「第3章 二酸化炭素」
生きている時の陽菜との最後は喧嘩だった。今までも喧嘩はよくやっている。どこのカップルだって一回は絶対するだろう。ウチだって例外じゃない。
とある日の夕方。
きっかけは小さな口喧嘩。学校の行事が忙しかったのを言い訳に、僕は陽菜の些細な軽口を上手に受け流せなかった。いつもならどうって事ない陽菜の冗談に我慢が出来なかった僕は言ってはいけない事を言ってしまう。
“あー、もうっ。陽菜が彼女なせいでこっちは大変だよ”
言葉は口から出した以上、戻せない。陽菜の耳に入り、一生の記憶として住み続けてしまう。
幽霊となった陽菜と接して分かったのは、喧嘩の事をすっかり忘れていた事。だから、あの日に僕の口から出た毒は今、彼女の中にいない。でもだからと言って、謝らずこのままにはしておけない。
僕の耳には毒が未だ住み続けているのだから――。
放課後。
校門から、捻った蛇口から溢れる水道水のように、生徒が一斉に流れ出す時間帯。僕と陽菜はその流れに乗って下校していた。
「いやあ、今日も終わった終わった~」
「陽菜は特に何もしてないだろ」
隣でフワフワ浮きながら疲れたように両手を上に伸ばす陽菜。実際に疲れているのは僕である。
「いやいや、こうしてフワフワするのって結構大変なんだよ」
「えっ、そうなの?」
意外な事実だ。もしかしたら幽霊なりの人間には分からない独特の疲労があるのかも知れない。
「うん。悠君が何か失敗しちゃわないかしらって。ずっと考えてるから」
「フワフワ関係ないじゃんっ!」
僕がそう言うと、陽菜はテヘっとした顔で手を後ろへ持っていく。彼女にはいつも振り回されっぱなしである。
通学路の左側にけやき公園が見えた。けやき公園とは、グリーンドアと同じく変わらない街の景色の一つ。普通の公園と比べたら大変小さくて、周囲を背の高いマンションに囲まれているせいか、余計に閉鎖感が増す。遊具も、スベリ台と砂場、小さな鉄棒とブランコが二つずつ。
ローラー滑り台も大きな樹もシーソーもない。
至ってシンプルな公園だ。
幼稚園時代、このシンプルなけやき公園が楽しかった。行けば必ず誰かが遊んでるから、何の約束もいらない。缶蹴りなんて大きい遊びは出来ない。だが、当時の僕達には関係なかった。
缶蹴りの代わりに砂場でトンネルを作り水を流し、鉄棒で逆上がりをして、ブランコを目一杯漕いだ。あの頃程の無敵さはもう、手の平に収まるくらいにしか残っていない。あの頃遊んだ友達も、高校になると疎遠になる。
それでも、けやき公園で遊んだ思い出がまで疎遠になった訳じゃない。あの頃の僕は今もここで遊べるのだ。
「うわぁ、懐かしい~」
「陽菜は電車通学だもんね」
高校から陽菜は私立の女子高に通っている。けやき公園は本当に久しぶりだったのだろう。公園全体を眺めながら懐かしそうに目を輝かせていた。
「入ってく?」
「うん、行こう!」
僕達はけやき公園に入った。公園内には子供達が数人、各々遊んでおり、自分達のような高校生の姿はない。出来れば久しぶりに砂場でトンネル建設遊びをしたいが自重しよう。
「そうだ、砂場にいる子達に仲間に入れてもらって遊ばない?」
「いいです」
自重した僕と違って恥ずかしがらない陽菜は笑顔で提案するが、幾らなんでも無理だ。
「大丈夫大丈夫。私達の方がけやき公園の先輩だよ? ドーンとして行けば仲間にしてくれるって」
「余計にいいです」
「えー、ケチ~」
「ケチって……。取り敢えずベンチに行こうよ」
「はーい」
僕達は古くて固い木のベンチに腰を落とす。このベンチは公園内の一番奥にあるので、公園全体が視界に映る。
ブランコ、砂場、スベリ台。本当にどこも変わっていない。自分だけが大きくなって、世界は歳を重ねていないと錯覚しそうだ。
ベンチの屋根は細い木を網の目にして作っているので、完全に雨風を凌げる物ではなく、日陰や外観目的になっている。
僕はこの独特の屋根が嫌いじゃない。耳に入る、知らない子供達の声が心地良かった。
隣に座った陽菜も恐らく似たような事を考えているのか。幸せそうな顔で子供達を眺めている。
言えるなら今かも知れない。
どこから声が聞こえた。今、陽菜の機嫌は良い。言えるチャンス。勇気を出して口を開け、酸素を取り込む。言葉を出す為に肺の中にしっかり酸素を浸透させて、僕は声を出す。
「あ、のさ」
「うん?」
思ったより肺に浸透しておらず、一声目がどもってしまったが、陽菜をこっちに向かせる事には成功した。首を傾げる彼女に言葉を続けようとする。
言え、言うんだ。
どこからかの声がしつこく主張する。
