うっかり屋の処世術
ふうか
うっかり屋の処世術
親友の青春もとい日常はとっ散らかっていた。
聖水学院・女子寮の朝。
「七瀬ー! 早くしないと遅刻するぞー!」
「あ、はーい」
聞こえているのかいないのか生返事をする七瀬。プリント類や洋服で山積みになった机の上にある小さな鏡を見ながら丹念に前髪をチェックしている。
出発時間はとうに過ぎており、痺れを切らした私は、七瀬の腕を掴んで部屋から引っ張り出した。
「あっ! 凛ちゃ〜ん! 待ってよ〜!」
「もう待てません。遅刻したら落ち込むのは七瀬でしょ」
「そりゃそうだけど……」
言い返す言葉が見つからず、大人しく引きずられていく。七瀬は言えば分かる子だ。
ただし、自分で自分の管理をする事がちょっと苦手なのである。
寮を出て数分後。七瀬が叫んだ。
「あ〜! 美緒ちゃんに返す約束してた漫画、持って来るの忘れた!」
がっくり項垂れる七瀬。髪の毛で顔が全て見えない貞子状態になっている。側から見れば滑稽だろうが、かなり本気で落ち込んでいるのが私には分かった。
七瀬は、上の空でぼーっとしている事が多いし、うっかりミスが多く、忘れ物や遅刻、早とちりをよくする。
そんな彼女のうっかりを生み出しているのは、ADHDという発達障害だ。
「どうせ私はうっかり屋のダメ人間ですよ〜だ」
口を窄め、背中を丸くする姿に苦笑する。
「こらこら。そうやって自分を卑下しない。七瀬は頑張り屋のいい子だよ。自信持って」
「でも……今日もやらかしたし……」
ADHDの特徴は、集中しにくく忘れやすい「不注意」、多弁でじっとしていられず落ち着けない「多動性」、思いついた事をすぐに行動に移してしまう「衝動性」の三つである。言い換えれば、「自己コントロールが利きにくい障害」だ。
ADHDはAttention-Deficit Hyperactivity Disorderの略語で、日本名では「注意欠如・多動症」や「注意欠如・多動性障害」などと呼ばれている。
生まれつきの脳機能の偏りが原因で、環境や親の育て方によって発症するものではない。子どもの割合としては、全体の5~10%程度。男女比としては2対1。60~80%程度が、成人期のADHDに移行するんだとか。
「どうしよう……怒られる……嫌われる……」
切羽詰まった表情で頭を抱える。先程も言ったが、七瀬は早とちりをしがちで、思い込みが激しいところもある。感受性と想像力が豊かだからこそとも考えられるのだが。
「七瀬は今、美緒に対してどう思ってる?」
「え? ごめんなさいって思ってるけど……」
「じゃあその気持ちを正直に伝えればいいんだよ。持ってくる約束を忘れて申し訳ない。明日こそ持ってくるからって。事実を伝えれば、相手は納得してくれるよ」
このようにアドバイスをする時に気を付けているのは、曖昧な表現を使わない事。「ちゃんと」や「適当に」など、感覚的な表現は具体性がなくて混乱させるから避ける。数値化できる事は数量で示す(例:もう少し→何分までに)。
「分かった。やってみる」
両の拳をぎゅっと握りしめ、上を向く。素直で前向きな七瀬が私は大好きだ。
「あっ! あのさ、時間のある時でいいから、昨日の数学の解説お願いしてもいい?先生の説明、ちっとも頭に入ってこなくて……」
「もちオッケー。あの先生頭良すぎて、難解な説明が私達のレベルに合ってないよね」
「うんうん。一生懸命興味を持とうとするんだけど、どうしても耳から抜けていくんだよね~」
先生の言葉が頭に入ってこないのは、耳からの情報処理が苦手だから。音としては入ってきても、単語や文章として吸収して、頭の中で即座に整理や理解が出来ないのである。
また、興味の度合いも重要である。興味がある事に関しては人の何倍も活動的な七瀬だが、興味がない事に関しては、本当に全く興味がないのだ。これについてはADHDの有無に関係なく、共感できる人も多いのではないだろうか。
しかしながら、ADHDの症状は、誰にでも起こりうるものである。そのため、本人の努力不足や怠けだと誤解される事も多い。
実際にその誤解に七瀬は沢山苦しんできた。七瀬だけではなくご両親も「しつけがなっていない」と批判され、悲しい思いをした。
七瀬自身は、周りとのギャップやミスを埋めるために懸命に努力をしてきた。今はその上で私やご両親など特性を知る人達でフォローやサポートをしている。ほんの少し工夫するだけで生きやすくなるのだから。
「よし。じゃあ数学教える代わりに、帰ったら部屋の机の掃除ね~」
「え〜! 無理無理! できっこない!」
「放っておくと私のフロアまで浸食するから、その前に止めるの」
「でもでも!片づけ方分かんないし、またリバウンドしそうだし……」
「一緒にやってあげるから大丈夫! それに何度散らかっても、元に戻せばいいんだよ!」
「凛ちゃんが一緒なら何とか……うん……。頑張る」
部屋の状態と心の状態はイコールだと聞くけれど、本当に七瀬を見ているとつくづく実感する。七瀬の場合、心というより脳だろうか。脳の中のごちゃごちゃが、部屋の様子にも表れているように思える。
出した物をすぐに片づけずに先延ばしにしたり、片づけの最中に昔の思い出の品を見つけて懐かしさに浸ったりするからというありきたりな原因もあるが、何といっても何から手をつけてどこに仕舞えばいいか分からないからだ。物や行動の優先順位をつけるのが苦手という事である。
しかし、段取りや効率を考えるのが苦手なら、一緒に考えてあげればいい。道筋を提示してあげればいい。一人で抱え込む必要なんてないのだ。
そんな事を考えていると、七瀬が私の腕を掴み、顔を見合わせた。
「私、凛ちゃんが友達になってくれて本当に良かった!」
「え?」
思いもよらぬ告白に目を丸くする。
「なんか言いたくなってさ。凛ちゃんはいつも私を助けてくれるから。凛ちゃんがいなかったらできなかった事だらけで、どんどん自信を失くしてた。私が私を嫌いじゃなくなったのは、凛ちゃんのおかげだよ。本当にありがとう」
「七瀬……」
七瀬は衝動的に気持ちを伝える。怒りや悲しみなどのネガティブな感情をいきなりぶつけられる事も多く、八つ当たりのような流れに戸惑う事もあるけれど、こうして感謝や優しさを届けてくれる事も多いから、やはり魅力的な個性だと思う。
「こちらこそ、積極的に思いを伝えてくれてありがとう。これからもよろしくね」
そう感謝を返せば、白い歯を見せてくしゃっと笑った。
次の瞬間には、不注意で石に躓いて転んでしまったけれど。
今日もうっかりな親友の慌ただしい一日が始まる。
うっかり屋の処世術 ふうか @kokoro2021
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます