第8話
キリキリと引きつるような痛みにリッカはもそりと身じろいでぽよんぽよんのベッドの上で起き上がった。
こしこしと目を擦ると、なんだか痛む胃のあたりに両手を当てて首を傾げる。
こんなところが痛くなったことはない。
「なんだろ?」
こてりと首を傾げたときだ。
壮絶な吐き気が襲ってきて。
「う、うえっ……かはっごぼ」
キリと痛んだ胃の辺りを押さえたままリッカはベッドの上に、盛大に吐き戻した。
ひゅっひゅっと何度か胃液を吐いて、胃の痙攣が収まるまでシャツの腹部を握りしめ蹲る。
ようやく痛みと吐き気が遠のいたのでのろのろと顔を上げて、リッカはサーッと血の気が引いた。
そこには刺激臭のする胃液と夕食だった残骸が白い上等なシーツの上にぶちまけられている。
「ひえっ」
思わずお尻を後ずさりさせたときに自分の胸元に目がいき、そこにも吐しゃ物がこびりついている事に、ますますリッカは真っ青になった。
セルフィルトの服に粗相をしてしまった。
こんな立派な、高いであろう寝具にも。
ひゅっと息を吸い込むと、リッカは慌ててベッドから降りた。
これ以上ベッドを汚すわけにはいかない。
「ど、どうしよう、ど、しよう」
血の気が完全に失せて真っ白になった顔で、吐いたときに滲んだ涙がじわじわと瞳に膜を張っていく。
慌ててぎゅっと目を瞑ると、涙が押し出されて痩せこけている頬をころりと転がった。
今は深夜だ。
こんな時間にセルフィルトの元へ吐いてしまったことを報告に行くわけにもいかないし、かといってリッカ一人でシーツを取って洗面所へ行き洗う事は不可能だ。
どうしたらいいのかわからず、リッカは誰か来るのを待つしかないと思いびくびくとその場に膝を抱えて蹲った。
結局、そのままうとうとと寝入ってしまい朝方のおざなりなノックの音で目が覚めた。
慌てて顔を上げると、返事をしてもいないのに扉が開けられる。
「あんた……」
そこにはルクルが洗顔などに使うのであろうボウルなどが乗っているワゴンを押して入ってきた。
リッカを認めるやいなやきつい眼差しが向けられて、慌てて立ち上がる。
するとルクルはリッカのシャツの惨状を見て眉間に皺を寄せた。
ついでベッドに移した目が昨夜吐いた吐しゃ物の残骸を見つけ、きりきりと眉が吊り上がる。
「なんてことしでかしてくれたんだい!」
「ご、ごめ、んなさ、い」
ぴしゃりと厳しい声音を突きつけられて、リッカはシャツをぎゅっと握って肩を寄せた。
「どれだけ上等なシーツだと思ってるんだい。ああ、やだやだ。こんな汚らしいものを私に片付けろっていうのかい?」
「あ、あの、ぼく、じ、じぶんで……」
真っ青になり震えるリッカが必死で喉から声をしぼり出したときだ。
「リッカおはよう」
タグヤを連れてセルフィルトが部屋へと入ってきた。
「だ、だんな、さま」
慌ててルクルがすました顔で静かに頭を下げる。
リッカは真っ青な顔で、セルフィルトが近づいてくるのを視線をさまよわせてぷるぷると震えた。
「吐いたのか」
ちらりとベッドを一瞥したセルフィルトに、リッカは恐る恐るこくりと頷いた。
「ご、めんな、さ」
震える喉から絞り出した謝罪は、怒られるという恐怖で小さく部屋に落ちた。
セルフィルトがどんな顔をしているのか見れなくて、リッカは涙目になりながら自分の棒きれのような足を見つめてますますシャツを握る手に力を込めた。
はあーっと落ちてきた溜息に、びくりと肩がすくむ。
「失敗したな」
続いた言葉に、さらにびくびくと肩が跳ねた。
いつ拳が降ってきてもいいようにぎゅっと目を閉じたが。
「……え?」
ふわりと頭に乗せられた手のひらの感触に、リッカは驚いておそるおそる顔を上げた。
見上げたセルフィルトは特に眉を吊り上げる様子もなくタグヤに視線を向けている。
「胃が受け付けなかったようですな。まともな物を食べていなかったのではないでしょうか?」
「そうなのか?」
タグヤの言葉にセルフィルトがリッカに視線をやる。
そのビー玉みたいな瞳にも、蔑んだり怒りの表情はない。
おそるおそる、まともな食事なんてしたことないと頷けば。
「そうか、気づかなくて悪かったな」
