第56話
「うおっ! 美味っ! 何だこの肉……特に複雑な味付けもしてないのに、何でこんなに美味いんだ!?」
ベヒモスの肉を食べた男の一人が、思わずといった様子で叫ぶ。
他の者たちも口にしたりはしないものの、ベヒモスの肉の味について驚きを覚えているのは間違いない。
ベヒモスの解体を終えると、すでに夕方から夜になるような時間となっていた。
この状況で移動をするのは危険だとルダイナは判断し、ベヒモスの死んでいた場所のすぐ側で野営をすることになった。
本来ならベヒモスのいる場所から離れた方がいいと思っていたものの、解体したベヒモスの肉の量を考えると、それを全て運ぶことは出来ない。
また、ベヒモスの肉だけではなく骨も貴重な素材だ。
……下半身がない上半身だけの骨であっても、それは貴重な素材となるのは当然だった。
それらの事情を考えると、まずは運ぶ素材の量を減らすために少しでも肉を消費することにしたのだが……その肉は、まさに極上の肉と呼ぶに相応しい美味。
黎明の覇者に所属している以上、多くの者は貴族のパーティといったような行事に出たことがある者も多い。
そのような者たちにとっても、ベヒモスの肉は食べたことがないと思えるほどに美味かったのだ。
「これで本格的に料理が出来る奴がこのベヒモスの肉を調理したら、一体どうなるんだろうな」
ベヒモスの肉を食べていた者の一人が、そんな風に呟く。
その言葉は、ベヒモスの肉を食べている者たちにとって大きな衝撃だった。
一応血抜きはきちんとしているし、肉の線維に沿った切り方をするといったように下処理は出来る限りだがしている。
しかし、味付けは塩や香味野菜といったようなものだけしかない。
その肉をただ焼いただけでも、極上と呼ぶに相応しい美味さを持つ肉なのだ。
そうである以上、きちんと料理の技術がある者……それもその辺の食堂の料理人ではなく、たとえば黎明の覇者が泊まっている英雄の宴亭の厨房を任されているような料理人がこのベヒモスの肉をきちんと料理したら、一体どれだけの味になるのか。
この場でベヒモスの肉を食べている者たちだけに、実際に自分でそんな想像をするなという方が無理だった。
「今回の一件が片付いたら、肉を持ってどこかの店に行きたいな。……もっとも、それまで肉が悪くならなければいいんだが」
「大丈夫だろ。ランクAモンスターの肉なんだから、結構長持ちするはずだ」
高ランクモンスターの肉は、多くの魔力を宿しているので腐りにくい。
そういう意味では、普通の動物の肉と比べてもかなり保存に便利なのは間違いないのだが……だからといって、それはあくまでも腐りにくいであって腐らないという訳ではないのだ。
時間が経てば腐るのは間違いない以上、ベヒモスの肉を無駄にしないためにも、消費出来るところでは出来るだけ消費する必要があった。
「黎明の覇者はマジックバッグを持っていましたけど、それを使えば普通に持ち歩くよりは長持ちするんじゃないですか?」
イオはベヒーモスの肉を楽しみながら、ルダイナに向かってそう尋ねる。
未だにイオの存在をどう扱っていいのか分からないような者もいるのだが、食の力は偉大と言うべきか、ベヒモスの肉を食べているとイオに対する畏怖が大分減ってきたらしい。
それどころか、イオのおかげでこんな美味いベヒーモスの肉を食べられるのだからと、感謝している者も多い。
「マジックバッグはあるが、持ってきていない。あれはかなり希少なんだから、持ってるのは上の人たちだけなんだよ。……それに、黎明の覇者が所有しているマジックバッグはそれなりに性能の高い奴だが、それでも中で時間の流れが止まっているといった訳じゃない」
「そもそも、マジックバッグには収納出来る量が決まってるから、これだけの肉を……いや、骨も含めて、収納するのは難しいわよ」
イオとルダイナの話を聞いていた女が、そんな風に会話に割り込んで来る。
この女も最初はイオのことを怖がっていたのだが、一緒にベヒモスの肉を食べることによって、その怖さは大分消えたらしい。
「骨、ですか。……ベヒモスは骨も素材として扱われるんですか?」
改めてイオはベヒモスの骨に視線を向ける。
視線の先には、すでに肉のほとんどを剥ぎ取られた骨がそのまま残っている。
そんな中でも、特に迫力があるのは頭蓋骨だろう。
イオが数人いても、その頭蓋骨よりも小さい。それくらいの大きさ。
「ええ。ベヒモスの骨はかなり希少な素材よ。だからこそ、出来れば持って帰りたいんだけど……」
「難しいな」
女の言葉をルダイナは即座に否定する。
女もその件については恐らくそうなるだろうと考えていたので、ショックを受けた様子はない。
当然だろう。肉だけであっても持ち帰れないくらい大量にあり、それを少しでも減らすために現在こうやって皆で肉を食っているのだ。
そのような状況である以上、骨を持ち帰るというのはまず不可能だろう。
「うげええええっ!」
そんな会話をしていたイオだったが、不意に誰かが吐くような音が聞こえてくる。
