二 蛇躰になった娘
「おやめください」
「……悔しや?私をこんな目に遭わせて」
彼女は目を真っ赤にし、鬼の形相で彼の首を締めてきた。
「う?」
「……来る日も来る日も待ちわびて。風の音にあなた様の足音を思い。雨の音にあなた様が濡れるのを思い、雪の日は凍えておりました……。こんな老婆に成り果てても……あなた様をずっと、私は……」
憎しみの形相の老婆に向かい、彼は苦し紛れに呪文を説いた。
「辞、封、力、弱、滅、没、退」
「う。うわあああ……」
「離、散!」
この時、老婆は怯んでひっくり返った。彼は老婆に術をかけ、眠らせておいた。
「はあ、はあ、はあ」
「何の音だよ?あ」
「あの婆か?なんと夜這いとは?」
部屋の隅で寝ていた篠と龍牙は驚きで目を擦っていた。彼は老婆をこのまま寝かせ、出発しようと言った。
「そうだね。俺、気持ち悪いし」
「わしも目覚めた。まずは澪を呼ぶか」
「待て!ならぬ?」
誤解をすると面倒だと話す笙明を龍牙が笑ったが、篠はそうだと言った。男どもは老婆のこと話さず隣部屋で寝ていた澪を起こした。そしてまだ夜明け前の道を歩き出した。
「はあ。怖かったな」
「あれも妖ではないか?」
「かもな。私は今まで一番恐ろしかったな」
「あのね。何か音がしない?」
「「「え」」」
夜明けの道を振り向くと、何やら黒いものが蠢いているのが見えた。
ここで笙明の愛馬がいなないた。
「蛇だ?」
「うお?大きすぎだ」
「澪。逃げろ!」
うねりながら向かってくる大蛇の顔は老婆であった。恐ろしい様子に逃げ出した彼らの先には朝日に光る川があった。
「篠と澪は飛び込め!わしがこれを仕留める」
「待て!龍牙。殺してはならぬ」
膝丈の水辺を逃げる篠と澪。そして太刀を持つ龍牙を制した笙明は、馬を降り妖刀を取り出した。すっと携えた構えに蛇老婆は動きを止めた。彼は話しかけた。
「おやめくだされ。私はあなた様を殺めたくない。目を覚ましてください」
「……八田!私に待てと言ったのは嘘か!?許せぬ……」
恐ろしい形相の老婆は、なぜか進路を変え、笙明と龍牙を無視し、川へ向かった。
「危ない!篠!澪」
「え」
「やだ?来たわ」
「澪は俺の背に……来い!婆!」
緊迫状況に篠は澪を背にし短刀を取り出した。しかし蛇が早かった。蛇は澪に襲いかかった。
「きゃあーー」
「こいつ!澪を離せ」
蛇は彼女の体にトグロを巻き縛り上げていた。
「く、苦しい……」
「娘よ……死ね!死ね。この苦しみを味わうが良い」
澪に食い込む蛇の体。ここに笙明がやってきた。彼が刀を抜いていた時、澪は苦しげに口を開いた。
「清子さん……待っていたんですね」
「うるさい!」
「好きだったんですね……でも、そのお姿を……その方が見たら」
「……」
「悲しみます……お願い。どうか」
「う。ううう」
蛇老婆は力を緩めた。力尽きた澪は川に倒れたが、龍牙が抱き起こした。そして打ちひしがれていた老婆は去って行ったのだった。
「どうだ。澪」
「もう、平気よ」
水に濡れた一行は彼女を囲んでいた。
「いや。少し休もう。無理することはない。わしは火を起こす」
「そうだよ。朝餉は俺が作るから」
川を渡った彼は、濡れた着物のまま澪の世話をしていた。彼女の傍にいた笙明はすっと澪の額に自分の額を当てた。
「熱はないな。しかし、なぜ澪を狙ったのだ」
「……あの方。泣いていましたね」
川面を揺らす風は岸辺の葦にも囁いていた。これを澪はじっと見ていた。
「たぶん。昔の自分を思い出したのではないでしょうか」
「昔の自分」
「ええ。私は笙明様のお供をしておりますが、あの方は待つ事を選んだのですから」
そう言って澪は食事の支度をしている篠と龍牙を見た。
「一緒に、好きな殿方と行きたかったのでしょう」
「……澪」
寂しげな横顔に笙明は胸が痛んだ。澪は仕事を探す目的で共に旅をする妖の血が入った娘であった。
都の神官を務める笙明と身分違いの二人は結ばれるはずはないと笙明も澪も無言で理解していた。
しかしこの胸の傷を隠すように彼女は微笑んだ。
「さて。着物を乾かしましょうか。夏とはいえ、気持ち悪いです」
「そうだな。私もそうしよう」
ここに二人もやってきた。
ずぶぬれの四人は朝の太陽の中、一休みをしていた。初夏の下野の国の旅はこうして始まったのだった。
「蛇躰になった娘」完
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