03▼翠玉
泉に近付くにつれて、辺りには微かな声が響いてくる。アクロンは楽しげな色を含んだ声の主の姿を確認すると、柔らかな調子でその人物の名前を呼んだ。
「キト」
「兄様!」
名前を呼ばれた少年は、兄の姿を見てぱっと表情を輝かせる。その顔にはまだあどけなさが残り、エメラルドグリーンの大きな瞳がそれを助長していた。水辺の切り株に腰掛けているその足回りには、まだ成体になりきっていない小さな白い犬がじゃれついている。
「早くから居たんだってな」
「はい、午後の剣術の稽古前に少し動きを確かめたくて」
そう言って子犬の頭を撫でるキトの傍らには、かなり使い込まれた事が見て取れる、大剣を模した模擬刀が立て掛けられていた。
どうやら、今は丁度休憩中だった様だ。
「兄様はどうして此処に?」
あまりにもじゃれついてくる白い毛玉を抱き上げながら、キトはアクロンに問い掛ける。
「ああ……ちょっと気分転換に」
「あっ、もしかしてまたあの夢ですか」
キトにまでぴったり言い当てられ、アクロンは思わず乾いた笑みを漏らした。キトの腕の中からじっと自分を見つめてくる子犬の鼻先をちょんとつついて、曖昧に返事をする。この洞察力にはいつも感心させられてばかりだ。
「ちょっと怖いですよね、そんなに頻繁に同じ内容ばかり見るなんて……何かあるんじゃないかって思っちゃいます。最近、魔物達が活発ですし……」
ねえタスカ、と抱いた犬の顔を覗き込みながら、キトは不安げに表情を曇らせる。しかし、次の瞬間には何かを思い出したかの様にあ、と口を開いた。
「そういえば、さっき空が光ったのってオーガスタさんですよね? 結界の強化をしたなら心配無しですね!」
アクロンが返事をする前に、キトは更に言葉を続ける。
「だからと言って油断は禁物、ですけど。今度ソルレイルに手を出したら遠慮無く叩き斬ってやりますよもう」
幼さを感じる顔立ちで勇ましい台詞を吐くキトに、アクロンは「そうだな」と返しながら帯刀していた護身用の短剣を抜いた。キトとタスカはそれに興味津々な眼差しを投げ掛ける。
「昼食まで俺と稽古するか」
「わあ、いいんですか?」
言うや否や、タスカを地面に下ろしたキトは模擬刀を手に立ち上がった。でも兄様強いからなあ、と呟きながらも、キトの表情はやる気に満ちている。
地面に下ろされたタスカは不服そうに唸ったが、キトに優しく頭を撫でられて機嫌を良くし、二人から少し離れた水際に寝そべった。
「……よし」
「お願いします!」
それぞれ武器を構えた兄弟が向かい合う。その視線が交わり、一瞬の間を置いて得物がぶつかる音が響いた。
「――また腕を上げたんじゃないか」
「そんな事言って、兄様手加減を……うう、お腹空いちゃいました」
太陽もほぼ真上に昇り、そろそろ昼食の時間だろうという所で稽古を切り上げる。
腹の虫が空腹感を訴えたキトは少し恥ずかしそうに胃の辺りをさすると、少し離れた場所でしゃがみ込みながら透き通る泉の水で軽く顔を洗うアクロンに向かって苦笑した。アクロンの背後では、枝を咥えたタスカが遊べと言わんばかりに尻尾を振っている。
「そろそろ城に戻るか」
アクロンはふっと微笑み、後ろで待機していたタスカの口から枝を取り上げた。そして城に抜ける小道に向け、腕を大きく振りかぶりそれを放り投げる。綺麗な弧を描いて飛んで行ったおもちゃに、タスカはつぶらな瞳をキラキラと輝かせながら一目散に駆け出す。兄弟は走り抜けて行った白い小さな犬の後を追い、小道へ踏み出した。
二人と一匹が城の正面に戻ると、丁度オーガスタが大温室を背に何かを考え込みながら歩いて来たところだった。
「……なあ」
オーガスタは二人を視界に捉えると僅かに眉を寄せ、低い声で問いを投げる。
「二人とも、守護の間に近付いたりしたか?」
守護の間――先程アクロンとオーガスタが訪れた、光に溢れた部屋の事だ。
「いや、お前と別れた後ずっとキトと森に居た」
「僕も、朝から今までずっと森に籠もりっ放しでしたよ?」
二人が否定すると、オーガスタは腕を組んで「そうか……」と表情を翳らせる。
「何かあったのか?」
「いや……少し気になっただけ」
そう言葉を濁したオーガスタに、キトはすかさず不服そうな声を漏らす。
「オーガスタさんのそういう勘、怖いくらい当たるじゃないですか」
確かに、とアクロンも頷く。
しかしオーガスタはそんな事無いと首を横に振って、訝しむ二人に先に食堂へ行くように促すと、城の裏手へと消えて行ってしまった。
――この違和感は何だろうか。
オーガスタは兄弟達と別れた後、足早に守護の間へ向かう。
具体的にどう、とは言えないのだが、どうにも心がざわめいて落ち着かない感覚があるのだ。
隠された扉の前まで来て、それを見上げながらゆっくりと息を吐く。金属錠にも、魔法錠にも特段変わった事は無い。だが、空気中に漂う魔素が、先程までとは違う雰囲気を纏っている。
(……何なんだ)
突風に煽られた森の木々がオーガスタを嘲笑う様にざあっと音を立て揺れる。冷たい風と其処に混じる魔素の澱に粟立った肩を擦りつつ、彼はその整った顔立ちに不安の色を宿して辺りを見回した。
扉に異常がある訳では無かったが、違和感は拭いきれないままだ。それに、己の周りを揺蕩う魔素に、何故か――何処か懐かしさを覚えるのは、一体どうしてなのだろうか。
再び強い風が吹いて、オーガスタは身震いする。そして念の為と魔法錠を一つ新たに重ねて、冷風と纏わり付く厭な“何か”から逃げるかの如く足早に城内へと向かった。
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