肉を食いすぎたのか? と思ったイオがそちらに視線を向けると、そこで吐き出しているのはレックスだった。
「ちょ……すいません、ルダイナさん。ちょっとレックスの様子を見てきます」
「ああ、そうしろ。レックスは運が悪かったからな」
「……運が?」
運が今の状況にどう関係しているのか。
それはイオにも全く分からなかったが、それでもレックスの様子を見る限りでは苦しそうにしているのは間違いないので、そちらに向かって進む。
(食いすぎて吐いたとか? いや、まだ食べ始めてからそんなに経ってないし、何よりもレックスは俺よりも身体が大きい。そんなレックスが、少し肉を食べただけでこうなるとは思えない)
レックスの様子に疑問を抱きつつも、イオはレックスに声をかける。
「ほら、レックス。ここで吐いたりしていれば、他の人たちの迷惑になる。吐くなら他の場所に行くぞ」
「す、すいません。……ちょっと……その……うぷっ!」
何らかの言い訳をしようとしたレックスだったが、それを最後まで言うよりも前に再び胃の中の物を吐き出しそうになる。
こんなに美味いベヒモスの肉を食べているのに、何故そこまで? と疑問に思うイオだったが、とにかくこのままでは周囲にいる者たちの迷惑になると、レックスを連れてその場から離れた。
そうして十分離れた場所で、レックスは思う存分吐く。
周囲には酸っぱい臭いが漂い、イオはその臭いに眉を顰めながらも実際に不満を口にすることはない。
そのまま数分が経過し、ようやく全てを吐き出して落ち着いた様子を見せたレックスは、イオに向かって頭を下げてくる。
「すいませんでした、イオさん。迷惑をかけて」
「それは別に構わないが、何で急に吐いたんだ? 高級な肉を身体が受け付けないとか?」
高ランクモンスターの肉には高い魔力が宿っており、そう簡単には腐らないと聞いている。
そうである以上、その肉の魔力が原因であのようになったのかと思って聞いたのだが、レックスは首を横に振る。
「いえ、そういうのじゃありません。……実は、ベヒモスの胃を洗浄したときのことを思い出して」
「胃を?」
「はい。ベヒモスの胃もまた高い素材となるらしいのですが……その、胃の中身が……」
そう言われたイオは、レックスが吐いた理由を理解してしまう。
本来ならイオたちが倒すはずだった餓狼の牙という盗賊団は、何かに喰い殺された死体で見つかった。
それを行ったのがベヒモスである以上、その胃に何が入っていたのかは考えるまでもないだろう。
つまり、人の死体が消化される前、あるいは消化される途中で残っており、レックスはそれを自分の目でしっかりと見てしまったのだ。
それのような光景を見てからすぐ――それでもある程度時間は経っているが、その日のうちにという意味で――に人を食っていたモンスターの肉を食うというのは、レックスにとって厳しいものがあるのは間違いなかった。
だからこそ、今の状況においてはレックスがこのような状態になってもおかしくはない。
「げほっ、げほ……す、すいません、イオさん。せっかくの食事の時間に……」
「気にするな。お前が見た光景を思えば、そういう風になってもおかしくはない」
それは慰めでも何でもなく、純粋にイオが感じたことだ。
もし自分がレックスのような状況になったら、大人しくベヒモスの肉を食べられるか。
(……あれ? もしかして問題ないかも? ああ。そう言えば精神的に強化して貰ったんだったな)
本当にそうなったときに、自分がきちんとベヒモスの肉を食べられるかどうかは分からない。
しかし、想像してみたところでは普通に食べられそうな気がした。
「何で僕……こんなに弱いんでしょうね」
ポツリ、と。
そうレックスの呟く声がイオの耳にも聞こえる。
そんなレックスに対し、イオは何かを言おうとするも、何も言えばいいのかが分からない。
今の状況では、それこそ自分が何を言っても意味はないと、そう思えたのだ。
なので、イオは今のレックスの言葉は聞いていない振りをする。
レックスも今の呟きはイオに聞かせるといったつもりはなく、ただどうしようもない自分の状況で、思わずそのように呟いてしまっただけなので、イオが何も言わなくても特に反応はしなかった。
二人が黙り込んだことにより、沈黙が周囲を包む。
離れた場所で騒いでいる黎明の覇者の傭兵たちの声だけが、唯一聞こえてくる音だ。
そして数分が経過し……やがてレックスは下げていた頭を上げる。
「すいませんでした。いつまでもこうしていても仕方がないですし、そろそろ戻りましょうか。早くしないと、ベヒモスの肉もなくなって……いえ、なくなるようなことはないでしょうけど、それでも食事の時間が終わってしまうかもしれませんから」
それは空元気であるのは明らかだった。
だが、空元気も元気のうちという言葉があるように、レックスはそんな空元気さでイオに戻ろうと言い、イオもまたそんなレックスの言葉に頷いて食事をしている仲間たちのところへ戻るのだった。
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