第103話
黎明の覇者が借り切っている宿屋、英雄の宴亭。
それはドレミナの中でも最高級の宿だ。
少し裕福な商人程度がどうにか宿に泊まることが出来れば、それが箔になるというような、そんな宿。
しかし、現在その宿は黎明の覇者によって借り切られて拠点となっていた。
それだけを見ても、黎明の覇者がどれだけの稼ぎがあり……そして著名な傭兵団であるのかが理解出来るだろう。
金があればそれだけで泊まれるという宿ではないような場所を借り切っているのだから。
イオは馬車からそんな英雄の宴亭を見て、戻ってきたと思う。
実際にイオがこの宿に泊まったのは、一泊だけだ。
それでもこうして戻ってきたという思いを抱くのは、この英雄の宴亭がこの世界に来て初めてゆっくりと安心して……それこそ、いつゴブリンに襲われるのかといったことを考えなくてもいいくらいにぐっすりと眠れた場所だからだろう。
初めてこの世界にやって来た山よりも、この英雄の宴亭の方がイオにとって第二の故郷といったような感じがする。
とはいえ、流星魔法の件について大きく知れ渡った以上、もうこのドレミナに残る訳にはいかないのだが。
そもそもこのドレミナから離れるために、こうして英雄の宴亭にいる仲間を迎えにきたのだから。
「どうやら、ギュンターの言葉が正しい……かどうかは分からないけど、こちらにちょっかいを出してくる様子はないと考えてもいいようね」
英雄の宴亭に騎士団や兵士、傭兵といった者たちが誰もいないことを確認したソフィアは、ギュンターの口から出た奇想天外な意見がもしかしたら合っていたのでは? と思ってしまう。
「ギュンターさんの意見って……あれ、本当なんですか?」
驚きの表情で告げたのは、レックス。
レックスは一応それなりにこのドレミナで生活をしていたので、余計に信じられないのだろう。
とはいえ、レックスが以前所属していた黒き蛇という傭兵団は、ランクが決して高くはなかった。
それだけに黒き蛇が領主と面会をすることなど、まずなかっただろう。
……いや、あるいは万が一にも黒き蛇が領主と会うことになったとしても、レックスは黒き蛇においては雑用でしかない。
そんな雑用が領主と遭遇するという可能性は、まず考えられなかったが。
「とにかく、宿に行きましょう。領主が私たちに干渉してこないというのなら、話は早いわ。すぐに準備を整えて、ここから出るのよ。幸い、今はもう領主から依頼を受けてはいないんだし」
正確には、領主からいくつかの依頼を持ちかけられてはいた。
しかし、その理由はあくまでもソフィアを口説くためというのが大きい以上、ソフィアはその依頼を引き受けるつもりはない。
……あるいは、ゴブリンの軍勢のときのように緊急に依頼をうけないといけないような状況であれば、また話は違ったかもしれないが。
幸か不幸か、今の状況ではそのような依頼はなかった。
そうである以上、すぐにドレミナを出ても何の問題もないのは間違いない。
ソフィアたちの乗った馬車は、英雄の宴亭に到着し……当然のように、そこにいた傭兵たちは自分たちの団長が戻ってきたことに驚く。
いや、ただ戻ってきただけなら、傭兵たちもそこまで気にするようなことはなかっただろう。
だが、一緒に隕石が落下した場所に向かった者の多くはここにおらず、それでいてソフィアだけが戻ってきたのだ。
それで驚くなという方が無理だろう。
「ソフィア様!? どうしたんですか、一体!」
短い髪をした……それでいながらさっぱりとした雰囲気が魅力的な女の傭兵が、馬車から降りてきたソフィアに向かって駆け寄る。
もちろん、ソフィアに駆け寄ってきたのはその女だけではない。
他の傭兵たちもソフィアの姿に気が付くと、一体何があったのかと駆け寄ってくる。
そんな傭兵たちを見ていたイオとレックスの二人は、やはりソフィアは部下に慕われているのだと思う。
今のこの状況において、ここまで多くの者たちが何があったのかと心配しているのだから。
これが実は人望のない者であれば、ここまで皆が必死になって集まるようなことはないだろう。
だが、今のソフィアの様子を見て、人望がないなどと言える者はいない。
これはソフィアがその美貌だけで、あるいは強さだけで他の傭兵たちを支配している訳ではなく、一種のカリスマ性があるということの証明でもある。
「少し問題があってね。それで今からすぐにドレミナを出ることになったわ。ローザはどこにいるの? まずは話をして準備を整えないと」
「ローザさんなら、少し用事があると言って出てます。ただ、すぐに戻ってくると言ってましたから……あ」
ソフィアと話していた女は、その言葉の途中でそんな声を上げる。
その理由は、女の視線を追えばすぐに分かった。
その視線の先に射るのは真っ赤な髪をポニーテールにしており、その毛先は背中の中程まである、理知的な美貌を持つ人物……つまり、ちょうどこのタイミングで、ローザが姿を現したのだ。
ローザは馬車を……正確にはその近くにいるソフィアの姿を見て、驚きの表情を浮かべる。