髪をひと撫でされた。
「な、なぐら、ないの?」
おそるおそる伺ったが、セルフィルトは片眉を上げたあと、苦笑を浮かべた。
「殴らないよ、むしろ謝るのはこっちだ」
「今日からは重湯から始めましょう」
タグヤの言葉にセルフィルトが頷く。
二人とも怒っていない様子に、リッカは不思議そうにセルフィルトを見上げた。
サラサラになった肩までの髪が背中へと流れる。
「そんな不安そうな顔しなくていいって。ここはあそこと違うし、俺もあの店主とは違う」
「う、うん」
こくりと頷くと、よしジュアーに風呂に入れてもらえと言われ背中を部屋の外へと押される。
「片付けておくように」
タグヤの声に振り返ると、頭を下げたままのルクルがはいと頷いていた。
リッカが汚したものなのにいいのだろうかと思っていると、顔を上げたルクルとパチリと目が合う。
「ッ」
ギンと睨まれて、慌ててリッカは前に向き直ったら背後でバタンと扉が閉まった。
「あの、かたづけ……」
「メイドがするから大丈夫ですよ」
おずおずと口にすれば後ろからついてきているタグヤが穏やかに答える。
「お前はまず着替えて、それから朝食だ」
セルフィルトの言葉通りに前日と同じくリッカはジュアーに風呂場へと連れて行かれ入浴をすませて新しいシャツを着せられると、食堂へと連れて行かれた。
昨日と同じ場所に座れば、真っ白なマグカップがことりと置かれた。
ほかほかと湯気を上げる中身は真っ白なホットミルクだが、まるでケーキのような甘い匂いがする。
ひくひくと小さな鼻を動かしてうっとりしていると、セルフィルトがぷっと小さく笑った。
「バニラのフレーバーだ」
「栄養を取るためにこちらもお入れしましょうね」
近づいてきたタグヤが濃厚な黄金色に輝く蜜を、ゆっくりとマグカップに入れるとバニラの匂いと混ざった蜂蜜の優しい香りがますますリッカの鼻孔をくすぐった。
「ほら、冷めないうちに飲んじゃいな」
「う、うん。いただ、き、ます」
おそるおそる小さな手でマグカップを両手で持つと、滑らかなマグカップの縁に口をつけ一口飲む。
とたんに優しい甘さと温かさが口の中に広がった。
「ふ、わあ、おい、しい」
「はは、そりゃよかった」
もう一口、もう一口と少しずつ飲むリッカに、セルフィルトが火傷するなよと声をかけてくる。
それに頷きながらもリッカは夢中でホットミルクを喉へと流し込んだ。
「さて、いつまでも俺のシャツってのもな」
セルフィルトは朝食を済ませてしまっているのか、彼の手元にはティーカップしか置かれていない。
青いチューリップの描かれたティーカップを持ち上げて一口中身を飲むと、タグヤに視線を移した。
「キッケルを呼んでおけ」
「かしこまりました」
頷くタグヤに、ハッとリッカはマグカップをテーブルに戻して姿勢を正すと、おそるおそる口を開いた。
「あ、あの、ぼく、は、お仕事、なにすれ、ばいいの?」
昨日からお世話になりっぱなしだが、自分はセルフィルトに買われたのだから何か仕事があるはずだ。
こんなに良くしてもらっているのだから、精一杯頑張ろうとリッカはセルフィルトを見上げた。
「仕事ねえ、何が出来る?」
あまり乗り気でなさそうに聞くセルフィルトに、リッカはえっとえっとと指をひとつ折った。
「そうじ、とか」
「メイドの仕事だからなあ」
「え、えと、草取り、とか」
二つ目の指を折るが、庭師がいると答えられ、ならば他にはと考えてそれ以外自分が出来ることがないことに気付き、リッカははくはくと口を開閉させた。
その様子を見ながらセルフィルトがカップをソーサーへと戻す。
「別に何かやらせるつもりで買ったわけじゃないからさ」
「じゃあ、ど、どうし、て?」
こてりと首を傾げたら、真似するようにセルフィルトも首を傾げてみせた。
「気まぐれ、かな」
その答えに、じゃあますます何か役に立たなくてはとリッカは残りのホットミルクを喉に流し込んだ。
その真剣な口元にはミルクによる白いひげがついていた。
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