「第7章 湯気のなくなったコーヒーカップ」

午後八時四十五分。閉店時間が迫るグリーンドア。店内に客の姿はなく、聞き慣れたジャズだけが響く。山科は、事務仕事をカウンターに置いたノートパソコンで行っていた。

 カランコロン。

 深みのあるカウベルが鳴り、店の象徴である緑のドアが開く。新鮮な外気と共に、二人の客が入ってきた。


「やあ、いらっしゃい」


 ようやく来てくれたという気持ちを隠しつつ、事務仕事を終えてカウンターから立ち上がる。二人の客人はペコっと一礼して、いつもの指定席に腰を落とした。


「時間、まだ大丈夫だった?」


 二人の内の一人。皆瀬陽菜は、店内を軽く見回して尋ねた。この時間になってくると、店の客足はいつもこんな状態なので、特に問題はない。


「まだ十五分もある。そしてこうすれば、残り時間は全て君達だけの貸切だ」


 山科は緑のドアを開き、中央部に引っ掛けてある、”OPEN”の札を返して、”CLOSED“とした。


「あ、ありがとうございます」


 深々と頭を下げたのは二人の内のもう一人。片倉悠人だ。

 初々しい彼に山科は微笑んで頷く。いつもと違う片倉の雰囲気。ここに初めて訪れたかのように、店内をしきりに見回している。

 その様子に山科はすぐに理解した。


「悠坊は幼稚園ぐらいからのお客さんだ。中学の終わり頃からかな? 陽菜ちゃんとよく来てくれるようになった。その辺りからだよ。二人が付き合ってるって聞いたのは」


 簡単な歴史の授業。山科はまるで記憶喪失の患者に話しかける医者のようだと内心思った。


「それ、私も前に聞いた!」


 隣で元気良く反応する皆瀬。彼女は以前、一人でこの店を訪れた事があり、その際に同じように説明したのだ。

 前に片倉と訪れた時、やけに落ち着きがなく、昔から変わらない味のココアケーキを美味しいと目を輝かせていたのを覚えている。その日は一回二人で帰った後、再度彼女だけ来店して、色々事情を尋ねられた。

 代わりに山科は彼女に幽霊について教えてもらっている。

片倉がどんな状態なのかを。だから、彼の変化に自分の役割を素早く果たているのだ。


「待っててくれ。美味しいコーヒーを用意するから」


「いいんですか? ……幽霊にコーヒーなんて」


「構わんさ。大事な常連さんだ」


 自分含めて三人分のカフェ・ラテを用意して、二人の前に並べる。何度嗅いでも飽きる事ない香りがいつものように店内に充満していく。 

 山科は、自身の分に口を付け、喉を温めてから口を開いた。


「また前みたいにいつでも訪ねてくれ。僕は君達二人が大好きなんでね。来てくれたら、コーヒーの一杯ぐらい出すよ。幽霊からお金は取らないさ」


 小さい頃から見守っていた二人は、自分にとっては、少々大袈裟かも知れないが、子供みたいなもの。遠慮なくいつでも遊びに来てほしい。

特に娘の香夏子は二人にとても懐いていた。一人っ子の彼女には、二人の事が本当に兄と姉に思えたのだろう。残念ながら、香夏子は霊感が乏しかったが。それでも、集中すれば微かに声が聞こえるらしく、話した事があると彼女本人から聞いた事がある。


「ありがと山科さん。けど、これからは頻繁に来れそうにない、かな……」


「えっ、そうなのか!?」


 皆瀬の予想だにしなかった返答に聞き返すと今度は片倉が答えた。


「はい、そうなんです。だから、今日はその事を話しに来ました。もっとも、今の僕は初めて来たんですけど。でも、懐かしい感じはします。きっと、心が覚えてるんですね」


「ありがとう。悠坊がそう言ってくれて嬉しいよ。それだけに残念だ。香夏子も君達には懐いていたのに、寂しくなるね……」


「香夏子ちゃん……。私も寂しい~」


 香夏子の事を想って寂しがる皆瀬。彼女の素直な心は、幽霊になっても変わらず安心する。


「山科さんには、とってもお世話になったと陽菜から聞いています」


 仰々しく頭を下げる片倉に首を横に振る。


「俺はただのお節介おじさんなだけさ」


 世話をしたなんて、偉そうな考えは微塵もない。

ただ、見ていられなくてお節介をかけた。

それだけなのだ。


「山科さん、安心して。悠君には私がついてるからっ!」


 胸を張り自信満々に宣言する皆瀬。微笑ましいその様子に、山科は安心した。彼女の芯の強さはよく知っている。どれだけ片倉を愛しているかも。


「ああ、安心したよ」


「別に、こちらのお店に永遠に来ない訳ではありません。正確な日付は分からないですけど、いつかきっと来ます」


「その日を楽しみにしているよ。ありがとう悠坊」


 また来る。そう言ってくれただけで、充分な収穫としよう。

 山科がそう考えていると、時刻が丁度九時となった。

 ゴーン! ゴーン!

 開店当初からの相棒であるアンティークの壁掛け時計が閉店時刻を主張する。


「じゃあ、そろそろ行きます。本当に色々ありがとうございました」


「絶対にまた来るからっ!」


 席を立つ二人。しばしの別れの時は近い。


「またいつでもいらっしゃい」


 そう言って、山科は一瞬二人から目を逸らして窓の外を見る。客が帰る際に空模様を確認するいつもの癖。

ああ、客は幽霊だった。単純な事に気付き、すぐに視線を戻すが、二人の姿はもういない。


「はははっ……」


 小さく笑って山科は中断していた閉店作業を再開する。

 カウンターの一番奥に置かれた、湯気のなくなったコーヒーカップ。

 寄り添うようにして並んでいるこの二つを片づけるのは最後にしよう。

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