とはいえ、それはすぐに真剣な表情に変わったが。
「ソフィア、一体何があったの? 貴方だけでこんなに早く戻ってくるなんて」
そう言いながらも、ローザはにはそこまで慌てた様子はない。
この辺りの落ち着きは、ソフィアとの付き合いがそれなりに長いし、実質的な副団長というのも影響しているのは間違いないだろう。
「ローザ、貴方こそどこに?」
「ちょっと領主様に会いにね」
「っ!?」
ローザのその言葉は、色々な意味でソフィアを驚かせるに十分だった。
たとえば、領主がソフィアではなくローザを呼び出したということは、ローザに言い寄るつもりなのではないかと。
ローザもソフィアには及ばないが、十人が見れば全員が美人だと断言するだけの美女だ。
当然だが、女好きの領主がローザに言い寄ってもおかしくはない。
ソフィアが自分の誘いを受け入れないので、ならばローザを……そんな風に思ってもおかしくはなかった。
あるいは、ギュンターが口にしたイオについての情報が領主に届いていないというのが実は間違っていて、領主にもしっかりとその辺の情報が届いていたら、その辺について追及をされたという可能性も否定は出来なかった。
しかし、ローザはソフィアの様子を見て何を考えているのか理解したのだろう。すぐに心配する必要はないと、首を横に振る。
「ソフィアが心配するようなことはなかったわ。新しい依頼を受けないかと、そういう話だったから」
「……ギルドを通さずに?」
「指名依頼ということなんでしょうね。あるいは依頼の内容をギルドに知られたくなかったのか。とにかく、私は団長じゃないから依頼を受けたり断ったりといった判断は出来ないと言ってきたわ」
ポニーテールを揺らしながらそう告げるローザに、ソフィアは安堵した様子を見せる。
正直なところ、ローザなら自分の代わりに何らかの依頼を受けても問題はないと思っていたし、ローザがそう判断するのなら問題ないだろうとも思っていた。
しかし、それでも……今の状況を思えば、色々と危険な状態なのも事実。
ドレミナの領主がどれくらい現在の状況を知っていてローザを呼んだのかは分からなかったが、今のソフィアとしては少しでも早くドレミナを出る必要があるのだ。
そんな状況では、たとえちょっとした依頼であっても出来るだけ避けたいと思うのは当然の話だった。
「ローザのおかげで助かったわ」
心の底から安堵した様子を見せるソフィアを見て、ローザは現在の自分たちの状況が決していいものではないと悟る。
具体的にどのようになっているのかということまでは、生憎と分からなかったが……それでもソフィアの様子を見れば、何となくだが想像することが出来たのも間違いない。
「それで、これからどうするの?」
現在の詳しい事情を聞くよりも前に、まずこれからどうするのかというのを聞く辺り、ローザが場慣れしていることを示していた。
周囲に集まっていた傭兵たちも、そんなローザの言葉を聞いてソフィアに視線を向ける。
今この状況で、一体どうするべきなのか。
ソフィアからそれを聞き、出来るだけ早く行動に移すべきだと思ったからだ。
「すぐにドレミナを出るわ。ローザのことだから、その辺の準備はしっかりとしていたんでしょう?」
「そうね。ただ、出来ればもう少し余裕があればよかったんだけど」
黎明の覇者は百人単位の傭兵団だ。
それも歩いて移動するのではなく、馬車の類も多く使っている。
ランクA傭兵団であるだけに、高価な武器や防具、マジックアイテムも多い。
そのような者たちがすぐにでも出撃するとなると、当然ながら食料や水を用意したり、それ以外も様々な物資を用意する必要があった。
それこそ、それらを用意するには相応の時間が必要となるのだが……ローザのように補給を担当している者であれば、上手い具合に交渉して普段よりも早く補給物資を得ることは出来る。
もちろん、普段よりも早くとなると、その分料金は通常よりも高額になるのだが。
しかし、幸いなことに黎明の覇者はイオが倒したゴブリンの軍勢の素材や武器の類を譲って貰っている。
それらを金に換えるなり、あるいは物々交換といったような形にするなりすれば、支払いにかんしては問題なかった。
「準備が出来ているのならいいわ。今の状況を思えば、少しでも早くドレミナから脱出する必要があるから、すぐに準備をしましょう」
ローザはそんなソフィアの言葉を聞き、イオに視線を向ける。
その視線が何を意味しているのかは、イオにも理解出来た。
今回の一件を思えば、自分に理由があるのは間違いないのだから。
「そうね。今の状況を思えば出来るだけそうした方がいいとうソフィアの言葉は十分に理解出来るわ。そうである以上、ソフィアの言葉も理解出来る。そうである以上、出来るだけ早く行った方がいいわね」
ソフィアのその言葉に、周囲で話を聞いていた者の多くが準備を始めるのだった。
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