「実はさ」
「実は?」
「えっと……」
興味津々の瞳で聞き返す陽菜に、声が止まってしまった。完全に浸透不足、まだまだ酸素が足りなかった。そんなに焦げ茶色の瞳を輝かせて僕を見ないでほしい。
そんなを顔されたら……。僕が言った言葉を聞いてどう反応するか、簡単に予想出来てしまう。陽菜の悲しむ顔なんて見たくない。
「そこで切られると気になるんですけど~?」
頬を風船にして訴える陽菜。
消える瞬間の線香花火のような僕。
「ベンチの裏に名前彫ったのって覚えてる? あれって実は、今でもちゃんと残っているんだ」
「なぬっ!?」
背をピンと張って驚く陽菜に僕の心は穏やかに萎んでいく。
いくじなし。
またどこからかの声が聞こえた。古い木のベンチは固く、座る面には特に落書きなんて見当たらない。
もしかしたら、自治会的な人達が清掃時に消しているのかも。だとしたら、悪い事をしたな。当時の僕達はベンチの裏に尖った石を使って、名前を彫ったのだ。絶対に消えないように、力を込めて何度も深く自分の名前を彫った。僕達は立ち上がりベンチの裏にしゃがみ込んで覗く。
ベンチの裏の右端に、世界から隠れるようにして、汚いひらがなで二人の名前が彫ってあった。幼稚園時代の自分の字。字を書くのが無性に楽しかった時だ。
「お~! 今でもあった。ほら、ここ」
「懐かしい」
「あの頃二人で書いて、ずっと秘密にしてたんだよね。だからこれを知っているのは私達だけ」
「そうだった。本当に誰にも言ってないの?」
「勿論っ! 恥ずかしいのと怒られるかも……ってのがあって、誰にも言ってないよ」
あの頃の無敵な自分達は、一体どんな気持ちで彫ったのだろうか。“かたくらゆうと”っと彫られた文字は書き慣れていない不格好な字。
無敵な自分と目が合う。
逃げるなよ
そう言われた気がした。さっきからの声の正体はコイツか。成程、予期せぬ相手に小さく笑みが出る。昔の自分にまで励まされて、まだ言えないのか。それでも男か?
ハッキリ言おう、決めた。
僕は意を決して立ち上がる。
「陽菜っ!」
「はい?」
少し震える声に気付いたのか。彼女は変な顔をしている。これからの展開が読めないって顔だ。
「実は陽菜に言わなきゃいけない事が……」
「ダメッ!!」
言おうとした言葉の出先を陽菜が人差し指を立て、僕の口に当てる事で封じた。今度は僕が変な顔になる。
「悠君、悲しい顔してる。きっと言おうとしている事は、言わない方が良いんだよ」
「そんな訳ないっ!」
陽菜の人差し指を掴んで訴える。言わない方が良いなんて。そんな馬鹿な事あるもんかっ! 胸の奥が温泉に入った時みたいな熱い。
きっと顔も赤い。鏡を見なくても分かる。
目の前の陽菜は優しく微笑んで正面から僕をギュッと抱きしめた。鼻から彼女の匂いが入ってくる。優しくて甘い匂い。
大好きな、世界で一番安心する匂いだ。
「大丈夫大丈夫」
泣いている子供を落ち着かせる母親のように、陽菜が僕の頭を撫でながら優しく囁く。彼女の匂いが雨のように僕の頭のてっぺんから足元まで流れる。
陽菜は言わない方が良いと言った。それは内容を知らないからだ。僕がただ、悲しい顔をしていたせいで、言わない方がいいと判断したのだ。でも、けやき公園に入ってずっと、幼稚園時代の僕に言えって言われ続けている。
昔の僕と今の陽菜。
二人の内、どちらを信用するべきなのか。どうしよう……。
聞く側である陽菜の意見を尊重するべきなのか。答えを知らない方程式を彼女は解かなくて構わないと言った。
それは僕が悲しい顔をしたからで……。
それは陽菜が僕の悲しい顔を見たくないからで……。
止めよう。
僕の中で一つの結論が出た。うん、止めよう。陽菜にここまで心配させてしまったら本末転倒だ。心配させたあげく、さらに悲しませるなんて悪逆非道な真似は僕には出来ない。したくない。
「分かった、言わないでおく」
口に出して宣言する。両肩に乗っていた重石がストンと落ちる音がした。
抱きついてきた陽菜が離れる。陽菜はどこか満足したような、でも少しだけ悲しそうな、そんな顔で。
「そっか」
っとだけ言った。僕達は再びベンチに座る。ちょっと立ち上がっただけなので、ベンチは温かいまま。空に映る火事みたいな夕焼けがとっても綺麗だった。
「何か、しんみりしちゃったね」
陽菜はこちらを見ずに、火事を見ながら言う。
「ごめん……」
「大丈夫大丈夫」
いつもの口癖を言いながら、僕の頭を撫でる陽菜の手は優しかった。彼女はすぐ僕の頭を撫でる。これも癖だ。とっても落ち着く。
