風が強いな。春風っていうのは、ほんと、嵐みたいに吹くよなあ。」

杉ちゃんは蘭を見てカラカラと笑った。


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春夢 増田朋美 @masubuchi4996

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