「第6章 開かれた二枚のルーズリーフ」 (3)

(3)


 とある港町の中学校に転校した。そこはそれまで住んでいた場所から、かなり離れており、新幹線に乗って移動する距離だった。引っ越しは旅行気分で新幹線に乗れた事を喜んでいる内に過ぎていった。


 これまで何度かの転校をした経験があるので、最初はこの学校でもすぐに溶け込めると思っていた。しかし、それは間違いだった。


 同じ日本語を話している、それしか共通点がないのではと勘違いしてしまう程、彼らと自分には絶望的なまでの距離があった。


 日を追う毎に教室での口数は減っていき、一ヶ月も経てば誰とも話さず一人で小説を読むようになった。転校初日は珍しさから都会の事を何度も聞いてきたクラスメイトは、もう一人も話しかけてこない。


 だが、そちらの方が気楽だった。クラスメイトよりも小説の登場人物の方が、話が通じる。なので現状に何の不満はなく、むしろ邪魔しないでほしいと思っていた。


 小説を読む事と勉強をする事で一学期は過ぎていった。


 自由を謳歌して幸せだった夏休みが終わり、二学期が始まった。


 始業式後、久しぶりの再会を盛り上がるクラスメイト達。そんな中でも自分は相変わらず空気と化して一ヶ月ぶりの固い木のイスに座っていた。


 黒いリュックから取り出した文庫本を開く。


 始業式直後の担任が来るまでの中途半端な時間。ざわざわと騒がしい教室の雰囲気のせいで中々読書に集中出来ない。それでも頑張って文字を読み進めた代償で次第に瞼が重くなっていく。


 早く帰りたい、昨日の今頃は家に入れたのに。その感情が肥大化してく。


 その状態だったからこそ、自分の耳にとある情報が伝わった。


 それは、この学年に転校生が来る話。勿論、田舎の港町にある中学校には一クラスに二人も転校生は来ない。クラスメイト達の会話を盗み聞くと隣のクラスにやってきたらしい。


 自分と同環境の人間が来た。


 その事実に自然と感情が高ぶる。この苦労を、この気持ちを初めて対等に分かり合えるかも知れない。淡い期待を胸に文庫本を閉じて立ち上がり、転校生がいるという隣のクラスへ向かった。


 教室では、数ヶ月前の自分の状況が再現されていた。


 転校生の席の周りには大勢の生徒が集まり、本人を囲んでいる。


 ああ、あれって外から見るとこういう光景になっていたのか。


 客観的に見て、その酷さを確認する。


 他のクラスに知り合いはいないので(っと言うかこの学校にいない)他の生徒のように軽い足取りで教室に入れない。


 それでも何とか生徒の隙間から転校生の姿を覗く。


 人と人との間に見えた転校生の姿。明らかに自分と違って社交性に優れたオーラがあった。まだ会って数分のはずなのに気軽に話している。


 途端に先程まであった感情が冷めていった。あれは根本から自分とは別のタイプの人間だ。境遇が同じなだけで、とても分かり合えるとは思えない。


 教室内から明るい笑い声が聞こえてくる。


 目的を果たした自分は早々に振り返り、教室へと戻った。


 ほんの束の間だが、この学校に来て初めて気分が上がった。明日からはまたくだらない学校生活が待っている。


 教室のイスに座り、文庫本を手に取る。しかし、今のダメージが大きくてすぐに本を開く気になれない。


少ししてから、再び文庫本を開く。教室でする事はこれしかないので、たとえ今は読みたくないとしても開く他なかった。


 まあ、隣のクラスだから、今のところ体育以外は関わる事はないだろう。


 向こうの話には出るかも知れないが、それだけだ。


 諦めにも似た重いため息と共に、強引に小説の世界へと帰っていく。


 そんな予想は早々に壊れる事になる。


 それは九月二日の一時間目と二時間目の休み時間に起きた。


 誰もがまだまともに頭が働いていない中で無理矢理行われた一時間目。一学期よりも遥かに長く感じた授業を終えて、訪れた休息を楽しんでいた。


 冷房が効いているので、教室のドアは閉まっている。十分の休み時間なのでトイレ以外は教室から出ようとしない。ダラダラと周りで話しているだけだった。そんな中、勢い良く音を立ててドアが開いた。


 反射的にクラスの視線が開いたドアへと集中する。


 ドアを開けたのは、隣のクラスの連中。男女合わせて四〜五人の固まり、その中に昨日の転校生がいた。


 皆の視線が集まるのもお構いなしに、転校生を中心としたグループは自分には出来ない軽やかな足取りで教室へと入っていく。


 よく他の教室に入れるな。そう感心していると、当人達はなんと自分の席までやって来た。


 まさか来るとは思わなかったので、体が硬直してしまう。


 そんな自分に転校生は明るい顔で手を伸ばしてきた。


「初めまして、×は××。君も転校生なんでしょう? 昨日、聞いたんだ、このクラスに同じ転校生がいるって。折角だから転校生同士、仲良くしよう」


 この地域独特のイントーネションが強い方言じゃない。所謂、標準語を家族以外で久しぶりに聞いた。


 相手の雰囲気に圧倒されるが、クラスの視線が自分と××に向けられているのを感じ、慌てて手を伸ばす。


「……よろしく」


「前はどこに住んでいたの?」


「東京」


「本当? 一緒じゃん。東京のどこ?」


「——区」


 ××と適当な会話を往復する。こちらは出来るだけ素っ気なく対応した。


 どうせ、来週には自分の事なんて話さなくなる。だから、今の内から簡素にしておいた方がいい。そう考えての対応だった。


 ところが、その予想に反して××とは来週になっても会話が無くなる事はなかった。とは言っても、廊下での一言、二言で三行以上の会話はない。


 また××は月日が経っても空気にならず、周りに受け入れられていた。それなのに自分と話すのを止めようとしない。


 話をしても、デメリットでしかない事に気付いていないのだろうか。


 いや、気付いていない訳がない。では何故? いつもよくいるグループだって絶対に止めているはずだ。現に集団で廊下を歩いている彼らの中に××がいて、向こうから話しかけてくると露骨な視線を向けてくるのもいる。


 それなのに××は平然とした顔で話しかけてくる。こちらからは、話しかけないようにしているのが、馬鹿らしくなる程だ。そんな日々が一ヶ月経ち、すっかり生徒達の夏休みボケが治ったある日の放課後の事だった。




 連休前に出された宿題を学校で半分消化してから、帰ろうと決めた自分は、放課後二時間を図書室で過ごしていた。


 ようやく目処が付くまで終わり、重い足取りで校舎横の自転車置き場へと向かう。運動部連中の銀に土色が付いた自転車しか残っていない中にポツンと残った自分の自転車に辿り着きポケットから鍵を取り出した時、背中をトントンっと叩かれた。


「っ!?」


 突然の衝撃にビックリして、両肩がウサギのように跳ねた。振り返るとクスクスと笑う××の顔があった。


「ごめんごめん、驚かすつもりはなかったんだ。一緒に帰らない?」


「一人?」


 もはや当たり前のように、誰かと一緒にいる××にとって、一人でいる事はとても奇妙な事に思えた。ひょっとしたら、初めて見るかも知れない。


「うん。皆、帰っちゃった。なんか、用事があるんだって」


「……成る程」


 ××の笑顔の裏にある独特な空気。それを自分はよく分かった。


 転校生なら誰もが体験しているその感覚。


 どれだけ仲良くしていても所詮はよそ者。ゲストとして受け入れられても本格的な輪には入れない。入らせてもらえない。それはこういった閉鎖的な地域でも頻繁に転校生が来るような都会でも発生する現象である。


 ××が話しかけてきた背景を理解して「分かった」っと自転車を出す。


 校門から出て二人並んで帰る。


 ××は自転車通学ではないので、乗らずに押して帰る事にした。


 どこまでも広がる夕焼けの下、不思議なくらい居心地が良い沈黙が続く。


 しばらくその時間が続き、田んぼに囲まれた田舎道の角を右に曲がった時、××が「う〜ん」っと大きく両手を上げて背筋を伸ばした。


「あー。つまらない」


「えっ?」


 突然の告白にそう聞き返す。すると××は慌てて手を横に振った。


「あっ、違う違う。一緒に帰ってるのがつまらないんじゃなくて、今の学校生活がつまらないって事だから」


「ああ、そっちね。それなら大丈夫。こっちも同意見だから」


 つまらない。それはそうだ。この学校に来てから心から楽しいと思える事なんて片手で数える量しかない。××はそうじゃないと思っていたが、今日××も自分と同様に大変なのだという事が分かった。


「これからも時々、一緒に帰らない? どうせいつも一人なんでしょ?」


 痛いところを最後に突かれた。これでは断れない。


「別にいいけど。そっちはいいの? いつも一緒にいる連中、俺の事嫌いじゃんか。連んでると飛び火すると思うけど」


「平気。そっちよりはコミュニケーション能力あるんで」


「そりゃ凄いね」


 ふて腐れたようにそう吐き捨てると××はケラケラと笑った。それからまたしばらく歩くと、××の住んでいるというマンションが見えてきた。


 ××の家はこの辺りでは比較的大きく新しいマンションだった。


 玄関前まで送ると、手を振り「また明日学校で」っと言ってきた。こちらもぎこちなく手を振り「じゃあ」っと返す。


 その日から一週間に一度××と帰るようになった。




 メールアドレスも交換していないので、事前に待ち合わせをする訳ではない。こちらが下校時に自転車置き場へ行くと、既に待っている××と合流して一緒に帰る。ただ、初回の影響が強いのか、自然と金曜日になっていた。


 帰り道では何か話が盛り上げるより無言の時間が多い。


 自分はそれがとても心地良かった。自身立場を共有出来る人間が傍にいるというのはこうも安心するのかと再確認出来た。


 いつもは相変わらず××は元気で、お決まりにグループと一緒にいる。


 学校で見る時の××と放課後一緒に帰る時の××。


 一体、どちらが本当の××なのだろうか。きっと本人にも分からないくらい上手に使い分けているのだろう。


 日常に新しい習慣を加えて日々は過ぎていく。


 転機となったのは、秋が深まり風が強くなり始めた放課後の事。


 いつものように二人で帰っていると、突然××が足を止めた。それはまるで誰かに再生ボタンを止められたのではないか錯覚する程、突然だった。


「どうした?」


 隣を歩いていた自分も立ち止まる。


「なんか今、凄いモヤモヤする」


「どっか体調が悪い?」


「いや、こんなの初めてだ。何か自分の体の中が不快」


「体の中が不快? ごめん、ちょっと意味が分からない。どういう事?」


 言葉の意味を尋ねるが××自身、正確に把握出来ていないらしく腕を組んで不思議がっていた。


「おかしい。体を動かすと謎の変な嫌悪感が出る。どこも痛くないのに」


「家までキツい? だったら、家に電話して親に迎えに来てもらうとか」


 その提案を××は首を横に振って拒否する。


「無理。今、あの家誰もいないから」


「そうなんだ」


 今まで知らなかった××家族事情を聞いてしまい新鮮さと申し訳なさの両方を感じていると××はゆっくりとその場にしゃがみ込んでしまった。


 事態の深刻さを理解して自転車のスタンドを立て××の下へ駆け寄る。


「そんなにやばい? 救急車呼ぼうか?」


 持って来るのを禁止されている携帯電話をブレザーの内ポケットから出す。すると、××はこちらの手を掴んだ。そこに力は殆どない。


「大丈夫。ちょっとずつ収まってきたから」


「なら、いいけど」


 ××本人の自己申告により救急車を呼ぶのを止めた。取り敢えず立ち上がり本人の回復を待つ。


 五分、十分、十五分。


 腕時計の秒針と××を交互に見る。あれから××は呼吸により僅かに背中が上下するだけで他は一ミリも動いていない。


「なぁ、本当に大丈夫?」


「大丈夫……」


 全然大丈夫そうに見えない。どうやらさっきのは、救急車を呼ばれない為の嘘だったようだ。ただ、向こうだって嘘がバレた事を分かっているはずだ。


 だからこそ、救急車を呼ぶのは躊躇われた。××の呼んでほしくない事情がハッキリしないからである。田んぼに囲まれた田舎道は見通しが良く今、現在車も人も通っていない。信号だけが意味のない仕事をしている。


 遠くの森から鳥の声が聞こえた。


 都会じゃ聞こえない鳥の声だった。


 小さく深呼吸をする。


 使うのは久しぶりだが、問題はないだろう。念の為に周囲を軽く確認する。十秒以上、誰も通らないのを確認してから、目を瞑った。


 もし例えば、××の中にある不快感がイエローブースターで消えたら。


 そう願って、右手を振った。


「イエローブースター」 




 全ての音が一瞬、聞こえなくなった。




「うっ!」


 頭に氷の針を刺したかのような冷たく鋭い痛みが襲ってくる。堪え切れず、声を出してよろめいた。


 痛みを感じるなんて初めてだ。どうして? 久しぶりだから?


 謎の痛みに疑問が浮かぶ。しかし、すぐに答えは出ない。それを考えている内にしゃがみ込んでいた××がすっと立ち上がった。


「何か急に大丈夫になった」


 自分自身でも意味が分からないと言った表情で首を傾げる××。


「良かったじゃないか。これ以上続くと本当に救急車呼ぶところだったよ」


 まだ若干の痛みが響く中、軽口を言って、自転車のスタンドを蹴った。


 カシャンと音が響く。


 夕焼けが空一面を支配する中で二人はまた歩き始めた。


 別れるまで何度も××はなぜ治ったんだろうか? っと不思議がっていた。まさかイエローブースターで治したなんて言えないので、疲れていたんじゃないかと言葉を濁して対応した。


 結果として、その無責任で曖昧な言い方が××を苦しめてしまう。




 帰り道、突然しゃがみ込む××。その際、発生する体内の不快感をイエローブースターで消す。いつしか、それが習慣となった。少しずつ使用後の痛みは大きくなっていくが、まだ我慢出来る範囲。それに目の前でしゃがみ込む××を無視出来ない。その都度、構わず使い続けた。


 秋がどこかに散歩に行って、季節は完全に冬になった。


 都会では雪が降ると無意識に喜んだが、流石に毎日降られるとそんな感情も失せてくる。今では雨よりも厄介な存在にしか感じない。


 滑って転ぶと危ないと両親に自転車通学を禁止されて、仕方なく毎朝早くに家を出る。手袋越しでも傘を持つ手が段々と冷たくなり、吐く息は種類問わず、勝手に白に変換される。


 その環境下でも一週間に一度、××と帰るのは変わらなかった。


 自転車通学ではなくなった為、ようやく交換したメールでその日の待ち合わせ場所を決める。大抵、人がいない裏門が主流だった。




——その日、自分は珍しく寝坊をしてしまった。


 昨夜、携帯電話のアラームをセットし忘れてしまったのだ。


「……クソッ」


 両親は共働きなので、自分が起きる時間にはもう誰も家にいない。


 時刻は八時二十分を回っていた。


 いつもの倍速で身支度を済ませて、テーブルに置いてあった朝食をミルクで流し込む。壁掛け時計の秒針を恨めしく思いながら、時の流れに抗うように必死で用意をした。だが、決して手を止めようとしない時計の針に焦りを原動力としていたスピードが徐々に落ちていく。


 あー、もうどうあっても遅刻だ。


 時刻は八時四十五分。


 今からじゃ、自転車に乗ったとしても間に合わない。


 いっそズル休みをしてしまおうか。両親には朝起きたら熱があったと言えば誤魔化せる。それに自分が休んだところで、あのクラスに何の影響もない。


 小さく息を吐き、芽生えた悪戯心に従う事に決めた。


 決めてからの行動は速い。


 学校に電話をして、熱があるから休むと告げる。担任は疑いもせず了承した。僅か数分しか着ていない制服を脱ぎ、まだ温かい寝間着に着替え直す。


 いつもなら絶対に見る事のない遅めの芸能系ニュースを流しながら新しく用意したコーヒーを飲む。


 部屋に戻り、ベッドに寝転がって読みかけの文庫本に手を伸ばた。


 丁度キリの良いところまで読んで、携帯電話で時間を確認すると、いつの間にか昼になっていた。そこで初めて、普段は給食だから家にいても昼食がない事実に気付く。


「あ、そっか」


 そう呟いて起き上がり、リビングへ。何かないかと戸棚を探すと、買い置きのカップラーメンを発見した。こういうのはあまり食べたくないのだが、雪の中、外に買いに行くのも面倒なので、仕方なくお湯を入れて三分待つ。


 テレビを点けて、またいつもは見ないワイドショーを流しながら、カップラーメンを啜った。


 食べ終わるとさっさと片付けて再び部屋に戻る。


 イスに座り、黒いリュックを開けた。学校のロッカーにいつも教科書類を置いているので宿題以外の物は入っていない。


 つまり、勉強をしようにもやりようがない。


 現状を確認して、しょうがないと考える。そして目を瞑った。


 もし例えば、リュックにロッカーにある教科書とノートが入っていたら。


 頭の中でそう考えて、右手を振った。


「イエローブースター」




 全ての音が一瞬、聞こえなくなった。




 数秒目を閉じて、黒いリュックを再び開ける。すると先程は入って無かった科書とノートが隙間なく入っていた。明らかに許容量を超えた重さに驚く。


 そうか、教科を指定しなかったから、全教科入っちゃったのか。必要のない副教科まで入っている事をそう分析する。ビッシリ入った黒いリュックから、取り敢えず数学の教科書とルーズリーフを取り出した。


 今頃、学校ではこの辺りをやっているはずだ。


 教科書を開いて、内容を確認。要点を読んでから適当に練習問題を解いてみる。少し厄介だが出来なくはない。しばらく自分なりに勉強をしていた。


 えっとココは、どうやるんだ?


 だが一人で新しい箇所を勉強していると、どうしても限界が訪れる。それに板書をしていないからノートが書けない。定期テスト前に行われる提出物チェックで減点されてしまう。


 あのクラスにノートを見せてくれと頼める人なんていない。


「……ふぅ」 


 連続で使うのは気が引けるがこれしかない。必要な教科書とノートを両手で抱えてリビングへ向かう。


 ダイニングテーブルに部屋から持って来た教科書とノートを置いて、テレビを点けた。ワイドショーがまだ放送されていた。


 もし例えば、今日一日の授業風景がダイジェストで自由に見られたら。


 そう考えて、テレビに向かい右手を振る。


「イエローブースター」




 全ての音が一瞬、聞こえなくなった。




 ワイドショーがフッと消えて、いつも教室の自分の席から見ている視点が映し出された。視界も場所も変わらない。黒板の上にある時計は、一時間目からスタートしている。


 よし、これで大丈夫。


 テレビに映る黒板に書かれた事をノートに書き写して教師の説明を聞く。授業は五十分だが、イエローブースターでダイジェストにしたので、三十分に圧縮されていた。


 また、試しに手元のリモコンのボタンを押すと、ビデオ操作が可能だった。そこでトイレに行く際には一時停止ボタンを押す事にしていた。


 そのまま一時間目から体育を除き、学校の授業に参加したのだった。




「何だか休んだ気がしない」


 六時間目を終え、背伸びながら天井に向かってそうボヤく。


 学校に行ってないのに授業は受けている。これは結局、休みとは言えないのではないだろうか。いや、家にいるのだから、やはり休みなのか。思わずそんな不毛な事を考えてしまった。


 そして、いつの間にかリビングに散在している教科書とノートを纏める。


 イエローブースターは残り一回。最後に使うのはこれをロッカーに戻す事。明日学校に持って行くのも不可能ではないが、歩いている通学している時点でわざわざしようとは思わない。


 掃除の様子を映しているテレビを消して、纏めた教科書とノートを持って部屋へと向かう。


 部屋に入り、最初の時と同じように教科書とノートを黒いリュックに入れた。


 もし例えば、リュックにある教科書とノートがロッカーに入っていたら。


 目を瞑り入れた時とは逆の事を考えて、右手を振る。


「イエローブースター」




 一瞬、全ての音が聞こえなくなった。




 数秒目を瞑った後、視線を黒いリュックへと戻す。黒いリュックは午前中同様に軽さを取り戻し、中身を空にしていた。


 これで終わり。後は、ベッドで横になって体調が悪いフリをしておこう。


 そう考えて、立ち上がった時だった。


 デスクに置いていた携帯電話がブーブーっと大きな音を立て震え出した。


 誰だ? 両親には昼頃に休むとメールを送ったから、連絡が来る事はまずない。担任の先生? いや、でもさっき掃除の時に教室にいた。


 疑問を浮かべながら、携帯電話を開く。


 ディスプレイに表示されていたのは××の名前だった。 


 反射的に通話ボタンを押す。


「もしもし」


「……もしもし」


 弱々しい声が返ってきた。この声色はいつものだ。すぐに事情を察する。


「落ち着いて、今帰ってるところか? 大丈夫だから」


「動けない」


 携帯電話から聞こえる××の息遣いがやけにクリアに聞こえる。まるですぐ傍にいるみたいだった。


「すぐ、行く。そこで待っててくれ」


「分かった」


 寝間着を脱ぎ捨てて、制服に腕を通す。その上からダッフルコートを羽織ったがボタンを掛ける暇はなかった。靴を履く事すらもどかしいと感じつつ、玄関のドアを開ける。朝降っていた雪は止んでいた。


 これなら自転車で行ける。


 玄関に置いてある鍵を取って、駐車場横に停めている自転車に飛び乗った。氷のように冷たく固いサドルに全身の体力を奪われそうになる。歯を震わせて、それに堪えた。


 立ち漕ぎでスピードを出して、一気に学校に向かって走り出した。


 学校へ向かえば××とぶつかるはず。そう確信して辺りを注意しながらペダルを踏む。


 常に××を探しながら走っていたせいだろう。


 ふいに体が斜めになった。それが濡れたマンホールに滑ったからだと分かった時にはもう遅く、体はアスファルトに叩きつけられる。


「うわっ!」


 自転車から落ちて二、三回ゴロゴロと道路に転がる。


 固いアスファルトは容赦なく、体のあちこちを一瞬で強く痛めた。


「くっ……!」


 しばらく、転がった状態から動けなかった。脳は起き上がろうと手足に信号を送っているのだが、体が受け付けないのだ。


 道路左右の深い溝に自転車が落ちたのが、耳に届いた大きな音で分かった。引き上げている時間はない。痛む体を無理矢理起こす。


 足に体重をかけて立ち上がる。その動作だけで辛かった。


「ハア、ハア……ッ!」


 足を引きずって前へと進む。折れてはいないがヒビが入っているかも知れない。


 数分前に戻れるなら、イエローブースターを使うなと強く言いたい。ちょっとくらい重くたって自分で学校に持っていけばいい。そもそも今日休んだのは、本当は風邪でもなくズル休みなんだから。


 歩きながら、過去の軽率なイエローブースターに後悔すると、雪と土が混じった泥が付いて、ボロボロのダッフルコートのポケットが振動した。


 腕の痛みを無視して、携帯電話を取り出す。


「もしもし」


「そろそろ、本当に、ヤバいかも知れない」


「ごめん。少し時間がかかるかも知れない。今、どこ?」


「いつもの辺り。頼むから早く来てくれ」


 こちらの到着を急かす××。それは言葉だけではなく、息遣いや声音。他、全てで訴えていた。


「ああ、すぐ行く。着いたら、またすぐに治ると、思うから」


「……ありがとう」


 ××の声に微かな希望を入ったのを聞いてから、通話を切る。


 切った携帯電話はポケットに入れず、そのまま手に持った。携帯電話の無機質な触感は擦れた手のひらによく染みる。


 しゃがみ込む××の姿を見つけたのは、それから十分後。


 フルマラソンに匹敵する体感時間で視界の先にやっと××の姿を見つけた時は、焦るあまり自分が生み出してしまった幻覚ではないかと思った。


 それでも風が静かに揺らす髪で本物だと自覚する。


 あと少し。ほんの少し歩けば手が届く。


 傷付いた右腕を伸ばしながら××に近付いていく。




 突如、××が立ち上がった。




 まるでイエローブースターを使った時のように、とてもしなやかで軽い動作だった。


 ××はこちらを振り向いていない。自分の存在に気付いていないはずだ。だが、立ち上がったという事は少なくとも回復には向かっているはず。


 ××はこちらに背を向けたまま、ポケットから携帯電話を取り出して耳に当てる。数秒置いて、手の中の携帯電話が振動し始めた。


 通話ボタンを押して耳に当てる


「今、どこまで来てくれてる?」


 携帯電話から聞こえたのは恐怖すら覚える程の軽やか声。どこまでも重みが無く、まるで羽根のようなその声に、一度喉を鳴らしてから、返事をする。


「すぐ後ろにいる。振り返ってくれたら分かるさ」


「ありがとう、学校休んだのに来てくれて。教室に行ったら、休みってクラスメイトが教えてくれたんだ。体調は大丈夫?」


「ああ、うん。それは……」


 ズル休みをした罪悪感から口ごもってしまう。


 あの学校では自分を心配する生徒はいないと思っていた。まさか、隣のクラスにいたとは。完全に想定外である。


「出来る事なら電話したくなかった。体調悪いのに申し訳ないし。でもしょうがないじゃないか。毎回、一緒に帰ると何故か体の不快感が消えるんだから」


 前を向いたまま、××は言葉を続ける。


「いつも家に帰ってからどうしてだろうって考えてたけど、答えは出なかった。だから、いつかどうやってるのか方法を教えてもらおうとしてた。教えてもらえば、一人でもどうにかなると思うから」


「それは、無理だ」


 震える声で××の言葉を否定する。


 やり方を聞かれても答えられない。第一、どう説明する? 


 一日に三回だけ望んだ奇跡を起こせる? イエローブースター? 


 そんな非現実的な事。普通の人間なら信じるものか。気持ち悪がられて終わり。それだけは絶対に嫌だ。


 自分にはあの学校で話す相手は××一人しかいない。


 その××にまで距離を置かれたら本当に空気になってしまう。


 確かに××が転校してくる前までは、そうやって過ごそうと決めていた。しかし、決められたのは知らなかったからだ。


 知ってしまった今は、もうあの生活に戻る事は出来ない。


週に一回。それも帰り道の数十分。


 前に住んでいた所と比べたら、あまりにも小さな時間。だけど、今の自分にはその小さな時間が何よりも大切だ。絶対に手放せない。しかしだからと言って、イエローブースターの説明も出来ない。どこまでも自分勝手だ。


 そこまで考えていた時、静かだった携帯電話の向こうからすぅーっと息を吸う音が聞こえた。


「……そう、教えてくれないんだ」


「ごめん」


「いいよ。教えてくれないのなら、どうしようもない。それに本当言うと、もう平気なんだ。見つけたんだ、自分でどうにかする方法を」


「それは一体、どんな方法?」


 二人の間に沈黙が流れる。××の後ろ姿は見えているのにやたら遠くに感じる。そのせいで足が無意識に一歩ずつ動いていた。


 元々、数メートルの距離だったので、ちょっと歩けばすぐに近付く。


 あと数歩で右手が相手の肩に届く距離まで来た時、沈黙を守っていた××が口を開いた。


「簡単な事だった。たったそれだけで治る。そう永遠に」


「永遠に?」


 こちらの問いに返答する事なく、××は電話を切った。ツーツーっと無機質な音が聞こえる。すぐに携帯電話を耳から離した。


 電話では教えてくれなかったので、直接聞こうと肩へ手を伸ばそうと腕を伸ばす。するとその時、携帯電話が震えた。それに反応して伸ばした腕が空中で静止する。


 メール? 一体、誰から?


 ほんの一瞬、余計な思考が頭をよぎった。その結果、次を遅らしてしまう。


 ××は持っていた携帯電話を手から落として、いきなり駆け出した。


「なっ!?」


 突然の行動に数秒呆気に取られた。その合間に××はどんどん離れていく。


 我に返り、慌てて××を追いかける。


「待ってっ!!」


 渇いた喉が痛む程の大声で叫ぶが××の耳には届かなかった。


 ××は両手を勢いよく振って、一本の矢のように田んぼに囲まれた田舎道を全速力で駆け抜ける。


 右手がもどかしかった。一回でも残していれば止めれるのに。


 右手握りしめながら××を追う。既に走るだけで全身が激痛を訴えてくるこの体では、後ろ姿を視界に捉え続けるのが、精一杯だった。


 ××は突き当たりを曲がり通りに出た。


 一拍遅れて、自分も通りに出る。


 今にもその場で倒れてしまうそうな自分とは反対に僅かに肩を上下させている××は、通りの横断歩道前で足を止めていた。


 何か知らないが、ようやく走るのを止めたようだ。体力が限界だったのも相まって、追いかけるスピードを緩める。




 それが、間違いだった。




 再び、手が届きそうになるまで近付いた時、それまで止まっていた××が弾かれたように道路に入った。それも当たり前のように左右など見ずに。


 そうか、止まっていたのは車を待っていたのか。


 全てが分かった時にはもう遅い。


 怪物のような大型トラックが世界中にクラクションを響き渡らせていた。


 鼓膜に直接響く暴力的なクラクションの轟音。


 加えて体全体に充満する疲労。


 何もかもが判断力を麻痺させる。


 余計な事を考えられなくなった脳が残していた思考は、とてもシンプル。


 ××を助けたい。それだけだった。純度高いその願いを右手に乗せる。


「イエローブースタァァァーッ!」




 一瞬、全ての音が聞こえなくなった。




 叶うはずのない四回目のイエローブースター。


 それを叫び、右手を振り下ろした時、限界を迎えた体は道路に崩れ落ちた。


 崩れゆく意識の中、正面に映る××の姿を捉える。


 イエローブースターと叫んだのが、届いたのか。


 ××は大型トラックをぶつかる直前に振り返った。


 今日、初めて××と目が合う。


 何かを言おうと口が中途半端に開いていた。瞳は震えている。


「あ、」


 最初の一言を発した××。


 途端に大型トラックと接触しそうになる。


 接触したら最後、××の体が血だらけで宙を舞う。貧困な想像力が強引に未来を見せる。


 しかし接触する直前××がふっと消失した。


 轟音を鳴らしていた大型トラックは嘘のように静かになり、本当に何事も無かったかのように走り去っていく。


 良かった、××が無事で。


 暗転していく視界でその事だけを無邪気に喜んだ——。




その後、目が覚めた自分の視界に映ったのは、薄暗い自室の天井だった。


 まだ見慣れない木目の天井。普段は横を向き眠るので久しぶりに見上げる。


「えっ?」


 声が漏れる。漏れた声は、壁掛け時計の秒針の音に弾かれて消えた。


 体を起こして現状を確認する。


 あれ程ボロボロで痛みを訴えていた体は気味が悪いくらい何とも無かった。


 服装は出て行った時と同様の制服にダッフルコート。脱ぎ捨ててある寝間着もそのまんまだ。


 思わず時間が巻き戻ったのではないかと考えて携帯電話を開く。薄暗い部屋に強烈な白いライトが部屋を照らす。


 目を細めながら確認すると、表示された時間は最後に見た時から二時間以上進んでいた。


 ゆっくりとした足取りでベッドから離れて、立ち上がり窓を開けた。


 窓の外は暗く、夕焼けは終わっていた。


「さむい」


 氷を溶かしたような外の冷たさに素直な感想が出る。


 窓を閉めて、部屋の電気を点けた。オレンジ色の明かりの下、イスに座り、あらためて状況を整理する。


 数秒前まで、外は間違いなく夕焼けだった。それなのに今は進んでいる。意識が落ちて時間感覚がおかしくなっているという事だ。


 どうして、外にいたはずなのに家にいるのか。かなり強引だが、誰かに運ばれたと言われたら、おかしな点はあるが頷くしかない。


 そう、そこまでは何とかしようとすれば思える。


 だが、体がどこも痛くない。そこだけが、どうあっても説明つかない。


 自転車から落ちて、転がってボロボロになったダッフルコートも綺麗に直っている。っというか、これは直っているというよりも始めから汚れていなかったと考えるべきだ。


 つまり奇跡が起きた。そして、自分の中での奇跡とはたった一つ。


 イエローブースターだ。


 奇跡が発動している。それを自覚した時、笑みが浮かんだ。


 つまり、××が助かった事を意味しているからである。


 望んでもいない自分の体が直っている現象。それについては、理解出来ないが四回目という事でおかしな不具合が出たのだろう。もしかしたら自分でも気付かない内に瞬間的に願っていたのかも知れない。


 とにかく、イエローブースターは発動した。


 その事実だけを大事にして、イスから立ち上がり寝間着へ着替える。


 何度も着替えて、学校に行くよりも疲れた。痛みはないが倦怠感はある。


 部屋のドアを開けて、音を立てないようゆっくり階段を降りた。


 廊下の奥にある磨りガラスのドアの向こう側は明るい。


 両親は帰っているようだ。


 おそらく、今日風邪で休んでいると言ったから、寝ていると思っているのだろう。少々、喉は渇いているが風邪の事を聞かれるのは面倒だ。今は嘘を貫き通す自信がない。


 水を飲むのは両親が眠ってからにしよう。


 そう決めて、再び音を立てず慎重に部屋に戻った。


 ドアを背にして座り混み携帯電話を開いた。××へメールを送る。


 内容は、状況の確認である。向こうもさぞ驚いているはずだ。最悪、イエローブースターについて話してしまう事になる。


 さっきは教えられないと言ったが、今なら言える。


 正直に何もかも話そう。


 いつもならすぐに返ってくる××からの返信は中々返ってこない。向こうもそれだけ疲れているのだ。メールを見ていない可能性だってある。


 返信が来ない理由をそう考えると、ベッドに向かう。


「あぁ〜。疲れたぁ〜」


 部屋の電気を消してそのままベッドに倒れ込んだ。


 明日になったら××からのメールが届いている。取り敢えずそれを待つとして今日はかなり疲れた。もはや完全にズル休み分の得はない。


 暗い部屋の中、自虐的に小さく笑って携帯電話のアラームをセットする。セットを確認すると、瞼を閉じて意識を落として行った——。




 翌朝、てっきり届いていると思っていた××からのメールはなかった。その事に若干の違和感を持ちつつ、いつも通り雪道を歩いて登校する。


 学校に着き、普段よりそわそわして教室へ向かう。


 きっといつかのように××は直接自分の席まで来る。その確信があったので、休み時間になっても極力教室から出ず、読書をしていた。だが、どうしても向こうがココに来ると分かっていると、読書に集中出来ない。教室のドアが開く度に意識がそちらに持って行かれてしまうのだ。


 これでは気が保たない。しょうがない。こっちから行こう。


 そう決めて昼休み中に自分から向かう事にした。向こうの教室に行くのは××の転校初日以来だ。あれから随分と長い時が経った気がする。


 そんな事を考えながら、教室を出て隣のクラスへ向かう。


 廊下にいる生徒の間を抜けて、隣のクラスを覗く。これだけで結構な精神力を消耗する。何も悪い事はしていないし、すれ違う誰もそこまで気にしていないはずなのに、それでも気にせずにはいられなかった。


 隣の教室のドア付近で話す男子二人組の隙間から、室内の様子を窺う。


 いつもならいる席に××の姿はなかった。


 教室から出ている? 咄嗟にそう思ったが、室内を見回すといつも××と話している連中の姿がいて、談笑している。


 そこにも××の姿はない。


 今日は休みなのか? 昨日の今日で状況に付いていけず知恵熱でも出したのだろうか。××がいない事をそう考えていると、ドア付近で話していた生徒の一人と目が合った。体育は隣のクラスと合同なので、顔は知っているが名前は知らない男子。当然、話した事はない。


「さっきから、ウチのクラスになんか用?」


 彼が自分達の話を中断して質問してきた。もう片方の相手の視線と合わせて四つの瞳がこちらを真っ直ぐに見てくる。


 その視線には、いつまでもそこにいたら邪魔だという裏のメッセージが含まれていた。


 手早く終わらせようと、小さく咳払いをして要件だけを告げる。


「あの、今日って××って休み?」


「はっ?」


 片方の眉を上げて不審な視線を向けられる。そんなにおかしな事を言っただろうか。ただ隣のクラスの生徒が休みか聞いただけなのに。


 そう思いながらも口には出さず、相手の返答を待つ。すると相手は話していた相手と目を合わせて、軽くため息を吐いた。


「そんな奴、このクラスにいないけど?」


「いや、いるでしょ? ほら、俺と同じ転校生が」


 からかいにしてはちょっとタチが悪い。その感情がつい、早口となって返答に出る。今度はもう一人の方が「何言ってんの?」っと口を開く。


「この学年に転校生は、お前しかいねーよ」


「本当に?」


 そう尋ねると二人は不審に心配を混ぜた表情でこちらを見た。その表情で彼ら言っている事は本当で、これ以上の会話は避けるべきだと分かった。


「ああ、ごめん。何か勘違いしてた。うん、本当にごめん。じゃあ」


 相手の返事を待たず、すぐに振り返ってその場から離れる。


 胸が熱い。緊張にとても似ているが、違う種類の感覚に襲われている。自分の席に戻ると腕を枕にしてその場に突っ伏した。周りからは眠っていると思われるだろう。冗談じゃない。とても眠ってなんかいられない。


 少しでも早く時間が進んで、放課後になる事。それだけを祈って、残りの休み時間を過ごした。


 放課後、一目散に教室を飛び出して、学校から出る。前を歩く下校中の生徒を何人も抜き去る。途中、肩がぶつかり訝しんだ目を向けられるが、構っていられない。


 昨日も今日も全力疾走をしているが、意味が違っている。


 田んぼに囲まれた田舎道を全速力で駆け抜ける。


 ××が住んでいるマンションの前までやって来た。


 肩で息をして、呼吸を落ち着かせると、エントランス前まで歩き、マンションポストを確認する。何号室かは知らないが、名前は絶対にある。


 一階から順に××の名前を探していく。見逃さないよう、各階につき三回は見直した。それでも探している名前は見つからない。


 思わずその場に倒れ込む。


 同時に、ようやく自分が壮大な勘違いをしていた事を知る。




 イエローブースターは××を助けてなどいなかった。


 それどころか存在を消してしまった。




 そこからどうやって家に帰ったのか。明確な記憶はない。


 気付いたら家の前にいた。


 まだ両親が帰っていない家の鍵を開けて中に入る。


 階段を上がり部屋に入った。


 天井を向いて深呼吸、黒いリュックを肩から降ろしてを床に叩きつけた。


「あああああああああああああああっっ!!」


 自分以外誰もいない家で叫ぶ。


 あまりにも愚かで自分勝手な考えを踏み付けるようにして。


 いきなり叫んだせいで、喉が尖り咳き込んだ。構わず声を上げる。喉が枯れる勢いで叫んでふらふらとした足取りでベッドに倒れ込んだ。


 今日一日の学校生活で××がいない事がハッキリした。いないというのは物理的にではなく、根本的にいないという事だ。


 原因は四回目のイエローブースター。回数限界を超えて使用したせいで、あり得ないバグを起こしたのだ。その結果、××の存在を消失させた。


 殺したとは違う。それはまだこの世に痕跡がある。


 ところが消失は痕跡がない。クラスメイトにも忘れられて、初めから無かった事にされる。


 全部、自分のせいだ。


 体勢を仰向けにして右手を上げる。今日はまだ一回も使っていないから、使えるはずだ。


 目を瞑って奇跡を願う。


 もし例えば、昨日消してしまった××が元に戻ったら。


 あとは、言葉を呟きながら右手を振り下ろせばいい。


「イエローブース……」


声が震えてこれまで何度も口にした奇跡の名称を言い切る事が出来ず、右手は動力を失ったかのようにベッドに落ちた。


 ボスンっと地味な音が部屋に響く。


 使える訳がなかった。使えばどんな影響が出るか分からない。今でも充分最悪なのにこれ以上の事が起こった場合を考えるととても口が動かない。


 奇跡を使わずに××を助ける方法。そんなものあるものか。


 糸口すら見つからない問題に投げやりなため息を空中に吐き出す。自分の口から出た二酸化炭素が部屋に霧散して消える。言ってしまえばこの息が××のようなものだ。いや、違うか。まだ二酸化炭素はしばらくは残るものな。


「空気は残る……、けど××は残らない……」


 考えがそのまま口が出る。完全に混乱している証拠だ。


 現実と夢の境目にいるような感覚の中、ふいにポケットにある携帯電話が振動した。その振動が曖昧だった意識を現実へ戻す。


 投げやりな気持ちで携帯電話を取り出す。サブディスプレイにはメール受信の文字があった。


 携帯電話を開く。ディスプレイの明るさでいつの間にか部屋が暗くなっている事に気付いた。まだ若干の眠気を持った状態で白い明るさに目を細めながら相手を確認する。


 送信者の名前を確認すると、体中に電気が走った。


「っ!?」


 反射的に跳ね起きる。眠気は完全に消え去った。


 ベッドから立ち上がり、もう一度受信メールの相手を確認する。相手は今日一日ずっと探していた××からだった。


 心臓が早鐘を打つ。緊張で手が震えて上手くボタンが押せない。震える手をどうにか抑えて開くと、そこには××の本音が記されていた。


『前に住んでいた地域に帰りたい。


 どうしたら、帰れるのか。


 毎日辛いだけ。


 住んでいた所からの友達からのメールの返信も最初は来ていたのに次第に来なくなった。


 どうして? もう会話に入れなくて面倒になった?


 学校の皆に陰口を言われているのを知っている。知っているけど、自分はココでは一人。ただ、笑って知らないフリをするしか出来ない。そうしていれば取り敢えず周りも付き合ってくれる。だから止める訳にはいかない。笑わないと、皆と一緒にいないと——』


 そこまで読んで一旦、目を瞑った。


 メールの送信日時は昨日。おおよそ××が駆け出した時間だった。そう言えば、あの時に携帯電話に着信はあったけど、今の今まで忘れていた。


 イエローブースターが原因なのは分かるけど、どうして今になって?


 疑問は湯水のように湧くが、正直そこは些細な事。


 問題は、××のメールの内容だ。おそらくずっと前から用意していたメールをあのタイミングで送信したのだろう。全てが終わった時、自分が読むと考えて。結果的には少し遅くなったが、それは達成された訳だ。


「ははっ」


 乾いた空虚な笑いが口から勝手に出る。


 無防備な心を知らない誰かの両手でワシ掴みにされている気分だった。


 ××の訴えをあの学校で理解出来るのは、間違いなく自分だけだ。


 前の学校の友人と距離が離れていく苦しみ。


 それを××は既に乗り越えていると思っていた。


 乗り越えて新しい学校で新しい友人関係を構築していると。


 しかしそれは間違いだった。××は最初から乗り越えてなどいなかった。


 全部、全部我慢していたのだ。


「今更気付くなんて、本当に馬鹿だな……」


 こんな事になるなら帰る時だけじゃなくて、普段からも話せば良かった。そうすればお互いの現状を理解し合ってこんな事にはならなかったはずだ。


 もうどうにもならない事を後悔しながら、再度携帯電話を開き、残りのメールに目を通す。そうして、全ての文章を読み終わると、小さく息を吐いてデスクへと向かう


「ふぅ」


 イスに座り、ライトを点けた。黒いリュックからルーズリーフを取り出して、シャーペンを握る。


 それからルーズリーフに××の事を書き始めた。


 出会いから今に至るまでを一つの物語のように丁寧に書き綴る。


 数時間後、丁寧に一連の出来事を書き記して完成したルーズリーフは隙間なくビッシリと書かれており、真っ黒になっていた。


 書き綴ったそれを一回読んでから、四つ折りにしてデスクの引き出しへしまう。原始的だが自分の字で書いた記録が一番信用出来る。


 今日の学校での周囲の反応から××の存在は忘れられている。客観的に考えて自分だけが覚えている保証はない。あのイエローブースターがどういう効果を示すか分からない以上、常に最悪を想定しておくべきだ。


 引き出しの一番奥にそれを入れてから、ライトを消してベッドへ入る。部屋が真っ暗になると、自然と思考はマイナス寄りになる。


 もしかしたら××の両親は覚えているかも知れない。突然、自分の子供が消えてしまって、誰も存在を覚えていなかったら、どれだけ悲しむのだろうか。その苦しみはとても計り知れない。


 ルーズリーフで××の事を書いた直後なのもあって、一度、スイッチが入るとブレーキを忘れて思考は加速し続ける。


 だけど、そんな事を考えられるのも今夜が最後だ。


 自虐的な笑みが溢れる。そして目を瞑った。元々部屋が暗いから、目を閉じても閉じなくても視界の明るさは変わらなかった。


 もし例えば、あのルーズリーフの内容を再び読む時まで忘れられたら。


 そう考えて右手を振った——。 

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