「第5章 忘れ事」

 今日も今日とてグリーンドアは平和だった。いつ訪れても変わらないから、ここは時間の流れが止まっているのかと、窓の外を見ながらよく思う。窓の外から見える景色は、年毎に姿を変えていく。新しいお店が出来たり、道路が綺麗になったりと実に忙しそうだ。けどここは忙しくない。

だから大好きだ。

 いつものカウンターの一番奥で僕はカフェ・ラテではなく、ブレンドコーヒーを飲んでいた。理由は一つ。隣に陽菜がいないからである。

 一人で来ている時、加えて考え事や相談がある際は、僕はいつもブレンドコーヒーを頼むようにしている。そうして自分の中にある思考スイッチを切り切り替える事にしているのだ。

目の前にあるコーヒーカップからは湯気が上がっている。


「さて。じゃあ、どんな話か聞こうか?」


 注文を頼み、持って来てくれてから、一段落して改めて、こっちに来た山科さんには感謝が絶えない。


「ありがとう、山科さん」


「その前に一つ。陽菜ちゃんはどうした? まさか……」


「あー。消えちゃったとかそういうのじゃないよ。いつも一緒にいるから、今日は待ち合わせ風にしようって事になって。けやき公園で待ち合わせ中なだけ」


 説明すると山科さんはホッとした顔になり、小さく短いため息を吐いた。今頃、陽菜は街の幽霊散歩の真っ最中なはずだ。本人がそう言っていた。

なので、僕は今の内にグリーンドアを訪れている。僕の隠し事を山科さんは把握しているのだから、相談するなら今しかないと思ったのだ。前回は一人で大丈夫、彼の手は借りまいとしたが、ここ数日でその自信が完膚無きまでに消え去ったので、大人しく彼の力に頼る事にした。全く、我ながら勝手の一言に尽きる。彼の優しさにすっかり肩まで浸かってしまっているのだから。


「相談があるんだけどさ」


「おう、何でも言ってみな」


 勝手を受け入れてくれる彼の言葉に心の体重を軽くした僕は話を続ける。


「陽菜が生きている時にさ、喧嘩しちゃったんだ。それをずっと謝りたいって思ってる。けど、幽霊になってからの彼女は、その事を一切覚えていない。ここ数日、僕がずっと謝るか悩んでいたから、向こうを不安にさせたみたいで、この前けやき公園で話があるって言っても、言わなくていいって……」


「ほお」


「言わなくていいって言ったのは僕が辛そうな顔をしていたからだと思う。内容は知らないのだし。何より、言わなくていいって言われただけで、許されたみたいに感じて、安心しちゃうんだ。そんな自分が嫌で……」


 コップに溜まった水を少しずつ傾けて流すように僕は心中を垂れ流す。

 ずっと閉じていた窓を初めて開けたような爽快感があった。全面的な信頼を寄せている山科さんが相手というのは大きい。

彼に相談するのはこれで三度目。

過去の相談は全て解決している訳だから、今回もきっと大丈夫。爽快感を得ながら、僕の口は動きを止めない。


「言わなければいけないのは分かっているんだ。けど、どうしてなのか? ただ自分がスッキリしたいだけなのか。それとも陽菜の事を想っての事なのか。もう、判断が付かなくなってしまった……」


 視線を下に落とす。趣のある木製のカウンターテーブルにブレンドコーヒーが一つ。優しい湯気を立てていた。

湯気の香りに勇気を分けて貰って再び顔を上げる。


「どうしたら良いと思う?」


 最後まで腕を組んで黙って話を聞いてくれた山科さんは、「うーん……」っと小声で唸ってから、口を開く。

開いた彼の口から出る言葉は、答えを求めている僕の耳の遥か彼方にあった。


「悠坊、あの時謝りに行ってくるって外に飛び出して行っただろう? その話とまた違うんだよな?」


「…………えっ?」

 

理解が追い付かない。その話ってどの話だ? さっぱり分からない。

それは向こうも同じだと言うのが、困惑した顔を浮かべている事で分かった。


「それって誰かと間違えてる?」


「んな訳あるか。大体、つい最近の話じゃねえか」


 会話の歯車がちっとも噛み合わない。それどころか、疑問を進めれば余計に、離れていく。落ち着け、状況を整理しろ。妙な誤解をしている可能性がある。それを紐解けばいいだけだ。思考を無理矢理冷却して、僕は再度問いかける。


「僕が謝りに飛び出したって話。詳しく聞かせてほしい」


「悠坊が陽菜ちゃんと喧嘩したって話だろ? あの日、店に来た悠坊は、今にも死んじまうんじゃねえかってくらい、暗い顔をしていたな。また今みたいに俺と話していく内に、段々元気になって最後は笑顔で飛び出していったんだ。だから、この前二人で来た時、仲直りしたもんだとばかり……」


 山科さんの話は初めて聞くものだった。しかし、彼が嘘を吐いている訳がない。

 全然知らない人の話だと言われたら、本気で信じてしまう。

おかしい……。そこまでの出来事を何一つ覚えていないなんて。いくら何でも忘れようがない。店のアンティークの壁掛け時計の短針と長針が丁度の時間を指してゴーン! ゴーン! とそれを知らせる音が店内に響き渡る。


「時間だ、行かないと……」


 答えの出ないまま僕は時間に急かされて立ち上がる。陽菜との待ち合わせ場所、けやき公園には今出ないと間に合わない。本来なら、それまでに解決してすっきりした気持ちで、行こうとしたのだが、解決どころか新たな疑問が生まれてしまって、話が迷宮化しただけだった。

こんな事、グリーンドアに相談に来て初めてだな。

 ……待てよ? 一つの妙案が浮かんだ。


「行くのか。悪いな、せっかく来てくれたのに、むしろ混乱させちまって」


「いや、大丈夫」


 申し訳ないと言った顔をする山科さんは初めて見る。変に新鮮だが、普段見せない顔なだけに、こちらが無性に悪い事をした気分になってしまう。

 取り敢えず早くグリーンドアから出よう。でも、その前に。


「一ついい?」


 店を出る直前、扉に手を掛けたままで僕は振り返った。


「おう、何だ?」


「僕が山科さんにこうやって相談するのって、これで四度目(・・・)だよね?」


否定してほしい気持ちをひた隠しにして尋ねると、上を向いて長考し、回数を数えている山科さん。やがて計算が終わったらしく。ハッキリと力強く頷く。


「ああ! 間違いないっ!」


「……そっか。ありがとう。大丈夫、解決だ。これで何の疑問もなく、陽菜の所へ行ける」


「なら安心だ。また来てくれよ? ……ずっと待ってるからな」


 口から流れ落ちる言葉に出来る限りの味付けをして、山科さんを安心させた。最後に彼のいつもの笑顔が見れたので、その成果は充分発揮されたと言えよう。

 グリーンドアを出て早足で歩いた。横断歩道を渡り、しばらくして振り返る。車の波の向こう岸にグリーンドアが小さく見える。よし、ここまで離れたら姿は見えないだろう。

一気に全速力で駆ける。体育以外で本気で走るのは久しぶりだ。向かい風が乱暴に髪を揺らす。アーケード商店街に入り、人の森をスルスルと抜けて、スピードを緩める事なく、けやき公園へ向かう。全身にぶつかる風が気持ち良い。

この気持ち良さがあれば、いつまでだって。もしかしたら永遠にだって走っていられそうだ。疲れを忘れた僕は、一気にアーケード商店街を抜けて道路へ出た。

ここまで来れば、けやき公園まではもうすぐだ。息が上がる気配すらない、両足に依然として前進命令を出す。

 体を動かしながら、頭はずっと思考していた。

 僕はおそらく忘れてしまっている。

 山科さんに相談をした事や陽菜に謝りに行った事を。

これはあくまで予想で根拠は一切ないが、山科さんの話ぶりから、僕は陽菜に謝れたのではないだろうか? 

しかし、どうして覚えていない?


「あり得ない」


 走りながら呟くが、風の音の方が大きくてすぐに消えてしまう。忘れる訳がないのだ。仮に四十度の熱があったとしても、絶対に忘れない自信がある。

 今から陽菜に会った時にきちんと話してみよう。そうしたら、全てに決着がつくはずだ。そうと決まったら急がないと! 僕はさらに加速する。今ならいくらでも速くなれる。

 まるで風になった感覚に包まれる中、車一台分の細い路地に出た。

一本道、ここを抜けて、右に曲がればけやき公園だ。

 息切れ一つなく、ここに来て僕の両足は最高速に達した。まるで新幹線のようだった。

 一瞬で路地を抜ける。左右なんて見もせずに。だから僕は気付かなかったのだ。路地を出た途端、怪物のようなタクシーが走っていた事に。


「うわあああああああああああっっっ!!」


 右から来るタクシーはクラクションンを鳴らさず、減速すらしない。

 

世界がスローになった。

 

これが走馬灯っていうやつなのか? 初めての体験に戸惑う。ゆっくりゆっくりと赤ちゃんのハイハイぐらいの速度で僕に向かってくるタクシー。体は石像のように動かない。頭の中の思考部屋を残し全機能が停止してしまった。

 徐々に近付いてくるタクシーは、とうとう僕の体に触れる。

 冷たく固い鉄の感触。

 けやき公園、もうちょっとだったのになぁ。ゴール直前で失格になったマラソン選手の気分だ。残念ながら自分にはどうする事も出来ない。このままスロー世界が終わり、僕の体はきっと空中に、出来損ないのスーパーボールのように飛ぶんだ。

地面にぶつかり不規則に跳ねる自分が想像出来てしまう。

 スロー世界が終わる。

 世界が動きを取り戻す。音も風も重力も元通り。スロー世界から脱出したタクシーは、やかましいエンジン音を鳴らしながら僕に体当たりする。

 

ところが。

 

 タクシーは、ただ直進して僕を通り抜けて行った。


「はっ?」


 今のは一体? 呆然と振り返るとタクシーの後ろ姿は、もう先の交差点におり、左に曲がって消えた。あっちが避けたのではない。そんな風に走っていなかったし、こっちの存在にも気付いるかも怪しい。

 じゃあ、どうして僕は今ここに立っているんだ?

 自分の顔や体を触り、異常がないかを確かめる。大丈夫。どこも怪我していない。それどころか、接触した跡すらなく真っ白なYシャツは風にぶつかって、バサバサと音を立てていた。

………………まさか。

僕じゃない。それは絶対的な答えなのだ。でも、一応。答え合わせはしておこう、うん。

僕は以前、陽菜がやっていた幽霊の手と人間の手の見分け方を実践してみる。簡単だ、太陽に向かって手をかざして、透けたら幽霊であるという証明。今は夕方だが、太陽は色が濃いだけで存在する。問題はないだろう。

 僕は夕日に向かって、おそるおそる右手をかざす。


「嘘だ」


 僕の右手は綺麗に透けていた。淡い輪郭のみ残して、完全に透明になっている。前に陽菜がやって見せてくれたのと同じ透け方だった。それはつまり、僕も陽菜と同じ幽霊だという事を証明している。

 僕が幽霊。

 自覚すると、そこから先は実にスムーズに進んでいく。誰に教わる事なく、重力の縛りが薄くなりフワフワと浮遊出来るようになった。体は半透明となり、物体にはこちら側から触れようとしない限り、すり抜ける。どこまでも自由で、不安定な存在。

 心の中に寒気が生まれる。消える気配は一向にない。これは幽霊になったらずっと続く職業病みたいなものなんだろうか。


「はあ~」


 小さな吐息が口から漏れる。もう死んでいるんだ。つまり僕の姿は家族には見えない。陽菜がそうだったように。

 んっ?

 家族の顔が出て来ない。


「あれ?」


 両親の姿が深く白い霧に包まれてしまった。シルエットすら映らない。

家族だけじゃない、友人から親戚に至るまで、僕と親しかった人達の顔や声、何もかもが、記憶のどこにもいない。深く白い霧に包まれている。


「皆、出て来ない……」


 その場にペタンと腰を落とす。道路の中心だが、別に今の自分に影響ない。時折走る車は自分を通り抜けて向こうへ走っていく。

 記憶の鞄は空っぽだ。親しい人達から順に失くしていき、人生で出会った人がどんどん失っていく。記憶の結晶体が順次砕けている。その瞬間は自分でも分かる。

心の中にあった寒気の正体はこれだったのだ。

決して止められない、どんどん消えていく……。

 どれくらい時間が経ったのか――。

 相変わらず地面に座り込んでいる僕の頭は、異常な爽快感に支配されている。人を忘れたのだ、その分頭が軽くなったのだろう。当然、欠片も嬉しくない。

 現段階で僕の記憶の結晶体が割れなかったのは、一人だけ。


「陽菜」


 忘れてないか確かめる為に彼女の名前を声に出す。空気を震わす彼女の名前。スカスカの記憶の鞄にただ一人。彼女だけは砕けなかった。

 良かったっ! 本当に良かったっ!! 覚えているっ!! 僕はちゃんと皆瀬陽菜と覚えている。彼女は大切な、世界で一番大切な人。

陽菜の事を忘れなかった、消えなかった。それが途方もなく嬉しい。 

その時、前にどこかで陽菜が言っていた言葉を思い出す。

 ――世界で一番大好きな人には見てもらえるから。

 きっと陽菜には僕の姿が見える。確証がある。それはとても簡単で当たり前の事。

僕は陽菜が世界で一番大好き。それだけの事なのだ。

 好きを数字にしたら、どっちが勝つかだって?


「ふっ」


 会話を思い出して笑みが生まれる。僕に決まっているじゃないか。まあ、陽菜も結構頑張った方ではあるかな。僕を覚えているのだから。

しかし、それでも僕が勝つだろう。負けなくないし、負けない不思議な自信がある。


「行くか」


 長い事座っていた地面から立ち上がった。

世界は僕を見失っている。

それは例えば、道路の真ん中で座ったりしても何ら影響なく、稼動し続ける世界。酷い世界だ。けれど、もう怖くない。

僕には陽菜がいるのだ。

 気付けば、寒気の代わりに心地良い温かさが心の中に広がっていた。まるで、温泉に入っているみたいで、寝てしまいそうになる。

 今なら陽菜に喧嘩の件を話すのもすぐに出来そうだ。僕は再び走り出す。

 幽霊なのに走るというのは、妙な感じだがまだ陽菜みたいに上手にフワフワ移動が出来ない。地面から数センチ以上浮くと、風が吹いたらタンポポみたいに飛ばされてしまいそうになる。浮遊するコツを幽霊の先輩である陽菜に教えてもらおう。ああ、でも幽霊散歩に僕は魅力を感じないんだよなー。

僕には自分がいつから死んで、幽霊になっていたか分からない。

 ひょっとしたら、何日も前から人間ではないかも知れない。

 さっきのタクシーと交通事故は死体がないから違うだろう。

 でも数時間前はまだ、人間だったかも知れない。

 その辺りも詳しく陽菜に聞かないとなあ。何せ、彼女は僕より僕を知っている。大変不思議だが、これがまた事実なので肯定しか出来ない。考えながら地面を蹴り、飛ぶように走ると、視界にけやき公園が映った。


「着いた」


 息一つ上がらず、空気のように軽い体に感心しつつ、僕はけやき公園に入る。

 前回と同じく遊んでいる子供達を横目で見つつ、古い木のベンチへ。

 そこには、空を見ている陽菜の姿があった。

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