「第8章 奇跡の重さについて」
「第8章 奇跡の重さについて」 (1)
(1)
学校に行く事は、巧にとって最早何の感情もない。
毎日の作業として機械的に登校して授業を受けて下校する。
その原因は勿論、いつかの地下鉄で聞いたあの二人の会話だが、巧自身はもう怒ってはいない。むしろ、当然だと思っている。
そもそもこちらからは、何もしていないのに急に話しかけてくる時点で何かあると疑うべきだった。そこに気付いた以上、もうこの前のようにはならない。それにその方が向こうだって助かるはずだ。
教室に入ると一直線に自分のイスへ向かう。
下のロッカーから持って来た教科書やノートを順序よく引き出しへしまうと、巧は腕を枕にして机に突っ伏した。
突っ伏していれば、二人は自分と会話をしようとしない。手段としては一番効率の良い最適な方法だった。一度は話すような仲になっていた以上、わざと
険悪になって話さない方法もあるが、無駄な体力を消耗したくない。それに授業に向けて体力を温存しておくのは、正しい選択である。
朝、登校して来てホームルームまで机に突っ伏す。
この行動を三日も続けると、二人はもう話しかけてこなくなった。本当に眠っている訳ではないので、話し声は嫌でも耳に入ってくる。どうやら、佐原が悠木の隣に座って、課題の答え合わせをしているようだった。その姿が本来のスタイルなのだろう。前方から聞こえる二人の声は、賑やかだった。
チャイムが鳴り各々が自身の席へ戻る中、巧はゆっくりと顔を上げる。
バタバタとした空気が薄れていき、担任を待つ状態へと切り替わっていく。前方で話していた二人も当然、その流れに乗り佐原が立ち上がり、元の席へと腰を下ろす。その間、巧は視線を下にする。そうする事で佐原が席に戻る時に視線が交差するのを避けているのだ。
あの会話で佐原が自分に対してどう思っているか分かっている。ならばそれに沿ってやるだけでいい。結果、佐原との会話は完全に無くなった。彼女に関してはこれで問題はない。しかし、悠木に関してはまだ問題が残る。
担任が来るまでの二分にも満たない時間。悠木は振り返った。
「おう、おはよ。今日も寝てたのか。どうした? 最近、疲れてるのか?」
「……ああ。最近、寝不足で」
「そっか。まあ、夜更かしは程々にな」
一言、二言の会話を終えると担任が教室のドアを開ける。それに反応して悠木は前を向く。前を向く彼の背中を視界に捉えて、巧はため息をついた。
悠木は佐原と違って去年から話をする仲。そのせいでこちらが素っ気ない応対をしても何ともないらしく、担任が教室に来るまでの隙間に話しかけてくる。流石にすぐに会話をゼロにするのは難しいようだ。
ギリギリまで会話を少なくして今日も巧の無機質な学校生活が始まる。
意識を向けていない為、学校生活はあっという間に終わる。帰りのホームルームが終わり、課題の教科書とノートを通学カバンに入れて速やかに教室から出た。部活に入っていない彼は、放課後に用事はない。夕焼けの下、生徒達の間をスルスルと抜けて最寄り駅まで歩いた。
ホームには同じ制服を着た生徒が沢山見えた。
彼らの殆どは降りる駅が同じなので、必然的に改札が近い前へ集中していた。それを知っている巧はいつも迷わず最後尾へと向かう。
こちら側にいる生徒達は一人でいる方が圧倒的に多い。よってとても静かだった。前から聞こえてくる騒がしい生徒の声もトンネルから吹く風が遮断してくれる。もっとも巧は普段、イヤホンをしている為、あくまで副次的な効果に過ぎない。
前に立つ生徒の列に並び、通学カバンから文庫本を取り出す。両耳のカナル型のイヤホンからは、いつもの音楽が流れる。意識は物語の中へ入り、集中していた。
聴覚と意識の両方を封じた事は、普段なら良いのだが、今回は失策だった。
トントンっと誰かが後ろから巧の肩を叩いた。
いきなりの衝撃に両肩が跳ねて、強制的に本の外へ引きずり出される。
緊張したまま、ゆっくりと振り返るとそこには笑顔の悠木がいた。彼は巧と目が合うと困ったように笑って頬を掻く。
「そんな露骨に嫌な顔するなよ。驚かせて悪かった」
「いや、いいけどさ……」
悠木は一人だった。いつも教室で話す男子連中も佐原もいない。てっきり近くにいると思い、周囲を軽く見回すがそこにもいなかった。
すると、こちらの動きを見て悠木が口を開く。
「安心しろ、俺一人だ。折角だし、一緒に帰ろうぜ」
「いや……、」
読みかけの本を読みたいから。
多少強引だが、それで断ろうとする。しかし、それを遮るようにホームのアナウンスが鳴り、オレンジ色のヘッドライトを光らせた地下鉄がやって来た。
「ラッキー。断られる前に電車が来た。もう観念しろって」
馴れ馴れしく肩に手を置く悠木。その手から鉄製の小さな棘が体に侵入していくような不快感を覚えた。結局、巧は観念して静かに頷く。どうせ、駅に着くまでだ。適当に生返事を返し続ければ、相手も呆れるに違いない。
そう考えつつもやはり気乗りしない巧はを重い足取りで地下鉄に乗った。
二人並んで暖房が効いたシートに座る。
教室みたいにすぐに悠木から色々話しかけてくると思ったが、意外にも彼は口を開こうとしない。ぼんやりとした目で遠くを見ている。彼が何を考えているのか巧にはすぐに察しが付いた。
早々に決着を付けようと、巧は自ら口火を切る。
「良い機会だからハッキリ言っておく。もう話しかけてこないでくれ」
「はっ? 何だよ、急に。どうしてそうなった?」
とぼけた顔を傾げて、そう聞き返す悠木。以前の地下鉄での会話を知っているだけにその態度にとても腹が立つ。
「先生に言われたから無理に話しかける役目をさせているのは申し訳ないと思ってる。何だったら、先生には俺から言うから」
「……それをどこで聞いた? まさか、佐原?」
「そんな訳ないだろう。前に地下鉄で話してたのを聞いたんだ。そうそう、佐原だけど、彼女にも今後は話しかけるような事はしない。だから安心してって伝えておいてくれ」
溜まっていた鬱憤を晴らすように言いたい事を早口でまくし立てる。言い終わる頃には心臓がカッっとなっていた。巧の話を聞いた悠木は驚いた表情を見せた後、下を向いてしまった。この状態が続くのは面倒だ。次の駅で降りて、電車を変えよう。
そう考えて下を向いている悠木に特に何かを言う事はしなかった。
地下鉄は一つの駅に到着する。その駅は本来降りる予定の駅の三つ前だった。ドアが開き、降りる乗客に混じって巧も地下鉄を降りた。馴染みのないホームは、どこか現実感が希薄でそれが逆に冷静さを取り戻させる。
巧は振り返り、閉まろうとするドアをホームから眺める。
すると、下を向いていた悠木がハッと起き上がり、ホームへと飛び出した。急に彼が降りようとしたので、閉まりかけたドアが彼と接触して、驚いてまた開き直す。そして三秒程開いたのち、今度こそちゃんと閉まった。
閉まった途端、発車する地下鉄。
ホームに降りた乗客は、皆近くの階段から改札へと向かい、残っているのは巧と佐原の二人だけだった。
「何で降りたんだよ。馬鹿」
ホームに降りた佐原に巧は冷たい言葉をぶつける。佐原はこちらを真っ直ぐに見つめて目を逸らそうとしない。
「きちんと話をしよう。話をしてくれたら明日からお前に話しかけないと約束する。拒否したら、今まで以上に話しかける。しかも毎日、待ち伏せして今日みたいに一緒に帰ろうとするぞ」
「……分かった」
もう話しかけないメリットを取る事を選択した巧は、悠木の提案を了承する。二人は、ホームにあるプラスチック製のベンチに腰を下ろした。
「それで、きちんと話って何を話せばいいわけ?」
座って早々喧嘩腰になる巧。彼にとっては会話さえしてしまえばいいので、内容自体はどうでもいい。それに悠木が何を言ってきても例の会話がある限り、心が揺らぐ事はなかった。
「そんなに怒るなって。まあ、そうは言っても難しいか。俺も立場が逆だったら同じ態度を取ってる。だからこそ、まずは謝らせてほしい」
「謝るって何に?」
悠木の真意は分かっている癖に敢えて知らないフリをする。それにもめげず彼は言葉を続けた。
「全部だ。先生に頼まれてお前に話しかけた事から、佐原とあんな話をした事まで全部。謝らせてほしい、悪かった」
悠木は巧の方を向き、頭を下げて謝罪する。
その様子に巧は言い辛そうに目線を逸らす。
「別に最初から怒っていない。むしろ、考えたら当たり前だって思うから」
「当たり前って?」
「普通に考えて何もキッカケがないのに話しかけてくる方がおかしい。そこに気付けなかったこっちにも非はある」
ココ数日ずっと考えていた事を口にする。そうすると、不思議と体が軽くなった気がした。腕を組み、電光掲示板を視界の端で捉える。次の電車が来るまであと、四分程度。
巧の言葉を聞いた悠木は、珍しく動揺した顔になった。そして、その顔をぐっと堪えて、諭すように話す。
「卑屈に考えるのは止めておけ。損するだけだ」
「はっ!」
どの口が言うんだよっ!
それが真っ先に浮かんだ感想だった。原因の癖に棚に上げて、上から説教してくるなんて。最後の会話だから、これ程図々しいのか。そう巧が考えていると、悠木は更に畳み掛けてくる。
「お前が怒るのはもっともだ。だけど言わせてほしい。他人に対して最初から壁ばっか作ってると、大事なものを見逃してしまう。今回は、俺と佐原が全部悪い。だけど、この先そうじゃない時があったら……」
次第に勢いが萎んでいく悠木の話を聞いて、沙代と××が頭に浮かんだ。同時に浮かんでしまった事にどうしようもなく腹が立った。
沸点近くまで上った感情は、そこで止まる。トンネルから吹く生暖かい風が思考力を停滞させたからだ。巧は鼻から大きく息を吐いた。
「先生にそんな事まで頼まれたのか。そこまでされると逆に申し訳ないな」
「香月っ!」
悠木がこちらの胸ぐらを掴んだ。
ダッフルコートが引っ張られて、抵抗なく悠木に寄る。近付いた分、よく見える彼は震えていた。悲しみとか怒りとか様々な感情が混ざっていた。
潤み震えた瞳で睨んでくる悠木。
ああ、本気で怒ってる。引っ張られた力の強さからそれが伝わってきた。
伝わって初めて、巧は悠木への態度の悪さを後悔した。
最初から向こうは真摯に対応していたけど、こちらは終始適当にしている。それは勿論先にされたからだ。たとえ謝られたって過去が綺麗に消滅するものでない。むしろ、色が変わって大きくなる。
「離してくれよ」
「ああ……」
風にかき消されそうな小声だったが、悠木まで届いたようで、彼は素直に手を離した。伝わっていた力が失われて、二人の距離が元に戻る。
ホームに電車の到着を知らせるアナウンスが響く。それは会話の終了を意味していた。巧はベンチから立ち上がり、乗り口まで歩く。
「おい、待てって。まだ話は終わってない」
後ろから慌てて追いかけてきた悠木が肩を掴んでそう訴えるが、乱暴に振り解いて、巧は彼から離れていく。
しかし、それでも悠木は諦めない。
走って駆け寄り再度、巧の肩を掴む。今度は簡単には振り解けないよう、かなりの力が込められていた。
「っ! 離せよっ!」
巧の口から乱暴な声が出る。その声に反応して、ホームに並んでいた何人かの乗客の目がこちらを向いた。恥ずかしさを感じて耳が熱くなっていくが、次の瞬間には解決策を思い付いて、すぐに鎮火する。
イエローブースターを使えばいい。
次に使う時は、結論を出した時にと決めていた。それがこんなくだらない事で使う事に罪悪感は少なからずあるが、天秤にかけた場合、この状況を打破出来る方に傾いていた。
今尚、凄い力で肩を掴み真っ直ぐな瞳でこちらを見てくる悠木。
無責任に鬱陶しそうな視線を向けてくるホームにいる乗客。
これら全ての問題を解消するにはイエローブースターという奇跡に頼るしかない。この場所から逃れて、家にワープする。
もし例えば、次に目を開くと自分の部屋にいたとしたら。
願う奇跡を考えて巧は、右手を上げる。掴まれていたのが左肩で良かったと小さく安堵した。
「イエロー……」
奇跡の名前を告げようとする。
すると、肩を掴んだままの悠木の寂しげな表情を浮かべた。
「イエローブースターって言おうとしているのか?」
「……えっ?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます