01▼朝


 夢を見た。

 ぽっかりと口を開けた闇に浮かぶ真紅の満月の下、血に塗れた自身の身体。

 その前に立ち塞がる、漆黒の大きな翼を広げた何者かの後ろ姿。

 自分はただ呆気に取られて、どうする事も出来ずにいる――。




 空は良く晴れていた。

 城の裏手を覆う深い森の木々は朝露に濡れ、葉の隙間から覗く泉は太陽の光を受けてきらきらと波打っている。何処からともなく聞こえてくる小鳥達の囀りが少し騒々しい。

 はあ、と深い溜め息を吐くと、彼は額に掛かる金の髪を軽く掻き上げながらゆっくりと身を起こした。

 幼い時分より幾度となく見続けてきたこの悪夢。その所為か、内容に疑問を抱く事はあっても、もう恐怖を感じる事はなくなっていた――筈だった。

 今日ばかりは背筋が粟立って仕方が無い。流れる冷や汗も引く気配を全く見せずに、ただ寝間着を湿らせるばかりだ。


(最悪な寝覚めだ)


 彼はしっとりと濡れた寝間着を煩わしそうに脱ぐと、サイドチェストに几帳面に畳んであったタオルを手に取る。そしてそのまま森を一望出来る窓辺に歩み寄り、小さな音を立てて硝子を開け放った。

 外には柔らかな陽射しが降り注ぎ、爽やかな風が青々と茂る葉を揺らしている。軽く頬を撫でる風を楽しみながら、後で森でも散策しようと、彼は――このソルレイル王国の王子であるアクロン・ウィントメルは、落ち着かない感情を紛らわす様に一つ深呼吸した。

 柔らかなタオルで身体を拭いながらしばらく外の景色を眺めれば、嫌な焦燥感も幾分か治まった様だ。

 アクロンはベッド際まで戻ると、昨夜の内に壁に掛けてあった白の詰襟に袖を通した。ソルレイル王室は、代々“自分の身の回りの事はなるべく自分で済ませる”という主義を掲げている。なので、王子とは言え――衣服やタオルの用意等は使用人がしていても――朝の身支度から夜の就寝時まで、侍従や使用人が付きっきりで世話をするという事は少ない。

 アクロンは開けた窓をそのままに、この後の予定をぼんやりと頭に浮かべながら寝室を後にした。



 全ての身支度を終え洗面室の扉を後ろ手に閉めた丁度その時、視界の端、赤絨毯の敷かれた長い廊下の奥から人が歩いて来るのが目に入った。すらりとした長身のその人物は大量の書類を抱え難しい顔でそれに視線を落としていたが、ふとアクロンの姿を確認すると人好きのする笑顔を浮かべて足早にその隣へ並んだ。


「おはようございます、兄上。……今日は一段と書類が多いんですね」


 その人物が隣に並んだと同時に、アクロンは軽く一礼する。


「おはよう、アクロン。最近、魔物による被害があちらこちらで増加しているだろう? それの対策や支援、軍の派遣なんかで色々あってね」


 アクロンは何の気無しに、やや疲れた様子の兄の腕に抱えられた紙の束に視線を落としてみる。そこには小難しい単語ばかりがずらりと連なっていて、文字の細かさと相まったその情報量の多さに一瞬の眩暈を覚えた。書類の一番下には、達筆な字で“セシル・ウィントメル”とサインされている。それが兄の名前だ。


「すみません、兄上にばかり書類仕事を任せてしまって……」

「いや、私に出来る事と言ったらこれ位しかないからね。残念ながらお前やキトの様には剣を扱えないし」


 キトとは末の弟の事だ。

 アクロンはそんな事はないと食い下がろうと口を開いたが、兄の「それよりも」という言葉で遮られた。


「……少し顔色が悪い様だけれど……またあの夢を?」


 肩に掛かる金髪を揺らしながら、セシルは優しげな顔に心配の色を浮かべてアクロンの顔を覗き込む。実際はそういうセシルの方が顔色が優れないのだが、これはあまり身体が丈夫ではない彼にとってはいつもの事だ。


「ええ……近頃その夢を見る事も増えてきていて……でも大丈夫です」


 心配には及ばない旨を伝えれば、セシルは安心した様な微笑を零す。そして書類を抱え直すと、先程から食欲をそそる香りを漂わせている食堂へとアクロンを促した。




「近年の魔物被害は酷く目に余る。つい先日も、友好国が深刻な被害を受けた。守りを徹底しているとは言え、我が国ソルレイルも全く被害が無い訳ではなく予断を許さない状況だ……」


 麗しい王宮の朝の食事時の会話――と呼ぶにはまるで似つかわしくない、国王の口から発せられたその言葉。平時から厳めしい表情をした彼の顔は、何時にも増して険しさを感じさせる。

 食事が始まってから今まで、話の内容は魔物に関する事柄で占められていた。普段争い事等を好まない王妃も、今日は積極的に国王と言葉を交わす。


「あの国への支援の話はどうなっていらして?」

「母上、その件は私から――」


 セシルも例外ではなく、先程まで纏めていた書類の内容をすらすらと口にする。アクロンはしばしば自分に振られる会話に応じながら、世界を脅かすその存在について思考を巡らせた。


 魔物。

 ひとえに魔物と言っても只の総称で、それは実に幅広い種族を有している。獣の姿をしたもの、異形のもの、影の様に朧気なもの、ヒトとなんら区別のつかぬもの――挙げればキリがない。それ故にそれぞれが持つ生態や弱点、能力も多様で、そう簡単に駆逐も出来ないのが現状だ。

 無論、人間に友好的な種も居るが、それ以上に悪意を持つ魔物が世界に跋扈している。

 中でも、特にヒトと見分けるのが困難な“吸血鬼”や“人狼”は、その数こそ多くないと言われているものの、身体能力や知能、魔力の高さから殊更脅威的で、今まで討伐に赴いた者はその殆どが残忍な爪牙の餌食となっている。

 アクロンは剣の腕の優秀さ故に今までに何度も魔物の討伐に出た事がある分、奴らの恐ろしさは充分理解しているつもりだ。


「兵の増員と結界の強化を急がねばならんな」


 アクロンは紅茶を嚥下すると、丁度一息吐いた国王に切り出す。


「結界の強化といえば、彼は何処に?」

「ああ、彼なら地下に降りている。もしこの後顔を合わせるなら、結界の事を伝えておいてくれ」


 国王は深い青色の瞳をアクロンに向け少し和らいだ笑みを浮かべる。アクロンは小さく頷いて、残りの紅茶を飲み干した。




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