さっき抱きつかれた時に、おそらく子供の視線を集めてしまっただろうが、そんな事はどうでも良かった。そう思えるくらいに僕は落ち着いている。
「……」
「……」
沈黙が流れる。嫌な沈黙じゃない。彼女と同じ時間を共有してむしろ心地良い。陽菜と一緒にボーっと夕焼けを眺めていると、陽菜が僕の肩にトンっと頭を乗せてきた。温かい重みが左肩に加わる。風がザァーっと後ろから耳を撫でる。
「いいのかな……」
口から漏れる未練がましい呟きは、陽菜の耳に確実に届いているはずだ。しかし、彼女は何の反応も示さなかった。反応を示さない事が答えになっていると僕は思う。余計に自分が言おうとしている事はダメな事だと、言われているようだった。そう、ダメな事なのだ……。
でも、口を閉ざし続けるのは、もっとダメだ。
小さく息を吸ってゆっくりと吐く。心の準備は再び完了した。今度は今みたいに聞こえても無視出来るような呟きではなく、はっきりと陽菜の方を向いて言うんだ。
こっちが顔を動かしたので、僕の左肩に乗せている陽菜のバランスが崩れて、「おっと」っと小さく言っていた。危なくないよう、逃げられないよう、しっかりと彼女の両肩を掴む。
「やっぱり言うよ。我慢出来ないんだ」
「どうしても?」
真っ直ぐに焦げ茶色の瞳が僕に尋ねる。
一度、言わないって決めたのに? そう聞かれているようだった。だけど、後悔はしたくない。このままだと、いつまで経っても陽菜に流されて永遠に言えない。
肺に溜まっている罪悪感と混ぜながら、酸素を補給する。
「あのね……」
頭の中で言葉を丁寧に選んで紡ぎだそうとする。ちゃんと陽菜に伝わるように。
ところが残念な事に、言葉は口から出ずに頭の中の原稿用紙に書いた時点で、止まってしまった。
「おりゃ」
短いセリフを最後に陽菜に口を封じられたからだ。
しかも口で。
やられた。これじゃ喋れない。
自らの口を使って、まさに口封じをした陽菜の唇は生きていた頃と変わらず柔らかい。
そう言えば、陽菜とキスするの、久しぶりだ。彼女の口から放出される温かい二酸化炭素を舌の上で感じながら漠然とそんな事を考えた。最後にしたのは、えっと喧嘩する前だから……。
記憶のコップをひっくり返して、入っていた水から目当ての記憶を抽出しようとする。確か、僕の部屋のベッドの上だった。
誰にも見られていない二人きりの世界。現状とは正反対だ。
「ぷふぁ~」
口を離した陽菜が水面に上がった時のような声を上げる。彼女の唇が離れると、自分の唇が外気に触れて冷たく感じた。
「……そこまでして聞きたくない?」
「うん、嫌っ!」
満天の笑顔で拒否する陽菜の顔は、ここ最近で一番赤く、林檎のようになっていた。
普段から彼女は僕にベタベタしてくる。けれど、キスとかそう言った類の行為は意外と奥手であり、してほしそうな表情は見せるのだが、自分からしようとはしない。全部僕から行っている。陽菜からする事もない訳じゃないけど、滅多にない。
そこまでの勇気を出してまで嫌だと言ったのだ。僕はさっきから勇気を総動員していたが。陽菜も同じだったらしい。
ここまでされたら流石に言えない。彼女の勇気には勝ってはいけない気がする。この世のどこかに注意事項として赤字で書いてありそうだ。
「分かった、じゃあもう言わない」
「本当?」
「ああ本当」
「本当の本当?」
僕の言葉を疑って本当を重ねる陽菜に同じく、本当を重ねて答える。
「本当の本当」
「よし、おっけいっ!」
どうにか納得してくれたみたいで満足そうに首を縦に振た。
やれやれ……。小さなため息が生まれる。
「じゃあ、帰ろうか」
気付けば火事の夕焼けも後半で、徐々に鎮火されて暗闇へと色を変えてきている。
遊んでいた子供達も公園からいなくなっていた。
「いや~、キスしちゃったなぁ」
先程の行為が今更になって恥ずかしくなったようで、陽菜は後頭部を掻いていた。どうせならもっと恥ずかしくしてやろう。僕の悪戯心が顔を出す。
「陽菜」
「んっ?」
公園から出る直前、足を止めて名前を呼んだ。返事をした彼女も同じく足を止める。
「もう一回」
今度は僕から陽菜の口を封じた。
「むがっ!?」
変な声を出す陽菜を無視して、僕は数分ぶりの彼女の唇にたっぷりと二酸化炭素を補給した。これで当分は持つだろう。口を離した時の彼女が、慌てて左右を見て人を確認して、さらに林檎の熟成度を上げて僕を見てきた。
その顔は今日の良い記念になった。
僕の顔も彼女に負けず劣らず林檎になっているが。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます